【第25話】変わってない
太陽は真上に差し掛かっている、らしい。今日も晴れて、惜しみなく日光を地上に振りまいている、らしい。らしいとしか言えないのは、見上げてみても、放射状に伸びる鉄骨の太陽しか見えないからだ。
それでも薄葉紙に透かしたように、満遍なく光が広がり、二人を包む。
二人は広島駅北口のペデストリアンデッキに立っていた。新幹線乗り場と直結しており、次から次へと人が出てくる。左右どちらを見ても、デッキは遠く延びていて、膜越しに柔和な光が差す。新幹線の広告看板の奥に、緑が鮮やかな山が見えた。
近代的だが、趣もしっかり残す駅前に、梨絵は好感を持った。
「すまんな、彼へのお土産を、ホテルに取りに戻ったら、こない遅なってもうて」
デッキの上の雑踏に、佳織の声は埋もれるようだったが、梨絵にはクリアーに聞こえていた。屋根の向こうの雲一つない空に、謝罪の言葉は似つかしくない。
「大丈夫ですよ。私もそんなに急いでいるわけじゃないですし」
「せやけど、もう映画祭始まっとるんやろ」
昨日、佳織が見たチケットには「9:00開場」と書かれていた。今は一一時過ぎだ。もう二時間以上も遅れてしまっている。
「確かに映画祭はもう始まってますけど、私が観たい映画は一二時三〇分開始なので、まだまだ時間に余裕があります。それに……」
「それに?」
佳織が聞き返す。梨絵は口ごもった。しかし、口を開いて言葉を紡ぐ。
「門司さんと、まだもうちょっとだけいたいなって、昨日ぼんやり思いました。今まで、家族以外の人と旅したことなかったので、久しぶりの旅行がまさか二人旅になるなんて、想像もしていなかったです」
今度は佳織が口ごもってしまう。
別に職場にもその外にも友達がいないわけではない。笑い話をできる友達もちゃんといる。
だけれど、「まだいたい」なんて言葉、伊藤以外には言われたことがなかった。実体のある言葉として贈られたのが、戸惑うほど嬉しい。
「正直、鉄道のことはよく分かんなかったんですけど、鉄道を見て、写真を撮る門司さんの顔は、とても輝いて見えて。純粋に好きがる仕草って見ているだけで、心が暖かくなるんだなって思いました。本当に好きなんですね、鉄道が」
「それいうたら、自分かてアニメ好きやん。舞台を訪れて、テンション上がっとる様子は、あたしには微笑ましゅう思えたけどなぁ」
「変わって見えませんでしたか……?」
「全然。自分が変わり者なら、人間誰かて変わり者や思う。もっと自分の好きに、自信を持ってええんちゃうかな」
正午が近づくにつれ、人の往来が増えてきた。だけれど、二人に目を留める者はいなかった。
「なぁ、あたしも映画祭行ってええかな。あたし、四時まで時間あるし」
「すいません、チケットもう完売しちゃったんですよ。無料で入れるブースもちょっとありますけど、それでもよかったら……」
「そか。じゃあ今回はええかなぁ」
二人は前を向いてしばし黙った。過ぎゆく人たちが風景の一部になったように梨絵には見えた。
やがて、佳織が切り出す。拍子抜けするほど、あっさりとした口調で。
「もうそろそろ、行かなあかんとちゃうの?」
「そうですね。時間を考えると。門司さん、ありがとうございました。二日とちょっと、一緒に旅ができて楽しかったです」
「そらこっちのセリフやって。あたしかて楽しかった。一人じゃ経験できんこと、ぎょうさん経験できて。ありがとうなぁ」
佳織がそう言い切ると、梨絵は軽く礼をして、踵を返そうとした。
思わず「待って」と発してしまう。無意識のせいだろうか。佳織は右手を差し出した。梨絵の顔を見る。戸惑いはなく晴れやかな表情だった。同じく右手を出して、佳織の手を握る。自分よりも体温が少し高い気がする。緊張しているのだろうと、甲斐甲斐しく思った。
握手を終えると、梨絵はまた軽く頭を下げて、今度は駅構内に向かって歩いていった。遠ざかっていく後ろ姿を、佳織は蜃気楼でも見るかのように眺めた。梨絵は振り返ることをせず、やがて人々に遮られて見えなくなった。南口に向かって歩いていく梨絵が、どんな顔をしていたのか。それは佳織には分からない。
それでも、分からなくていいこともこの世にはある。瞬間、立ち尽くした後、佳織は振り返って、ペデストリアンデッキを、真っすぐ階段に向かって歩いていった。佳織も振り返ることはしなかった。
真夏の太陽が燦燦と降り注いでいる。
信号が青に変わるのを、梨絵は木陰で涼みながら見ていた。歩き出すと、一台の自転車に追い抜かれる。真っ赤なTシャツが遠くなっていく。
梨絵は横断歩道を渡って、橋のたもとに辿り着く。手すりの先が半球体の石材になっていて、触ってみると熱を吸い取って、火傷しそうなほど熱かった。日陰のない橋の上は、放射熱で汗ばむほどの陽気だ。梨絵はハンカチで額を拭った。桜色のシンプルなハンカチ。
梨絵は橋の中ほどまで歩いて立ち止まる。ふと、横を向いてみる。
幅の広い川が運河のようにゆったりと流れている。川沿いに植えられた木々が身をせり出して、水面に葉を一枚ずつ散らしている。正面に見えるビルの上は、抜けるような青空だ。清々しい街だと感じた。
しかし、どこか悲しみを背負っている。感傷的にはならずに、この川のように当たり前に、流れている。きっと忘れずに受け継がれているのだろう。今ここに立っている自分が、決して当たり前ではないことを、梨絵は身をもって実感した。
さて、会場まではあと少しだ。梨絵は、また前を向いて歩き出そうとしたそのときだった。
目の前を若い男性が歩いてくる。茶色っぽい黒い髪に上がった目じり。サマーカーディガンを羽織ったその男性に、梨絵は薄っすらと見覚えがあった。隣には梨絵よりも背の低い女性が連れ添っている。腕に手を回して、気兼ねなく甘えている。
「なぁ、こっからどこいくん?」
「ミナコはどこか行きたいとこあるんか?」
「ウチゃミツくんが、行くとこなら、どこでもええよ」
「せやな。もうお昼近いし、とりあえずご飯食べよか。あとは映画でも見て、二人で過ごそうや」
「ほんま?ミツくん、優しなぁ」
すれ違いながら聞こえたのは、そんな会話だろうか。いかにもカップルらしい、歯の浮くような会話だ。それでも、今は彼氏のいない梨絵には、少し羨ましく感じた。話していてもつまらないと前の彼氏から振られた梨絵から見れば、中身のない話でも熱に浮かされて、笑いあっている様は、いくらかの羨望を覚える。
振り返ってみると、二人は変わらず並んで歩き、無駄な話を飽きずに続けていた。男性の方が時折見せる横顔に、梨絵はやはり見覚えがあったが、いくら考えても誰かは思い出せなかった。
分からないことはしょうがないと、梨絵は映画祭に考えを移し、また会場に向けて歩き出す。
正午を知らせるチャイムが、案外近くで鳴った。
(続く)




