【第15話】ジーンズ!ジーンズ!ジーンズ!
列車を降りると、四十分ぶりの夏の空気が、二人を包んだ。飽きることなく駅名標との撮影を済ませ、改札のある一階へと向かう。エレベーターには紺のジーンズの柄が、ラッピングされていた。
梨絵はスマートフォンで写真を撮ってから、佳織の後に続いてエレベータに入る。あとでSNSに投稿しよう。もしかしたら、「いいね」がつくかもしれない。
それは梨絵にとっては、瞬きをするのと同じくらい自然な行為だった。
一階には、「ようこそ児島へ」という吊り看板。真ん中には「児島ジーンズストリート」と書かれている。
改札のゲートが、ジーンズの後ろ姿だった。振り返ると、階段にもジーンズが一段一段プリントされている。
どこを見てもジーンズ一色の光景に、佳織は少し威圧感を覚えた。バレンタインデーにチョコレートを贈るよう迫る製菓会社のように、圧力が強い。それでも、インパクトは十分あるし、一点特化はかえって清々しい気さえする。
児島駅はジーンズを推すことに、それこそ大げさでなく命を懸けているような印象があった。
あまりの圧に、梨絵は少し慄いてもいた。ジーンズは一応持ってはいるが、あまり履くことはない。そんな梨絵にとってこの〝ジーンズステーション〟児島は、一生分のジーンズ要素を、体に浴びせかけられたに等しい。
いつの間にか、写真を撮ることさえ忘れていた。
西口を出ても二人を迎えたのは、またしてもジーンズだった。
駅から駐車場まで、テントが張られた通路の上部に大量のジーンズが干され、いや吊されていた。ここまで来るとその執念に、笑いさえこみあげてしまう。佳織が横を見ると梨絵も、あまりポジティブな意味ではないであろう笑みをこぼしていた。
大量のジーンズたちを横目に見ながら、バス停へと向かう。時刻表によると、バスはあと五分で来るらしい。二人はベンチに腰かけた。ロータリーを行きかうタクシーの黒色が、今は心を落ち着ける。
「凄かったなぁ。怒涛のジーンズ推し。嫌にでも記憶に残ってまう」
「夢にでも出てきそうでしたよね。有名な制作会社のアニメでも、あんなに推されないですよ」
「国産ジーンズ発祥の街とは聞いとったけど、ここまでとはなぁ。駅構内は何とか耐えれたけど、外にまでジーンズが干されとったのは、あかんかったわ」
「あれはズルいですよね。あんなにズラーって並んでたら笑うしかないですもん」
「ひょっとしたら、バスもジーンズ柄なんかな」
「ありえますね。というかここまで来たら、逆にそうであってほしいです」
「やんなら、徹底的にやらんとね」
二人の勝手な期待に反して、やってきたバスはジーンズ柄ではなかった。
正面には赤い線が引かれ、上の表示板には「下津井循環線」と書かれている。側面には「風の道」という写真入りの広告が、線路の絵とともに印刷されていた。
二人が後ろのドアから乗り込むと、車内は青いシートに白いカバーが並んでいた。いたって普通のバスだと佳織は感じた。優先席もしっかり確保されているところが、その普通さをますます際立たせる。
それでも、梨絵は映画に出てきたバスに、少しだけ心が躍った。誰も座っていないので、好きな席を選ぶことができる。梨絵が先んじて動いて、後ろから二番目の席を確保した。他に三人を乗せて、バスは動き出す。
運転手の乾いた声がお決まりだ。
「さすがにジーンズ柄いうことはなかったな」
「でも、調べてみたんですけど、ジーンズバスっていうのもあるらしいですよ。ほら後ろの窓にジーンズが飾られてます」
写真の中では二人の女性が、バスの中に座っていた。一人はご丁寧にもダメージジーンズを穿いている。
「さすがは国産ジーンズ発祥の街やな」
「あと、ジーンズの柄をしたタクシーも、一台だけあるみたいです。アピールが凄いですね」
「でも、このバスの側面はジーンズちゃうかったやん。風の道いうて。あれ何なんか知っとる?」
「知ってる、って言ったらどうします?」
「ほな、答えてや」
少しの沈黙。バス停はもう二つ過ぎている。
「すいません、やっぱり知らないです。知ってるって言ったときの、門司さんの反応が見たくて」
「期待に沿えんでごめんね。昔いうても三〇年くらい前やけど、下津井には鉄道が走っとったんよ。下津井電鉄いう私鉄が。その跡地を、ウォーキングコースやサイクリングコースに転用したんが、風の道なんやって」
「そんなことまで知ってるんですか」
「人からの受け売りやけどなぁ。どや?行ってみるか?」
「行きたい気持ちはあるんですけど、ちょっと今日は……」
「まあええわ。そらそうと今、下津井に向かっとるやろ。その下津井が舞台のアニメでもあるん?」
バスの車窓は一瞬だけ海を映し出したと思うと、またすぐ住宅地で隠す。梨絵はハッとした。
「はい、『ひるね姫』っていう、三年前に公開されたアニメ映画がありまして。夢の世界と現実世界を巡る、ちょっとファンタジーめいたお話なんですけど。巨大ロボットとかも出てきて。そこは『攻殻機動隊』の神山さんだなという感じなんですけど……。あ、すいません。こんな話されても何のことか、分からないですよね」
「別にええて。一方的な趣味話を聞かされんのは、慣れとるし。ええから続けぇや」
「ありがとうございます。その『ひるね姫』が二〇二〇年、今年ですね。東京オリンピックの三日前という設定で……」
「最近やん」
「そうなんです。時間が過ぎるのは、早いですね。もう過去なんですもん。で、その舞台となったのが、これから行く下津井なんです。映画のオープニングで、主人公の森川ココネが階段を下りて、バス停に向かうシーンがあるんですけど、瀬戸大橋をバックにした風景がとても印象的で、今回はその再現をしたいなと。そういえば予告があるんですけど見ます?多分そのシーンも映ってるはずです」
梨絵は自分のスマートフォンにイヤフォンをつないで、Youtubeのアプリを開いた。検索すると一番上に出てくる動画。一分四七秒の予告編。
佳織がイヤフォンを装着したことを確認すると、梨絵は画面をタップする。ああ、確かに岡山弁の女子高生が階段を下っている。瀬戸大橋も大きく映っている。瀬戸大橋はこれまで何回か通ったことはあるが、そう言えば近くに行ったことはないなと、佳織はふと思った。
「どうでした?」
「うん、ええんちゃう。なんか眺めのええ景色が広がっとって。昨日もそうやったけど、自分、けっこう高いとこ好きやな」
「まあバカなので。単純に見晴らしが良いと、気持ちいいんですよね。そのためには階段も上りますけど、大丈夫ですか?」
「どんだけ駅の階段上り下りしてる思とるんや。多分いけるわ。それより、自分こそいけるん?昨日も肩で息しとったやん」
「そういえば……。ちょっと心配になってきました。上まで登れるかな……」
「足を止めさえせんかったら、いけるんちゃうの。まあなんとかなるわ」
口に手を当て考え込み始める梨絵を、佳織はそれとなく励ました。
出会ってからこの図式はもう何度目か分からない。それでも、梨絵はスポンジのように自分の言葉を吸い取って、素直な反応を返してくれる。それは佳織にとって、悪い心地ではなかった。
バスは一人も降車することなく、海沿いを走っていく。
海岸線がおおらかに続いている。窓越しにでも、海が鋭く輝いていた。
(続く)




