表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/35

【第27話】しまいにしようや



 三人とも立ち止まっていた。バカみたいに何も言わなかった。それでも、人の往来は止むことがなく、ペデストリアンデッキから、間抜けな自分たちを見下ろされているようで、佳織は気分悪く思った。

 最初に口を開いたのは、蚊帳の外にいる女性だった。伊藤をミツくんと呼んだ二十歳そこそこの女性だ。


「ミツくん。こん人、誰?もしかして、ウチ以外に付き合うとる人おるん?」


 女性の声は舌足らずで、上ずっていた。計算高く、頭の悪い女を演じているといった印象が、佳織にはあった。


「すまん、ミナコ。ちょい待っとって。今終わらせたるから」


 終わらせるって何をだよ。好青年を気取っておいて、二股掛けていましたって暴露することか。その必要はない。見たら分かる。

 佳織は、頭に浮かんだ考えを拒絶した。


「なぁ、カオリ。この八ヶ月間どうやった?」


「どうやったもなんもないわ。まず、あたしの質問に答えてや。あの女は誰なん?会社の同僚?もしそうやとしても、こないあからさまにする必要あらへんやん。気ぃ悪いわ」


「質問を質問で返しとったら、会話進まへんやろ。俺ははっきりしたいわ。なぁ、自分はこの八ヶ月間、何を考えとった?会えへん間、何を思っとってた?」


 変なところで、強情になる伊藤。確かにこのまま平行線というわけにもいかない。

 佳織は一つため息をついて、仕方なく答えを捻り出した。


「何考えとったって、そら寂しかったに決まっとるやろ。いつもみたいに起きて、ご飯食べて、仕事して。せやけど、いつもどっか満たされてへんかった。いーちゃんがおらんようになって、心にぽっかり穴が開いた気分やった。せやから水差されたとしても、会えたこと自体は嬉しい」


「そか」


 伊藤は頭を何度か掻いた。困ったときにする癖である。そのはぐらかし方はとても下手で、いつも佳織に見抜かれている。だから、正直に言ったほうがいいとでも思ったのだろうか。伊藤はこう告げた。

 佳織の目を真っすぐ見て、逃げずに。


「カオリ、俺たちもうしまいにしようや」


「それって、つまりは別れるいうこと?」


 想定しなかった言葉は、佳織の胸を深く刺した。あの女は上司か何かの娘で、仕事のために仕方なく付き合っているんだろう。そういった希望的観測は粉々に打ち砕かれた。戸惑いよりも先に、言葉が出る。


「え、何言うとんの?しまいにするて嘘やん。冗談やん。全く笑えん冗談やけど、本気で言うてるわけちゃうやん」


「いや、本気や。俺はあそこのミナコさんと付き合う。やっぱ二人同時に付き合ういうんは、ええことちゃうしな。筋を通さなあかんなって」


「筋を通すいうんは、一度付き合うたら、他の人とは、付き合わんってことちゃうん?それが正しい彼氏彼女の関係やんか。筋の通し方、間違うとんで」


「だって、もうしゃあないやろ。好きになったもんは。目ぇ背けとっても、あらへんことにはでけへんわ」


「ほな何?あたしよりも、あの女を選ぶん?あない『今まで男に好きなだけ甘やかされて育ってきた』みたいな、いかにも温室育ちな女を選ぶん?あたしが、あの女に劣っとるとこて何?そないあらへんやん!」


 自分が声高に張り上げていることに、佳織は気づいていなかった。道を行く何人かが、佳織たちに注目していたけれど、そんなこと構ってはいられない。「カオリ、声大きいで」という伊藤の宥めが、さらに佳織に火をつける。


「あたしら、三年も付き合っとるんよ?何度も同じ時間を共有したやん?それが何?広島に来てから出会うた、あんなぽっと出の女に靡いとんの?出会うて一年も経ってへん女の方がええんや?あたしらの三年間は、たった一年に負けるような軽いものやったんや?あない愛玩動物みたいな女に、まんまと取り込まれて!恥ずぅないん?」


「うっさいねん、自分!彼女を悪う言うなや!」


 今度は、伊藤がいきなり激昂した。上がった目じりに怒りが滲んでいる。

 伊藤の言う「彼女」はもう自分ではなく、あの女だ。そのことに気づいたとき、佳織の怒りは急速に萎んでいった。伊藤を構築するパーツから自分が外れたことが、二文字だけで分かった。

 ふと、佳織はミナコと呼ばれた女性を見てみた。ただでさえ小さい体を丸めて、怯えている表情をしている。演技なのかは、どうでもいい。


「自分はさ、自分のことが大事すぎんねん!いっつもいっつも自分のペースに持ち込もうとしよって!ラインも毎晩毎晩飽きずに送って来よぅて!俺は、もう自分とおんのに疲れたわ!せやから、別れる言うとんの!」


 高速バスから降りた客が、二人の怒号に驚いていた。そのことを察知してか、二人の熱はいったんは収まる。


「あたしは自分のことが大事なんて、一度も思たことないで。あたしはいーちゃんのことが何より大事やし、サッカー観戦かて付き合うたったやん。それにこまめに連絡とんのは、それくらい好きいう証しちゃうん」


「それがしんどいねん。疲れんねん。それに「付き合うたった」って何や。上から目線やん。彼氏の趣味に理解ある自分、偉いでしょアピールか?邪魔くさいわ、そない自分本位の考え方」


「せやけど、自分を持っとらんかったら、迷子になるやん。自分があんのって全然悪いことちゃうやろ」


「自分はそれが強すぎんねん。正直、俺はもっと慎ましい子がタイプなんや」


「それがあの女なん」


「次、あの女言うたら、このクッキー放るで」


 伊藤はクッキーを、佳織の前に持ち出した。冗談でないのは、誰にだって分かる。


「自分とちゃうくて、彼女は自己主張あんま激しないからなぁ。一緒におるとなんか落ち着くんや。それに彼女、あんまはっきり物事言えるタイプちゃうから、俺がおらんと不安なんや」


「守ってやりたいいう願望を、刺激されたんか。上から目線の身勝手な願望を」


「ちゃうて。彼女は俺を頼っとるいう話や。自分が一度でも、俺を頼ろうとしたことあったか?自分で何でも決めて、サクサク進めおって。自分は俺がおらんでも大丈夫ちゃうんか。自分は強いもんなぁ。ちゃんと自分を持っとるもんなぁ」


 黙ってしまう佳織。伊藤はクッキー缶を、佳織に押し付ける。

 受け取りたくない。受け取ったらすべてが終わってしまう。だが、伊藤の目は初めて見るほど真剣で、佳織はクッキー缶を受け取るしかなかった。


「せやから、俺もう行くわ。まあ俺が言うセリフちゃうけど、これから頑張ってな」


「ほんまにいーちゃんの言うセリフちゃう」 その言葉さえ、佳織からは出てこなかった。ただ、伊藤が去っていく音を、俯きながら聞いていた。

 伊藤の履いている靴は、二人でいたときには見たことがないスニーカーだった。きっと新しいスニーカーで、ミナコとかいう女との思い出を、一歩一歩刻んでいくのだろう。私といたときに履いていたスニーカーは、ゴミ箱行きか。何もかも燃やされるのか。

 佳織はその場から、動くことができなくなった。


 往来する人の流れは、夕方になってますます増えている。誰もが自分のことに忙しそうで、佳織を見ないか、見たとしても知らんぷり。

 西日は眩しさを増し、たった今彼氏に振られたばかりの、惨めな女を照らしている。

 不思議と涙は出なかった。そのことが自分の伊藤に対する思いを表しているようで、佳織をより責め立てる。


 全ては些細な夏の日のことだった。

 たとえそれが佳織と伊藤の、三度目の交際記念日であったとしても。



***


 

 大ホール。

 高く段階式となった天井に、サラウンドスピーカから発せられた、音の波が響き渡る。舞台上では、地域の伝承にまつわる短編アニメーションを上映している。字幕なしでウクライナ語を理解している観客は、いったい何人いるだろうか。固唾を飲んで見守る者もいれば、大股を広げて腕を組んでふんぞり返っている者も、呑気に欠伸をしている者もいる。

 多様な鑑賞体験が、広いホールに詰め込まれている。


 外廊下。

 大階段をシャンデリアが照らす。入り口にあるのはマスコットキャラクターの風船だ。入場者を迎え、退場者を送り出す。人の往来は常に流動的で、一時として同じ瞬間はない。

 簡易的な白い椅子に老婆と、その孫らしき子供が腰を下ろした。清涼飲料水を飲みながら、他愛のない話を繰り広げている。


 貸会議室。

 学生が制作した短編アニメーションが上映されている。鑑賞するのもほとんどが学生だが、稀に大人も混じる。サングラスをかけた男性が、橙の椅子に座っている。顎に手を当てながら、三分にも満たないアニメーションを鑑賞し、何やら学生に話しかけた。学生は手を叩いて喜ぶ。


 五日間続く映画祭。佳境に入るプログラム。


 そのどこにも、梨絵の姿はなかった。



(続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ