【第16話】石段から
バスの正面窓からは、瀬戸大橋が見え始めた。近づくほどに白い鉄骨は大きくなり、くすみがかった塗装までが克明に見える。遠くから見れば綺麗だが、近くからでは骨の集合体であることが分かり、有無を言わせぬ迫力がある。橋の下を通過したところで、梨絵は降車ボタンを押した。赤く光るボタンが、どこか懐かしい。
二人が降りた田の浦港前バス停は、瀬戸大橋のたもとにあった。目の前には漁港。年月を感じさせる漁船が、何艘も停泊している。その奥には、緑の深い島。瀬戸大橋がつなぐその島は意外なほど近く、大きく見える。遮るものがないことも相まって、海辺の街ならではの解放感と、これ以上は行けないという閉塞感が共存していた。
梨絵は道路を横断して、反対側のバス停に向かった。民家の脇に緑が豊かで、ここからだと瀬戸大橋はぐんと伸びる若竹のように感じられる。
「ここですよ、ここ。『ひるね姫』に出てきたのは。ここでVRゲームをする大学生に、主人公のココネが走って話しかけてくるんです」
そう言うと、梨絵は数歩佳織から離れて、走って戻ってきた。佳織は突然の、梨絵のペースに戸惑うばかりである。
梨絵も梨絵で、佳織の前まで来たところで、立ち止まって手を上げようとしたけれど躊躇い、結局控えめな「こんにちは……」くらいしか発することができなかった。無理しなくていいのに。佳織はそう思いながら、梨絵を見て微笑んだ。
目の前で海は静かに凪いでいて、列車が通過していく音が聞こえた。
「あの……、写真撮ってもらっていいですか」
しばらくして梨絵が尋ねた。
「もちろんええよ。こっちもいつも撮うてもろうてるしなぁ。お互い様やって。ほら、スマホ貸しぃや」
梨絵からスマートフォンを貰った佳織は、バス停と梨絵を一つのアングルに収めるため、数歩後ずさりをする。潮の匂いがアスファルトにもしみついているようで、歩くたびに吹いていない潮風を、幻のように味わった。
スマートフォン越しに見る梨絵はおずおずと、バス停の横でピースサインをしている。指が少し曲がっていた。
「あたしも瀬戸大橋をバックに、写真撮ってくれへんかな」
梨絵の撮影を済ませた後、佳織はそう持ち掛けた。梨絵が小さく頷くのを見て、半ば押し付けるようにスマートフォンを渡す。受け取った梨絵の手は、貴重品でも預かるかのように、小刻みに震えていた。
「別にそないプレッシャー感じんでええって。なんも考えず撮ってくれればええから」
梨絵が数歩離れて、「はい、チーズ」と小声で言う。佳織が撮ってもらった写真を見せてもらうと、日差し溢れる夏の空気が、そこには収められていた。自分も心なしか冴えて見える。梨絵はスマートフォンで写真を撮ることに、慣れているようだった。自分はどうだっただろうか。上手く梨絵を撮ることが、できただろうか。
「門司さん、ありがとうございます」
「何言うとんの。礼を言うのはあたしの方やって。撮ってくれてありがとな」
「こちらこそ。じゃあそろそろ行きましょうか。近くに見晴らしのいい神社があって、そこからの風景も見てみたいです」
「うん、分かったわ。行こか。道案内は任せたで」
梨絵がスマートフォンを参考にしながら、バス停から離れていく。佳織から見た梨絵の背中は、自分よりも一〇センチメートル低い身長よりも、小さく頼りなく見えた。
梨絵は角を曲がって路地に入った。車一台通るのがやっと、という道だ。潮風で塗装が剥げかかっている家々が、回廊のように続いている。
潮が植物につかないように、下ろされた簾。遠くに見える山。今日び見ないタバコ屋の青い幕。
右折して、さらに狭い路地に入っていく二人。手を広げると、家の壁に触れてしまいそうなほどの道幅は、自動車が通ることは完全に不可能そうだ。木造の家々が、覆いかぶさるようである。日光も届かず昼間だというのに影になって薄暗い。
路地を進む自分たちは、石を蹴って遊ぶ子供に戻ったみたいだと、佳織は感じた。
途中、脇道があって一瞬だけ日光が差す。こんなに眩しかったかと、思わず額に手を当てる。
「ほんまにこの道で合っとんの?」
「大丈夫ですよ、もうすぐ階段につくと思います。でも、思っていた以上に暗いですね。アニメではほんのり日差しが差し込む、みたいな感じだったんですけど。やっぱりアニメと現実は、ちょっと違いますね。すいません、わざわざ付き合わせちゃって」
「ええって。なかなかこない海沿いの街の路地を歩く機会ないやろ。時間がシンプルに流れとる感じするわ」
二人がささやかな探検を続けていると、目の前が明るく開けた。
路地の先には石でできた鳥居と石段があり、神社とも寺ともわからない建物が、太陽に照らされて神々しく見えた。日光を反射する石段は燦燦という言葉がふさわしい。いかにも暑そうだ。
それでも、上らなければ始まらない。梨絵は、スマートフォンをしまい、気合いを入れなおした。
「この先が田土浦坐神社です。そこからの光景が、『ひるね姫』に出てきた街を見下ろす光景です。じゃあ登りましょうか」
最初は意気揚々と石段を登っていた梨絵だったが、想像以上に勾配が急で、途中で息切れしてしまう。手すりは太陽に照らされ続けて熱く、触るわけにはいかない。
梨絵は佳織を先に行かせることにした。佳織が梨絵に並んで「大丈夫」と声をかけようとしたその瞬間、佳織の視界は一気に開けた。
階段から、下津井港の光景を見渡すことができたのだ。
自分たちを閉じ込めていた家々は、今は瓦屋根しか見えず、日の光におぼろげに包まれていた。瀬戸大橋のワイヤーも同じ目線で、くっきりと見える。瀬戸内海は静かに光を湛えていて、息を呑むほどの存在感。バス停からは見えなかった島と海の境界線も鮮明だ。確かにこれは一見に値するだろう。
「なぁ、横見てみ。瀬戸内海が一望できるで」
言われたままに横を向いた梨絵。しばらく肩で息をしながら、目の前に広がる光景を眺めていた。
「そうです!ここですよ!映画のオープニングでココネが降りていったのは!本当に良い光景ですね。思わず言葉を失ってしまうくらい」
興奮気味に語る梨絵に、先ほどまでの疲れはあまり見られなかった。佳織に向けられたなんてことない笑顔が、日差しを浴びて、弾けるように感じられる。
「神社まではあとちょっとやな。先に行っとるから、自分のペースで登うてきてや」
「分かりました。ここまで来たらあとちょっと、がんばります」
お互いを励まし合いながら、二人は田土浦坐神社の本殿に辿り着いた。特殊な飾りもないどこにでもあるような神社だ。鈴も何もなかったけれど、一応賽銭を入れてお参りを済ませる。
すぐ隣と言ってもいいほどの近くに瀬戸大橋が通っており、車の走行音まで聞こえる。
淡く水彩画のような海は、どこまでも続いている。
「あれが四国?にしては小さいなぁ」
「門司さん、あれは四国じゃなくて、櫃石島っていう島ですよ。あっちの方はもう香川県ですね」
「別に知っとるて、そんくらい。ちょい自分を試しただけやから」
「どうですかね」
二人は和やかな表情で、眼下に広がる光景を眺めた。
浮き上がってくる風が一筋吹いて、神社の横に植えられた木をかすかにさざめかせていた。
(続く)




