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【第17話】吐露



 一時間前にバスが通っていった道を、二人は歩く。途中、梨絵は何度もスマートフォンを構えていた。


「この建物もアニメに出てきた」

「でも、船は修理してないな」

「そういえば、タコも干されてない。旬じゃないのかな」


 まるで佳織がいないかのように、独り言を連発している。佳織は何も言わず、梨絵の後ろについていく。まるで先輩後輩の関係みたいだ。どちらが引っ張っているかなんて、今は分かりはしない。


 バス停を三つほど過ぎた後、横断歩道のすぐ上に「むかし下津井回船問屋 すぐ」という標識が見えた。

 佳織が矢印の指し示す方向を見ると、そこには年月を感じさせる建物が並んでいた。漆喰で塗り固められた白壁に挟まれた、格子状のなまこ壁。瓦葺きのその建物は家というよりも、蔵と言ったほうがふさわしい。

 先ほどの路地とは、懐かしさの種類が違う。


 二人があまり高くない門をくぐると、辺り一面が情緒で埋め尽くされていた。

 扇状に広がる石畳に沿って、土蔵が二人を囲んでいる。江戸時代の、まるで忍者屋敷みたい。梨絵は経験したことがないはずなのに、懐かしさを覚えている自分が不思議に思えた。

 海辺の街並みに、突然現れたエアポケット。周囲とは明らかに、時間の流れが違う。

 佳織には、それが空から降ってきて、ちょうどそこに収まったように感じられた。


 近くの蔵に入ってみる。暗い雰囲気の中で、かつての街並みの写真が、バックライトに照らされていた。どこかホラー映画のような不気味さがあった。天井に照明はなく、夏の日差しが時折こぼれるのみ。

 乾いた雰囲気は、漆喰に水気が吸収されているからだろうか。梨絵には頬に当たる空気が、どこか涼しく感じられた。


 二人はいくつか蔵を回った。館内には、地域の歴史的な物品が展示されていた。

 干拓された下津井では藍や綿花が栽培されていて、その肥料に使われたのが、北前船で運ばれてきたニシンの粕だったという。ニシン蔵なるものまで建ち、それが国産ジーンズ発祥の地・児島につながっている。

 説明を要約するとこんなところだろうか。佳織の目は文字を追っていたけれど、肝心の内容はそれほど頭に入っていなかった。


 ミニチュアで再現された北前船も、ボタンを押すと光る当時の街並みも、それ以上の意味を二人に感じさせない。母屋に入っても展示物を目で追うだけで、当時の暮らしに思いを馳せるなんて余裕は、少なくとも佳織にはなかった。

 それでも、梨絵は時折立ち止まっていたので、もしかしたら空想に耽っていたのかもしれない。


 とある蔵の二階には和室もあり、自由に出入りすることができるようになっていた。窓際の机には、一冊のノートが置かれている。誰でも書き込んでいいらしく、日本語と少しのアルファベットが踊っていた。

 せっかくだから何か書こうと、佳織が言い出し、梨絵はココネの画像をスマートフォンで検索してから、鉛筆を走らせた。無造作に引かれていくように見えた線は、瞬く間に髪に、輪郭に、パーツになっていく。佳織は驚嘆した。

 梨絵の手元を眺めているだけで、佳織の心はにわかに動き出すようだった。


 一〇分もしないうちにバストアップの森川ココネは描きあがり、「ひるね姫聖地巡礼記念」と梨絵が書いた下に、二人は名前を書き記した。梨絵のみならず、佳織もノートを撮影する。

 ノートの森川ココネは、真っすぐなまなざしで、二人を見つめている。


「自分、めっちゃ絵上手いやん。どっか専門学校にでも通っとったん?」


「いえ、どこにも行ってないです。ただ普通の高校をなんとなく卒業して、平凡な大学をあっという間に通り過ぎただけです」


「せやけど、こんだけ絵が描けるなんて凄いやん。高校は美術部やったの?」


「まあ美術部に入ってはいたんですけど、何の賞を獲ることもなく。先輩たちと上手くいかずに、半年で辞めちゃいました」


「そっか……。しんどいこと思い出させてもうたね」


「大丈夫ですよ。事実ですから」


 梨絵は窓の外を眺めた。塗装が落ちかかった木造の外壁の下に、自転車が立てかけられている。電線には鳥が数羽止まっていた。山の稜線が木に隠れてはっきりとは見えず、降り注ぐ日差しは無慈悲に輝いている。

 夏。誰に言われるでもなく与えられ、過ぎ去っていく季節。輝ける者は、より輝かしく。そうでない者は、より惨たらしく。

 梨絵はノートに目をやった。ただの点と線の集合体は、泣きたくなるような言葉を、梨絵にかけてくれるはずもない。束の間、言葉を失った梨絵を、佳織は慮る。


「どないしたん?具合悪いんか?ちょい休むか?」


 佳織の暖かい言葉。ただありがたい。それでも、言うなら今このタイミングだ。そう梨絵は直感した。


「いえ、いいんです。門司さん、私、会社を辞めて来たんです」


 梨絵の視線は、色褪せた畳に向けられている。生まれた言葉が力なく落ちて、畳に溶けて短い生涯を終える。

 まずい。今まででも、最大の落ち込み方だ。佳織は何か梨絵に話しかけようとしたが、言葉は脳で堰止められて、命を与えられることはない。


「毎日一生懸命仕事をしていただけなのに、周囲からはどんどん引き離されていって。上司の当たりもきつくなって。同僚はそんな私を思いやってくれたけど、それがかえって負担で。私は、いるだけで周囲に迷惑をかけてるんじゃないか。そう思うと会社にいられなくなって。結局はいつものように逃げて。三年間働いた会社を辞める日に、何にも変わらない職場を見て、急に情けなくなりました。私は何も残せていない。この三年間は何だったんだろうって。再就職の当てもあるわけじゃないし、本当にダメ人間ですよね」


 言い切ると梨絵は、佳織の方を向いた。頬に涙が伝っていた。


「何言うとんねん。自分、まだ二〇代やろ。いや、分からへんけど。人生まだまだあるんやから。それに人間いうのはな、こけた方が強うなるようにできとんねん。自分かてまだ大丈夫やって」


「強い人間って何ですか。大変なことがあったとしても、何事もなかったかのように、振る舞えるのが強い人間ですか。辛いことがあったとしても、必ず糧にできるのが強い人間ですか。人間は強くなくちゃいけないんですか。強くない、私みたいな弱い人間は、人間としてダメですか。失敗ですか。不合格ですか」


 梨絵の涙は流れ続ける。佳織は何も言わない。言えるはずがない。


「すいません、急にこんな話してしまって。迷惑でしたよね。聞かなかったことにしてください」


 涙は頬から零れ落ちて、梨絵の手を濡らした。雪のようにきめ細かい肌が、くすんでいく。霞んでいく。佳織はそっと梨絵の手の上に、自らの手のひらを重ね合わせた。梨絵の震えが直に伝わってくる。佳織はその震えを収めることはせず、ただ手を添えることしかできなかった。



(続く)

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