【第1話】時計台は緑色
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西宮北口駅。阪急電鉄神戸線と、今津線が接続するこの駅は、西宮市内でも随一の乗客数を誇る。大型のショックピングモールも近隣にあり、他交通機関との接続もよく、その利便性は目を引く。郊外は適度に緑にあふれ、不動産会社が独自に行うランキングでも、「関西の住みたい街第一位」の名をほしいままにしている。
その西宮北口駅を、一歩出たところに、門司佳織は立っていた。
平日の午前中とあって、人の往来はまばらだ。ラウンド型のバス停が特徴的な南西口と違い、北西口に特筆すべきものは少ない。「にしきた公園」と名づけられた広場があるのみだ。公園といっても、遊具があるわけではない。高木が二本ほど生い茂り、その奥には先端がとがる緑色の時計台があるのみだ。
それでも、佳織は落胆することはなかった。
高木の下のベンチで、祖母とその孫と思しき子供が座っている。子供はソフトクリームを舐めながら、「美味しいね」と、祖母に満面の笑みを向けていた。今日のような真夏日に食べるソフトクリームは、さぞ美味なことだろう。
その光景は、佳織にこれからの旅が好ましいものになると、予期させるには十分だった。
西宮北口駅なら電車であれば、一時間に六本は来る。
佳織は、少し駅前を散策することにした。にしきた公園に入り、祖母と子供に優しく微笑む。子供は、手を振って返してくれた。
「あの、すみません。写真を撮ってもらえませんか」
時計台のそばを通りかかろうとしたとき、佳織は声をかけられた。
声の方を見ると、佳織よりは身長が一〇センチメートルほど低いであろう黒髪の女性が、申し訳なさそうにスマートフォンを差し出している。眉が薄いわりに、目ははっきりとした二重だ。鼻梁がスッと通っている。柔らかそうな唇から発せられる言葉は、多くの人間を引き付けるだろう。目の前の小柄な女性から、ほのかな色香を佳織は感じた。
思わず、黙ってしまう。
「あの、写真大丈夫ですか」
女性がもう一度尋ねてくる。佳織は少し呆然としながらも、「大丈夫ですよ」とスマートフォンを受け取っていた。
適切な距離を取り、写真を撮ろうとすると女性は、「ちょっと待ってください」と時計台の側面に移動した。誰に見られているわけでもないのに、身をかがめて移動する女性を、佳織は少し微笑ましく思った。
彼女は時計台にはめ込まれたプレートの横に立ち、「お願いします」と佳織に告げる。佳織は定型句を発して、シャッターボタンを押す。
写真の中の女性は、惜しみない日光に照らされ、いっそう輝いているように見えた。
「ありがとうございます」
柔らかい口調で、女性はスマートフォンを佳織から回収した。何度も頭を下げられる。佳織からなかなか離れようとはせず、とっさに佳織の方から声をかけていた。
「いえいえ、大したことないですよ。ここへは旅行かなんかで、来られたんですか」
「そのようなものです。もしかして、こちらの方ですか」
「いえ、あたしもただの観光客です。会社に有休をとって、平日やのにやってきちゃいました」
「それは良かったですね」
女性の表情に、少し雲がかかったように、佳織には見えた。
「あの、私そろそろ行きますんで、この度は本当にありがとうございました」
また三回ぐらい頭を下げてから、女性は斜め前の路地に去っていった。角を曲がってすぐその姿は見えなくなる。高木にセミがしがみついて鳴いていた。どこにいっても、ジリジリという鳴き声は同じだ。
照り付ける日差しを浴びながら、佳織は女性が去った路地とは、違う方向へと歩き始めた。背後に、電車が入線する音を感じながら。
にしきた公園から北へ向かって、佳織は歩いた。歩きながら、今朝、コンビニエンスストアのおにぎりを食べた以外は何も食べていないことを、急に思い出す。
気づいたら、交差点に辿り着いていた。辺りを見渡すと、茶色の幕に白文字で「自家焙煎珈琲豆」と書かれているのが見える。
スマートフォンを見ると、もう十一時をとうに越していた。これは頃合いだろう。
止まれの道路標識を気にせずに、喫茶店に近づく。吸い上げるような暑さから離れようと、佳織は扉を引いた。
一歩足を踏み入れると、心地よい冷房の風が佳織を迎えた。竹林のような、ちょうどいい涼しさだ。横にある麻袋から立ち上るコーヒー豆の匂いが、優しく鼻腔を刺激する。店内を見渡すと、茶色の椅子が安心感を、木目調の机が懐かしさを、真っ白な壁が清潔感を与えてくる。
そのどれもが佳織にとっては好感触で、暑苦しい外の空気とは一線を画す。
店員に「お好きな席をどうぞ」と言われて、佳織は机を挟んだ二人席、その壁際に座った。カウンターに座ってもいいのだが、より冷房の風が当たる場所を選んだ結果である。
一一時三〇分からのランチメニューを眺め、少し悩んだ末、七五〇円のミックスサンドイッチセットを佳織は注文した。セットのドリンクはアイスエスプレッソ。
サイフォンの鳴る音が、寄せては返す波のように聞こえている。
少し待っていると、ミックスサンドイッチよりも先に、アイスエスプレッソが運ばれてきた。丸みを帯びた八角形のグラスに、水滴がぽつりと滴っている。佳織は、水滴を指で伝った。そして、手が濡れることも厭わずにグラスを持ち、アイスエスプレッソを口に運ぶ。
ほろ苦さの奥に広がる、香ばしい風味。火照った体に、浸透する涼気。
佳織は口を結んで、妙味を噛みしめる。
その瞬間、鐘の音とともに扉が開けられた。
(続く)