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【第18話】経験価値



 児島駅に戻る途中も梨絵は一言もしゃべらなかった。バスが来るのが三〇分後だったから、タクシーで児島駅まで戻ろうかと佳織が提案してもただ頷くだけで、車内でも外の景色を見るわけでもなく、時折スマートフォンを見る以外は、ずっと沈んでいた。

 佳織は何をしていいのかわからず、外の景色を眺めていた。運転手があまり積極的に話しかけてこないタイプで助かった。料金はすべて佳織が支払った。タクシーから降りるときも、梨絵は申し訳なさそうにそっと降りていた。


 ジーンズだらけの児島駅を出発し、岡山駅で山陽本線に乗り換える。

 二人はクロスシートに向かい合って座った。乗車しているキハ115系はクロスシートが大半で、長距離移動にも耐えられるように背もたれがついている。二人は海を見るために、左側のクロスシートを選んでいた。西日が眩しいが、カーテンはしない。

 海は建物に遮られて見えないが、海沿いを走っているという、不思議な高揚感が車内を流れている。


「この後三原駅で呉線に乗り換えんやけど、大丈夫?」


 「はい、なんとか」という返事をすることしか、梨絵にはできなかった。ずっと座っているおかげで、臀部が少し凝り固まってきた気がする。梨絵は、少し倦んできていた。佳織にそれとなく伝える。

 

「門司さん、広島駅に着くまで、あとどのくらいかかるんですか」


「乗り換え時間も含めんなら、あと二時間はかかるなぁ」


 二時間。まだ折り返し地点に過ぎないということか。梨絵は気が遠くなるような思いがした。聞いたらさらに途方もない思いに暮れるのだろうと思いながらも、もう一つ佳織に質問をしてみる。


「ちなみに新幹線で行ったら、どれくらいで済むんでしょうか」


「岡山から広島までなら、たぶん一時間もかからんと思うわ。景色を抜きにしたらの話やけど」


 佳織はあっさりと言ったが、梨絵は笑うことができなかった。実に倍以上だ。この山陽本線と、これから乗る呉線にそこまでの代償を払う必要があるとは、やはり思えない。

 梨絵は、佳織に怪訝な眼差しを向けた。


「こんなん気にしてたら、あかんのやけどね。何してんいう話になるから。まぁ眠いんなら、寝ててもええよ。着いたら起こしたるから」


「今は別に眠くないです。それよりもあと二時間もあるんですね。今日だけで、六時間以上も列車に乗って。殊勝と言うかなんというか……」


「何?不満なん?」


「いや、そういうことじゃないんですけど……」

  

 梨絵が慌てて弁解するのを見て、佳織は少しだけ吹き出してしまう。


「確かに殊勝いえば、殊勝なんかもしれんなぁ。変わり者ともいえるけど。今日び、こないな旅しとる人、そないおらんもんなぁ」


 頷いていいのかどうか、梨絵が判断に迷っていると、「でもな」と、佳織は続けた。景色を見ながら、誰に宛てるわけでもなく。


「あたしにとって列車に乗るいうことは、それ自体が目的なんや。大体の人は鉄道を、ただ地点から地点へと移動する手段いう風に考えとって、辿り着くことが目的なんやろうけど、あたしはちゃうかなぁ。多少時間はかかっとっても、普通列車や鈍行に乗って、車窓を眺めたり、列車が走ぃとるとこを想像したり、列車の揺れに眠うなんのを我慢したり。一交通機関としての鉄道とはまたちゃう、瞬間瞬間が思い出になる感動を恵んでくれる、鉄道に乗るいう体験を味わいたいんや」


 しみじみ呟く。夕陽が山影に隠れ始めて、海が輝きを失い始めている。


「自分かてそうやろ?あたしはによう分からんけど、自分が好きいうんはアニメそのものよりも、アニメを見るいう体験なんとちゃうの。舞台となった場所を巡るんも、アニメを追体験したいからやろ?それってめっちゃ素敵なことや思うわ。他ん人が作ったものが、自分事になるいうか。そういう意味じゃ、鉄道と同じなんかもしれんね」


 佳織の言葉に、梨絵は思い出を反芻していた。親に見つからないように、音量を小さくして耳を澄ませていた子供の頃も。一人、四畳半で座りながら見ている今も。映画館で複数の人と同じ作品を共有しているときも。梨絵は、アニメを見ることで楽しんでいた。好きになっていた。

 原点に立ち返ったとき、梨絵には何の変哲もない田畑が、葉の一枚一枚に生命が宿っているように見えた。


「そうですね。こんな旅もたまにはいいのかもしれないです。気分もだいぶ落ち着いてきましたし」


 やや疲れの色を滲ませながらも、梨絵は気丈に答える。佳織は安心する。少しずつ持ち直してくれているらしい。列車の振動が心の隙間を埋めていく。地元の人らしき男性たちが前のクロスシートで話している。

 県境を跨いで、言葉も微かに変化していた。


「呉線って確か『この世界の片隅に』に出てきた路線ですよね。すずさんと同じ列車に乗れるんだなぁ」


 梨絵は噛みしめるように話していた。だが、佳織はその作品を知らない。


「なんや、それもアニメなん?」


「はい。二〇一六年に公開されたアニメ映画で、戦時下の女性のさりげない暮らしを描いているんです。去年『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』というタイトルで完全版が公開されたんですけど、知ってます……?」


「ごめん、あたし、映画はあんま見ぃひんから」


 列車は尾道駅に到着した。尾道と言えば、大林宣彦の尾道三部作等で知られる映画の町である。長尺のカメラを持った男性が下車していく。

 だが、佳織も梨絵も、尾道駅に着いても何の反応も示さなかった。特に梨絵は、早く三原駅に着いてほしいとばかり思っていた。


 列車が出発する。乗客は目に見えて減っている。


「どないする?途中下車とかするか?このまま何もなかったら、広島駅まで一気に行くで」


「あの、ホテルのチェックインって何時くらいですか」


「一応、一九時で予約しとるけど、電話しとけばどうにでもなる。せやから時間は気にせんで大丈夫。どこか寄りたいとこでもあるん?」


「ちょっと待ってください。思い当たることがあって……」


 梨絵は、スマートフォンを取り出し、検索エンジンを開いた。何か調べる梨絵をよそに、佳織は目線を車窓の外に移す。やがて、梨絵がおずおずと口にする。

 

「あの、呉線の途中に竹原ってありますよね。そこもアニメの舞台になってるんですよ」


「なんてアニメ?」


「『たまゆら』っていうアニメです。写真が好きな女子高生と、その友達の日常を描いたアニメなんですけど、竹原市が舞台になってるんですよ」


 梨絵は、佳織の意識に滑り込ませるように答えた。もう自分がアニメの名前を出すのには、慣れてくれているだろうと感じたかった。


「で、その舞台に寄りたいいうんやな」


「はい……ダメですかね……?」


 列車はいつの間にか海沿いを走行していた。今度は遮るものはなく、道路の向こうに穏やかな海が見える。

 ぽつぽつと浮かぶ島々。夕陽が海をオレンジ色に照らしている。通りがかった船がシルエットとなって真っ黒に見えた。その光景は、心の中で煌めく原風景のように、梨絵には感じられた。視界がまるで、一瞬を切り取る写真みたいだ。

 梨絵は、車窓をぼんやりと眺めた。佳織も同じように、窓の外を見ている。


「もちろん、ええに決まっとるやないの。竹原には町並み保存地区があるんやろ。あたしも密かに興味あったしなぁ。ホテルには、あたしから電話しといたるから、竹原で降りよ」


 佳織の答えは、あっさりとしたものだった。梨絵は思わず「ありがとうございます」と口に出してしまう。何度も言ってきたその言葉は、紛れもない梨絵の本心だった。

 誰かと一緒に旅をするのも、悪くないのかもしれない。それは家族以外の人間と旅行したことがない梨絵が、ほのかに感じた感慨だった。


 海はあっという間に見えなくなる。日も翳り夜になっていく。

 乗換駅の三原駅に到着するまでは、あと二駅だった。



(続く)

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