【第23話】明後日
お好み焼き屋を出ると、町は静けさを増していた。斜め前に開けた土地があるのが見える。ぼんやりと地面に見えるロープは駐車場のためだろうか。
その奥には石段。真っすぐ山に向かって伸びていて、頂上には瓦屋根の門があった。明かりもなく、踏み外したらどこまでも落ちていってしまいそうだった。
梨絵はお好み焼き屋の明かりを背にして、マップを確認している。次の言葉は聞かなくても、なんとなく佳織には分かってしまう。
「やっぱり、『hitotose』のオープニングの最初に出てきた階段だ。西方寺っていうんだ。門司さん、上ってみましょうよ。上から竹原の夜景が見えますよ」
「やっぱり」は自分の台詞だ。今日はもう、けっこう歩いているはずなのに。梨絵は疲れていないのだろうか。佳織は訝しむ。返事をしないでいると梨絵が「門司さん、もしかして酔ってるんですか?」と聞いてくる。
中ジョッキを二杯空けただけで、酔ってはなるものか。瞼が少し重いけれど、断じて酔ってはいない。佳織はそう自分に言い聞かせた。
「大丈夫やって。あたしこう見えてもけっこうお酒には強いから。それに……」
「それに?」
夜景にも興味があると言うのは、佳織には少し気が引けた。耽美的な女じゃあるまいし、という自覚が邪魔をした。
「何でもないわ。ほら、行こうや」
階段の前に着くと、梨絵はインスタントカメラを構えて、佳織が少し登ったところを撮影した。「振り向いてください」と言う梨絵の声は弾んでいた。佳織は慎重に手すりを使いながら、一段一段確かめるように登ったが、梨絵はそんなこと気にしないといった様子で、階段の真ん中を軽やかに登っていった。
なので、先に登り始めた佳織よりも、梨絵の方が頂上には早く着く。梨絵が手をこまねくのを、佳織は五分前よりもぼけっとした頭で眺めていた。
門をくぐると、石畳が思いのほかしっかりと整備されていて、本殿まで伸びていた。境内は余計なものが何もなく、いたってシンプルだ。月の光に照らされた本殿は、荘厳という言葉が似つかわしい。
誘蛾灯のような室内の照明に、二人は吸い寄せられ、賽銭とともに簡単な参拝を済ませた。
何を願ったのかは、お互いに聞かなかった。
参拝を終えると、梨絵は境内を東に進む。その先にはまた階段。こうなったら、行くところまで行ってやる。一歩進むごとに、体に酔いが回っていくような気がしたが、佳織は負けずに登り続けた。梨絵も少し息が上がっている。境内には、二人の他には誰もいない。
息を切らしながら、階段を登り切ると目の前には、見上げるべき建造物があった。
上から照らす一筋のライトで、柱が赤いことが分かる。赤い柱に支えられた舞台が、空中にせり出すように建っていた。照らされた舞台は幻想的で、そこだけこの世界から切り取られているかのように佳織には思えた。この様式、どこかで見たような……。
「この建物は普明閣っていうみたいですね。『hitotose』で、ぽってが昔の友達を連れて行った場所です。こう見てみると清水寺に似てますよね。もちろん京都の」
「どうして分かったん?」
「だってマップに書いてありますから」
梨絵から渡されたマップを見てみると、確かに「京都・清水寺を模し」と書いてある。佳織は少し気恥しくなった。メジャーな観光地には、鉄道目当てだと意外と行かない。
すぐ横にも階段はあったが、梨絵は普明閣を通り過ぎていった。佳織もついていく。ふと横を向くと、人の背丈ほどもない塀の上から、家々の明かりが見え、佳織は思わず立ち止まる。雪のように白熱灯の光が降り積もっている。しまった。梨絵はこれを見せたかったのではないのか。
佳織は目を背けた。暗闇に消えそうな梨絵を走って追いかけた。
回廊を歩くと木がきしむ感覚が、ほんの少しした。夜風が通り抜ける。
梨絵は佳織を先に行かせて、回廊から舞台の写真を撮っていた。暗いけれどちゃんと撮れているのだろうか。佳織が聞くと、舞台に上がってきた梨絵は「『たまゆら』の再現ですよ。こういうのは雰囲気が大事なんです」と事もなげに言う。
二人は揃って前を向く。木の葉の向こうに、竹原の夜景が見えた。山に囲まれた町並みが、黒いキャンバスの上に煌めいている。
明かりの一つ一つは生活感の塊で、何ら変わったことはないはずなのに、こうして集まってみると、特別なように思えるのはどうしてだろう。平凡でありきたりな人々の暮らしは可視化されてみると、かように光り輝くのだ。
佳織は息を呑んだ。予定していた一人旅では、見ることのなかったであろう景色だ。
「綺麗ですね。夜空に負けないくらい」
梨絵が呟く。純粋な声だった。
「せやな。ささやかで、優しゅうて。夏の空気のせいやろか。とても暖かいわ」
佳織は、夜景を見たまま答える。言葉は宙に浮いて、そのまま消えていく。
「こういう風景を見ると、旅してるっていう実感が湧きますよね」
梨絵はインスタントカメラを構えた。夜景に向けて、シャッターボタンを柔らかく押す。もう一度押す。そして、もう一度。って、もしかして撮れていないのではないのか。
梨絵が不審そうに色々な角度からカメラを覗くのを見て、佳織はそう感じた。
「どうしたん?」と佳織が聞くと、梨絵は「写真が撮れないんです」と、予想通りの返答をよこした。梨絵からカメラをもらって見てみると、カウンターは0を指していた。梨絵の衝動的な撮影は、ペース配分を全く無視していた。
「残念やけど、もうこのカメラでは撮れへんなぁ。もう二七枚を、使い切ってもうたみたいや」
そう告げると、梨絵は落胆した様子を見せた。肩を落として、口をすぼめて。
浮かばれないので、佳織は自分のインスタントカメラを梨絵に貸した。数えていないが、まだ一〇枚ちょっとしか撮っていないはずだ。今回の分は持つだろう。
カメラを手にした梨絵は、佳織に感謝の言葉を述べ、夜景の撮影に戻っていった。佳織が収まる写真も、梨絵が収まる写真も交互に撮った。
どういう写真になっているかは、現像してみないと分からない。
しばらく経っても、梨絵は夜景にカメラを向けていた。その穏和な光景が佳織の口を開かせる。もしかしたら酔いが回り始めていたのかもしれない。
「自分、明日の映画祭が終わってもうたらどうするん?」
「どうしたんですか。門司さん、そんな急に」
戸惑った梨絵の反応は、当然だろう。事実、口に出した佳織が一番戸惑っている。それでも、このまま続けよう。佳織は自然とそう感じた。
「いや、明日で最後やと思うと、ちょい寂しゅうてなぁ。昨日会うたばっかやのに、仕事の当てもない自分が心配で。こっからちゃんと生きていけんやろか、って思うてまうわ」
「門司さん、やっぱり酔ってるんですか?水飲みます?」
「あたし、酔っとるように見える?」
梨絵が口をつぐんだので、二人の周りには静寂が流れた。ひっそりとした、包んでくれるような静寂だ。
「なぁ、ほんまにに大丈夫なん?こっから」
「そうですね、東京に戻ったらとりあえず、アルバイトでも探してみようかなと。生活を続けてみたいと思います。心配してくれてありがとうございます」
梨絵が頭を下げたので、佳織も感謝の意を込めて、頭を下げる。普明閣からは、夜景が変わらずに輝いて見える。
空気は生温く、どこか重たい。
梨絵は、佳織にインスタントカメラを返した。カウンターを覗くと、残り三枚となっていた。梨絵はハンドバッグにインスタントカメラをしまう。そして、前を向く。どこにでもあるようで、どこにもない夜景だ。側には梨絵の横顔がライトの光を受けて、自然的にある。
横目で見ると、唇がかすかに動いていた。
(続く)




