【第27話】しまいにしようや
三人とも立ち止まっていた。バカみたいに何も言わなかった。それでも、人の往来は止むことがなく、ペデストリアンデッキから、間抜けな自分たちを見下ろされているようで、佳織は気分悪く思った。
最初に口を開いたのは、蚊帳の外にいる女性だった。伊藤をミツくんと呼んだ二十歳そこそこの女性だ。
「ミツくん。こん人、誰?もしかして、ウチ以外に付き合うとる人おるん?」
女性の声は舌足らずで、上ずっていた。計算高く、頭の悪い女を演じているといった印象が、佳織にはあった。
「すまん、ミナコ。ちょい待っとって。今終わらせたるから」
終わらせるって何をだよ。好青年を気取っておいて、二股掛けていましたって暴露することか。その必要はない。見たら分かる。
佳織は、頭に浮かんだ考えを拒絶した。
「なぁ、カオリ。この八ヶ月間どうやった?」
「どうやったもなんもないわ。まず、あたしの質問に答えてや。あの女は誰なん?会社の同僚?もしそうやとしても、こないあからさまにする必要あらへんやん。気ぃ悪いわ」
「質問を質問で返しとったら、会話進まへんやろ。俺ははっきりしたいわ。なぁ、自分はこの八ヶ月間、何を考えとった?会えへん間、何を思っとってた?」
変なところで、強情になる伊藤。確かにこのまま平行線というわけにもいかない。
佳織は一つため息をついて、仕方なく答えを捻り出した。
「何考えとったって、そら寂しかったに決まっとるやろ。いつもみたいに起きて、ご飯食べて、仕事して。せやけど、いつもどっか満たされてへんかった。いーちゃんがおらんようになって、心にぽっかり穴が開いた気分やった。せやから水差されたとしても、会えたこと自体は嬉しい」
「そか」
伊藤は頭を何度か掻いた。困ったときにする癖である。そのはぐらかし方はとても下手で、いつも佳織に見抜かれている。だから、正直に言ったほうがいいとでも思ったのだろうか。伊藤はこう告げた。
佳織の目を真っすぐ見て、逃げずに。
「カオリ、俺たちもうしまいにしようや」
「それって、つまりは別れるいうこと?」
想定しなかった言葉は、佳織の胸を深く刺した。あの女は上司か何かの娘で、仕事のために仕方なく付き合っているんだろう。そういった希望的観測は粉々に打ち砕かれた。戸惑いよりも先に、言葉が出る。
「え、何言うとんの?しまいにするて嘘やん。冗談やん。全く笑えん冗談やけど、本気で言うてるわけちゃうやん」
「いや、本気や。俺はあそこのミナコさんと付き合う。やっぱ二人同時に付き合ういうんは、ええことちゃうしな。筋を通さなあかんなって」
「筋を通すいうんは、一度付き合うたら、他の人とは、付き合わんってことちゃうん?それが正しい彼氏彼女の関係やんか。筋の通し方、間違うとんで」
「だって、もうしゃあないやろ。好きになったもんは。目ぇ背けとっても、あらへんことにはでけへんわ」
「ほな何?あたしよりも、あの女を選ぶん?あない『今まで男に好きなだけ甘やかされて育ってきた』みたいな、いかにも温室育ちな女を選ぶん?あたしが、あの女に劣っとるとこて何?そないあらへんやん!」
自分が声高に張り上げていることに、佳織は気づいていなかった。道を行く何人かが、佳織たちに注目していたけれど、そんなこと構ってはいられない。「カオリ、声大きいで」という伊藤の宥めが、さらに佳織に火をつける。
「あたしら、三年も付き合っとるんよ?何度も同じ時間を共有したやん?それが何?広島に来てから出会うた、あんなぽっと出の女に靡いとんの?出会うて一年も経ってへん女の方がええんや?あたしらの三年間は、たった一年に負けるような軽いものやったんや?あない愛玩動物みたいな女に、まんまと取り込まれて!恥ずぅないん?」
「うっさいねん、自分!彼女を悪う言うなや!」
今度は、伊藤がいきなり激昂した。上がった目じりに怒りが滲んでいる。
伊藤の言う「彼女」はもう自分ではなく、あの女だ。そのことに気づいたとき、佳織の怒りは急速に萎んでいった。伊藤を構築するパーツから自分が外れたことが、二文字だけで分かった。
ふと、佳織はミナコと呼ばれた女性を見てみた。ただでさえ小さい体を丸めて、怯えている表情をしている。演技なのかは、どうでもいい。
「自分はさ、自分のことが大事すぎんねん!いっつもいっつも自分のペースに持ち込もうとしよって!ラインも毎晩毎晩飽きずに送って来よぅて!俺は、もう自分とおんのに疲れたわ!せやから、別れる言うとんの!」
高速バスから降りた客が、二人の怒号に驚いていた。そのことを察知してか、二人の熱はいったんは収まる。
「あたしは自分のことが大事なんて、一度も思たことないで。あたしはいーちゃんのことが何より大事やし、サッカー観戦かて付き合うたったやん。それにこまめに連絡とんのは、それくらい好きいう証しちゃうん」
「それがしんどいねん。疲れんねん。それに「付き合うたった」って何や。上から目線やん。彼氏の趣味に理解ある自分、偉いでしょアピールか?邪魔くさいわ、そない自分本位の考え方」
「せやけど、自分を持っとらんかったら、迷子になるやん。自分があんのって全然悪いことちゃうやろ」
「自分はそれが強すぎんねん。正直、俺はもっと慎ましい子がタイプなんや」
「それがあの女なん」
「次、あの女言うたら、このクッキー放るで」
伊藤はクッキーを、佳織の前に持ち出した。冗談でないのは、誰にだって分かる。
「自分とちゃうくて、彼女は自己主張あんま激しないからなぁ。一緒におるとなんか落ち着くんや。それに彼女、あんまはっきり物事言えるタイプちゃうから、俺がおらんと不安なんや」
「守ってやりたいいう願望を、刺激されたんか。上から目線の身勝手な願望を」
「ちゃうて。彼女は俺を頼っとるいう話や。自分が一度でも、俺を頼ろうとしたことあったか?自分で何でも決めて、サクサク進めおって。自分は俺がおらんでも大丈夫ちゃうんか。自分は強いもんなぁ。ちゃんと自分を持っとるもんなぁ」
黙ってしまう佳織。伊藤はクッキー缶を、佳織に押し付ける。
受け取りたくない。受け取ったらすべてが終わってしまう。だが、伊藤の目は初めて見るほど真剣で、佳織はクッキー缶を受け取るしかなかった。
「せやから、俺もう行くわ。まあ俺が言うセリフちゃうけど、これから頑張ってな」
「ほんまにいーちゃんの言うセリフちゃう」 その言葉さえ、佳織からは出てこなかった。ただ、伊藤が去っていく音を、俯きながら聞いていた。
伊藤の履いている靴は、二人でいたときには見たことがないスニーカーだった。きっと新しいスニーカーで、ミナコとかいう女との思い出を、一歩一歩刻んでいくのだろう。私といたときに履いていたスニーカーは、ゴミ箱行きか。何もかも燃やされるのか。
佳織はその場から、動くことができなくなった。
往来する人の流れは、夕方になってますます増えている。誰もが自分のことに忙しそうで、佳織を見ないか、見たとしても知らんぷり。
西日は眩しさを増し、たった今彼氏に振られたばかりの、惨めな女を照らしている。
不思議と涙は出なかった。そのことが自分の伊藤に対する思いを表しているようで、佳織をより責め立てる。
全ては些細な夏の日のことだった。
たとえそれが佳織と伊藤の、三度目の交際記念日であったとしても。
***
大ホール。
高く段階式となった天井に、サラウンドスピーカから発せられた、音の波が響き渡る。舞台上では、地域の伝承にまつわる短編アニメーションを上映している。字幕なしでウクライナ語を理解している観客は、いったい何人いるだろうか。固唾を飲んで見守る者もいれば、大股を広げて腕を組んでふんぞり返っている者も、呑気に欠伸をしている者もいる。
多様な鑑賞体験が、広いホールに詰め込まれている。
外廊下。
大階段をシャンデリアが照らす。入り口にあるのはマスコットキャラクターの風船だ。入場者を迎え、退場者を送り出す。人の往来は常に流動的で、一時として同じ瞬間はない。
簡易的な白い椅子に老婆と、その孫らしき子供が腰を下ろした。清涼飲料水を飲みながら、他愛のない話を繰り広げている。
貸会議室。
学生が制作した短編アニメーションが上映されている。鑑賞するのもほとんどが学生だが、稀に大人も混じる。サングラスをかけた男性が、橙の椅子に座っている。顎に手を当てながら、三分にも満たないアニメーションを鑑賞し、何やら学生に話しかけた。学生は手を叩いて喜ぶ。
五日間続く映画祭。佳境に入るプログラム。
そのどこにも、梨絵の姿はなかった。
(続く)




