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【第26話】水を差す



 ペデストリアンデッキから、金色に輝く像が見えた。二人の男女が手を空に向けていて、横で少年がラッパを吹いて囃し立てている。佳織が階段を下りて、銅像の前まで行くと、石碑に「朝」と書かれていた。

 ここだ。伊藤が指定した待ち合わせ場所は。佳織は念のため、約束の時間よりも一時間早い三時に、像の前に到着していた。駅前は大きな駐車場になっていて、奥にステーションビルが見える。反対側の道路から、高速バスが出発していく。

 レンガ色のタイルを眺めながら佳織は、伊藤を待った。しばらく経ったかなと思い腕時計を見ると、まだ五分しか経過していなかった。


 何度も時計を確認しながら、佳織は伊藤が来ないか辺りを見回した。もともと時間にルーズなところがある伊藤が、待ち合わせ時間より早く来るとは思えなかったが、それでも佳織はあちこちに視線を送る。

 太陽が西に差し掛かってきて、昼間より眩しい。


 そうして手持ち無沙汰な時間を過ごしていると、上から佳織を呼ぶ声がした。見上げると、ペデストリアンデッキから伊藤がこちらを見ていた。八ヶ月ぶりに会う伊藤は、髪が少し長くなっている。

 佳織が手を振ると、伊藤も手を振り返した。少し目を伏せてぎこちない振り方だった。たぶん久しぶりに会うから緊張しているのだろう。別に構える必要なんてないのに。佳織はそう好意的に解釈した。

 伊藤が階段を下りてきて、佳織の前に歩み寄る。

 

「カオリ、久しぶりやな。元気しとった?」


「あたしは相変わらずや。仕事もそこまでしんどないし、穏やかに過ごせとるわ。いーちゃんが側におらんのは、少し寂しいけどなぁ」


「こっちも、転勤してすぐの忙しのう時期を乗り切って、ようやっと落ち着いてきたとこや。せやけど、カオリにはちょい寂しい思いをさせてもうたな。ほんま、すまんな」


 伊藤の返答に佳織は笑みをこぼした。声が少しかすれているのは、昨日、精一杯応援をしてきたからなのだろう。明日彼女に会うというのに、そんなことは全く気にしないのが伊藤らしい。


「どないしたん?俺、なんかけったいなこと言うたか?」


「いや、いーちゃん、変わってへんなあって。すぐ謝る癖も、大阪弁のイントネーションも、最後に会うたときのままやったから。安心したわ」


 佳織はハンドバッグから、ラッピングされたケースを取り出して、伊藤に差し出す。


「はいこれ、いーちゃんが好きやったコバトのクッキー。今じゃネットでも買えへんくらいの人気でね。わざわざお店まで行って、買うてきたんよ」


「ありがとな。ほんま、嬉しい。たまにこのスパイシーな味が、欲しゅうなるんや」


「あたしの分も買うてあるから、あとで一緒に食べよな。いーちゃんの部屋って、今日は入れるんやったっけ?」


「なぁ、カオリ。そのことなんやけど……」


「どないしたん?」


 ふと温い風が二人の間を吹き抜けた。伊藤の視線は定まっていない。横を向いたり、タイルを見たり。何かを言いよどんでいるようだ。

 ただ、この様子は大阪にいたときにもなかったわけではない。だから、佳織はいつものことだと気にも留めなかったし、伊藤が「やっぱええわ」と言ったのも、大して引っ掛からなかった。


「せや。いーちゃん、あたしに広島を案内してくれへん。八ヵ月もおったら、広島にもだいぶ詳しゅうなったやろ。広島城?平和祈念公園?それとも、もっとマイナーなとこ?いーちゃんが連れてってくれんなら、あたしどこでもええよ」


 「ほな、まずは広島城にでも行こか」。伊藤の言葉に、佳織がうなずいたその時だった。駅の方から軽々しい声がしたのは。


「あー!ミツくんおったー!」


 声の主は二人に駆け寄ってくる。ただ、佳織の姿を見ると、ぱったりと足を止めた。佳織の動きも止まってしまう。

 目の前に立っていたのは女性だった。佳織よりも若く小柄で、薄水色のワンピースを着ている。庇護欲を掻き立てられそうな、佳織とはまるで違うタイプの女性が立っていた。


 佳織は不躾にも感じた。誰だ、この女は、と。





 広島国際アニメーションフェスティバルは二年に一度、広島市のJMSアステールプラザで開催されるアニメーション映画祭だ。一九八五年に創設され、二〇二〇年の今回で、開催は実に一八回を数える。

 コンペティション部門には全世界から、二〇〇〇を超える作品が集まり、グランプリを受賞した作品は、米国アカデミー賞の審査対象にもなる。

 作品外の展示も充実しており、前回の開催期間中には、のべ三万人以上の入場者数を数えた、国内きっての短編アニメーション映画祭である。


 上映が終わり、ホール内に電気が灯る。束の間の休憩時間。赤い椅子に座っていた観客が、まばらに立ち上がる。外に向かう人もいれば、座ったままで感想を言い合っている人たちもいる。蒸し暑い外とは違ってホール内は涼しいが、神妙な熱気が充満しているように、梨絵には感じられた。映画館で観る映画ともまた違った雰囲気だ。

 外国からの来場者も多く、英語や中国語なども聞こえる。その国際色が緩くも厳密な空気を作り出している。相反する要素が混ざったこの空間は、ある種の混沌と、表現してもいいのかもしれない。そう梨絵は感じた。


 梨絵はトイレに行くために席を立つ。一歩外に出てみると、老若男女、人種も国籍も問わない人々が通路を行き交っている。

 共通していることはアニメに関心を持っているということ。アニメーション産業に従事しているいないに関わらず、これだけの人がアニメを見に集まってくれている。そのことが梨絵を安心させた。アパートのワンルームでアニメを見ていた自分でも、広い世界につながっているように感じて、口元が緩んでしまう。


 トイレはやはり混んでいて、梨絵が再びホールに入ったときには、もう次の作品が上映されていた。この映画祭は毎回、国ごとに特集が組まれる。前回はエストニア。前々回はハンガリー。そして、今年はウクライナだった。

 スクリーンの映像はホラーテイスト。つぎはぎだらけのぬいぐるみが、寝静まった街を歩いている。風の音がいかにもおどろおどろしい。梨絵はホラー映画が苦手で、しかも作品はちゃんと最初から見たいタイプでもある。開けかけたドアをそっと閉じ、次の休憩時間まで、外の展示を見て回ることにした。


 映画祭は実にいろいろなプログラムが展開されている。プロのアニメーション関係者のための交流スペースもあれば、アニメーション制作を学ぶ学生が作品上映をできる機会もある。展示スペースにはアニメーションの原画や、戦時中を記録した写真が並び、階段を下りてみれば休憩スペースも万全だ。


 だが、梨絵はどこを巡ってみても、心に引っかかるものがあった。橋の上で見た男女のことだ。

 私はあの男性を知っている。でも、どこで会ったのかは覚えていない。そのことがダムに沈む木片のように、梨絵の胸中に留まり続けた。

 何を見ても、作品を見ても、展示を見ても、人々とすれ違っても、心から離れない。


 考えていると、作品や展示はあまり頭に入ってこず、脳内に霧がかかったようだった。

 ただ、各所を巡っているうちに時間は経っていたようで、ホールのドアが開いて、来場者が出てくるのが見える。梨絵は入れ違いで中に入り、なるべく前方の席を選んで座った。

 外国からの来場者と思しき男性に挟まれて、少し気まずい。


 また、上映が始まる。スクリーンは慎ましい家族の光景を映している。梨絵は一息ついたが、それでも、懸念は消え去らない。あの男性は……。

 梨絵の頭は、突然閃く。記憶の断片がつなぎ合わされる。


 そうだ、あの男性を私は写真で見た。名前は確か伊藤さん。門司さんが彼氏と指さしていた人だ。

 その人が女性と歩いているということは……。


 梨絵の懸念はますます増した。

 作品が佳境に入っても、今の梨絵にはあまり関係がなかった。



(続く)

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