【プロローグ#2】自己都合退職
夕暮れ時を迎えて、オフィスは橙色に翳り始めていた。一番向こうの人間が、ロウソクぐらいの大きさに見える。開放感がコンセプトらしく、天井が高かった。
白山梨絵は、オフィスの入り口に立っていた。部署内の視線が、彼女に集まっている。
「今までお世話になりました。皆さん、ありがとうございました」
梨絵が頭を下げると、いくつかの拍手が鳴った。単に人間関係が辛いから、辞めるだけなのに。梨絵には拍手が、暴風雨のごとく自分を責めるように聞こえていた。
同じ課の一谷が梨絵の元へと寄ってきて、いくつか声をかける。頑張ってねという励ましの言葉も、梨絵に届くことはない。
自分は逃げているだけだ。そう、梨絵は感じていた。確かに、上司の名取には、厳しい言葉をかけられたかもしれない。「なんでこんなこともできないかな」なんて文句は毎日だった。
だけれど、それは自分に期待してのことだと梨絵は受け止めた。受け止めようとした。
実際、同じように、名取から厳しく指導されていた同期の穂積が、新規プロジェクトのメンバーに抜擢されて、成功を収める様子を、梨絵は間近で見ていたからだ。
穂積のようにはなれない自分を責める日々。ある日、梨絵は布団から起きることができなかった。
限界はすぐそばまで、近づいてきていた。
一谷が言葉を詰まらせている最中、ふと梨絵は名取の方を見た。名取は拍手が終わると、すぐ自分の仕事に戻っていた。キーボードが一つ一つ叩かれていくたびに、名取の中から自分の姿が消えていくようだ。
あまりの残酷さに、居ても立っても居られなくなり、梨絵は一谷の手を掴んでから、足早に立ち去った。
新卒から三年間勤めた梨絵が辞めても、オフィスは何一つ欠けることなく、稼働を続けていた。
梨絵が俯いていても、街は何事もなかったかのように賑やかだった。居酒屋の看板が光り、サラリーマンが吸い込まれていく。
歩く速度を上げる。逃走ではない。前に進んでいるだけだ。そう暗示をかけていた。
ホームに止まっていた青緑色の通勤電車に、梨絵は走って飛び込んだ。息を切らした梨絵の肩に、ごつごつとした肘が乗りかかる。
この満員電車にも、しばらく乗ることはない。かえってせいせいすると、梨絵は思うようにした。
夏の空は一九時でも、まだ少し明るい。
ドアの側に乗っていた梨絵は、次の駅で降車する人のために、いったん降りた。
乗車する人々は、一体どこへ向かうのだろう。発車のアナウンスが流れても、梨絵はホームから動けず、閉まるドアをただただ眺めていた。
家へ帰ると、誰もいない空間が梨絵を迎えた。机の上に物は置かれておらず、床には埃一つない。たまに友達が来たときには「梨絵の部屋って新築みたい」と言われるほどだ。普段なら微笑ましいが、行き場をなくしたこの日は、真っ白な壁紙から棘が生えて、自分を刺すように感じられる。
穏やかな天井照明に照らされると、自分がとても良くないことをしているのではないかと、梨絵は恐ろしくなった。
スーツから着替えてすぐに、梨絵は携帯ゲーム機を手に取る。二〇年以上前のゲームの復刻版。そのクライマックス。チャンピオンを倒して殿堂入りしても、エンドロールを眺めていても、梨絵には何の感慨も湧かなかった。
手ごたえが、両手からこぼれ落ちていく。
梨絵はゲーム機を置いて、よろよろと立ち上がった。ハンドバッグから一枚の紙を取り出し、照明にかざしてみる。コンビニエンスストアで発券した薄水色のチケットは、光を通さず、梨絵の顔に長方形の影を作る。
この一枚の紙きれが、今の梨絵の、細い命綱になっていた。
短めに茹でたパスタに、レトルトの具材をかけて、簡単な夕食を済ませる。食器をシンクに持っていく。いつもはすぐさま洗うところだが、この日はそんな気分にはならなかった。
本棚からDVDを取り出して、レコーダーにセットする。テレビの電源を入れると、モノクロのアニメーションが映し出された。キャラクターデザインが、時代の移り変わりを感じさせる。主人公の早口のモノローグが、矢継ぎ早に繰り出される。
梨絵は少しだけ笑った。鏡のように、自分の今の心境を映し出しているかのように感じていた。
だが、女子高生のキャラクターが、突拍子もない自己紹介をした瞬間、アニメーションには色がつき、テレビの中の世界は彩られた。困惑する主人公。
だが、梨絵の頬には涙が伝っていた。今まで何度も見たはずなのに。このシーンで泣いてしまうのは、初めのことで、なぜ泣いているのかは、梨絵自身にも分からなかった。
ただ、梨絵の脳裏には、懐かしい思い出が浮かんでいた。
それは、梨絵が小学生のころ、友達に勧められて初めて見たアニメだった。当時はDVDは普及しきっておらず、VHS。親の方針で勉強づけの日々を送っていた梨絵にとって、キャラクターが動き出すというのはそれだけで衝撃的で、自分の世界が一気に広くなったようだった。
それ以来、梨絵はこっそりと、レンタルショップに通うようになった。親に隠れて小さな音量で見るアニメは、梨絵の密かな娯楽だった。
テレビの中のキャラクターはむちゃくちゃで、それでも賑やかな学園生活を送っている。今の梨絵とは正反対だったが、不思議と不快には感じなかった。腹の底から活力が、ほんの少しだけ湧いてくるような気がする。
彼女たちに近づきたい。
彼女たちと同じ気分を味わってみたい。
重たい頭で、梨絵はそっと考えていた。
アニメの舞台となった場所は、分かっていた。
兵庫県西宮市。
スマートフォンで、アニメと地名を打ち込んで検索すると、地元の観光協会や個人のブログといったサイトが、数件ヒットした。梨絵はそれらのページを眺める。食器はシンクに放っておかれたままで、洗われるのを待っている。
それでも、塞ぎこんだ空に少しだけ、光明が差し込んできていた。
(続く)