【第10話】アクロス・ザ・レイルロード
切れ間のない青空が広がっていた。太陽はあざ笑うかのように直射日光を浴びせかけてきていて、自らの仕事を十分なほどに果たしている。朝の涼しさなんてものはどこにもなく、炎天下と呼ぶにふさわしい熱気だった。塗ってきた日焼け止めも、これではどこまでもつか分からない。
階段を上る梨絵の額には、汗が滲み始めていた。先にデッキに到着した佳織が、手を振っている。昨日の疲れは見られない。
言い出したのは、またしても佳織だった。倉敷市駅の近くには、線路を見渡せる陸橋があると、梨絵に持ち掛けたのだ。集合してすぐだったので、梨絵は少し拍子抜けしたが、断る理由もなかったので、佳織の提案を受け入れた。
それでも歩いてみると影になるものがなく、想像以上に暑い。
二人は陸橋の縁に、手を置いた。線路が平行に敷かれていて、電線やら電柱やらがあみだくじのように入り組んでいた。そのうち一つの線路が大きく右にカーブし、分岐している。遠くには木々のように、照明が何本か並ぶ。
一台の列車が、陸橋の下を通過した。全身がレモンを濃くしたような黄色で、上からでもよく目立つ。
「今行ったんが山陽本線やな。頭の形を見るに115系や思う。情緒はあんま感じひんけど、乗るだけなら問題ないなぁ。で、その右で大きくカーブしとんのがJR伯備線の線路。鳥取の米子まで行くんよ。そして、その反対側にあんのが、これからあたしらが乗る水鉄の線路いうわけ。そろそろ来るはずなんやけどな」
「えっと、何の列車が来るんでしたっけ」
「キハ37とキハ38。昔はいろいろなところを走っとったんやけど、今はこの水鉄でしか走ってへんの。これを目当てに来とる鉄道好きもけっこうおんのよ」
「それだけ珍しいと、わざわざ来る気持ちも少し分かる気がします」
「せやろ。どう?ちょっとは興味出てきた?」
佳織が問いかける。梨絵はどう答えるか迷っていた。本当は、まだいまいちピンと来ていない。それでも、ここは話を合わせておくところだろう。梨絵が同意しようとすると、列車が近づいてくる音がした。
「きたきた」と佳織は、列車の側面を映せる位置に移動し、スマートフォンを構えた。内心ホッとした梨絵も、フレームに入らないように、佳織の後ろに移動する。
通過した列車は二両編成だった。先頭車両がクリーム色と赤、後方車両が水色に青と、全く異なる列車が編成されている。佳織は興奮しながら、スマートフォンを落とさないように、何度も写真を撮った。
梨絵は呆気に取られていた。こんな列車があるんだ。これは確かに珍しいかもしれない。その場を動けないでいる自分に梨絵は少し驚く。
「なぁ見とる?国鉄色のキハ38と水鉄色のキハ37の編成やで!こないなが見れるなんて、今日はツイとるわ!」
「私もこんな電車は初めて見ました。もう見ただけで珍しいって分かります」
「せやね。早速乗りに行こうや。早よせんと幸運の列車が出てまうで!」
弾けるような笑顔を見せたかと思うと、佳織は走って階段を降り始めた。こんなに喜べるなんて、微笑ましい。そう思う間もなく、梨絵は佳織を追いかけた。パンプスは走るのにやや不向きだったが、一生懸命追いかける。
二人が去った後の陸橋は、何一つ変わることなく、手加減のない日差しを浴び続けていた。
二人が倉敷市駅に着いたのは、発車五分前だった。レンガ調のタイルの上に、水色と朱色の文字で大きく「水島臨海鉄道のりば」と書かれている。駅の上は駐車場になっていて、東京ではあまり見かけない光景に、初めて見たとき、梨絵は虚を突かれる思いがした。
ただ、佳織は脇目も振らずに駅の中に入っていく。写真撮影はもう済ませていたからだ。
佳織は改札の前で、正方形の切符を取り出した。切符には「一日フリーきっぷ」と書かれている。八〇〇円で始点の倉敷市駅から終点の三菱自工前駅まで、乗り放題という代物だ。水色のキハ38が描かれたピンバッジもついてくるのが、少し得した気分である。
倉敷市駅のホームは単線で、列車の中に入ってしまったのか人はいなかった。日が届かなくてもコンクリートから熱が放射されるようで、じわじわと暑い。
梨絵は一刻も早く、列車に乗って涼みたい気分だったが、佳織はなかなか乗ろうとはしない。
白地に黒文字のやや煤けたシンプルな、駅名標も佳織にとっては十分に価値があるものらしく、梨絵はまた写真撮影に、付き合わなければならなかった。
それでも、佳織のはしゃぎようを見ていると、梨絵も自然と口元が緩むようになっていた。
目の前には、今は昔のキハ37。朱色四号とクリーム色四号で塗装された、昔懐かしの国鉄色だ。佳織は、飛びつくようにキハ37へ向かった。自分が鉄道を気にかけるようになった頃にはもう、JRではその役目を終えていたキハ37がこんなに近くに。近づいてみると、ほのかに錆びた金属の匂いがする。
佳織は梨絵にキハ37とのツーショットを取るように求めた。
精一杯両手を広げると、キハ37が自分の手に収まるような、そんな気がした。
二人が車両とのツーショット写真を撮り終えたころ、アナウンスが流れた。急いでキハ37に乗車する二人。シートは目が覚めるように真っ青で、座り古されて色褪せた梨絵の通勤列車とは微妙に違う。十数人しかいない乗客は、全員が腰を下ろしている。二人も近くの座席に腰かけた。列車は、定刻通りに動き出す。
「よかったなぁ。キハ37に乗り遅れんで」
「門司さん、走るの速いんですもん。ついていくの大変でしたよ」
「ごめん。次から気ぃ付けるわ」
列車は速度を上げていく。一瞬横切った階段は、先ほど上った陸橋のものだろうか。息を切らして走ったのが嘘みたいに、あっという間だ。
列車内は十分すぎるほど涼しく、火照った体を冷ましてくれる。だが、その冷たさの種類が少し違うように梨絵には感じられた。いつも乗っていた列車は氷の中にいるかのように、満遍なく冷やされていたのに対し、このキハ37は上から風が吹きつけてくる傾向が強いように思える。
ふと見上げると、そこには東京の列車では見ない扇風機が、小さくない音を立てて稼働していた。
「門司さん、上」
思わずそう呼び掛けていた。
「ああ、これな。今のキハ38の冷房装置は、もともとバス用やったんよ。ほら真上にもエアコンみたいなものがあるやろ。まあそのせいで荷物棚は、狭なっとるんやけど、趣が感じられてええよね。ただ、これだけやとちょいパワー不足やから、扇風機も補助的に使われとるんやけどな。東京の方じゃ、なかなか見られへんやろ」
「確かに初めて見ましたし、初めて乗りました。動く縁側みたいな雰囲気があります」
「動く縁側、か。自分、なかなかええ事言うやん。ちなみにな、暖房も上のエアコンで行われるんやで。東京の方の電車は下から暖めるやん。そのせいで踵のあたりが熱うなったりすんねんけど、それがこの列車やとちゃうわけ。ほら、ちょい足を後ろに振ってみぃ」
言われて足を振ってみると、確かに手ごたえがなかった。何度も試す梨絵を見て、佳織は声を漏らさないよう笑った。内外を問わず珍しい電車だな。これは話のタネになるかも。でも、私には話す相手なんて……。
少し気分が沈むようで、梨絵はため息の後に、肩を落とす。列車は二駅目の、球場前駅に到着した。佳織は梨絵を心配し、励ましの言葉をいくつか掛ける。
冷房の稼働音と列車の通過音がせめぎ合い、二人の声は二人の間にしか届いていなかった。
(続く)




