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【第9話】今日が終わる




 靴を脱いでから、綺麗に敷かれたシーツに、佳織は勢いよくなだれ込んだ。シルクのような滑らかな肌触りが、気持ちいい。佳織はベッドの上に全身を乗せ、一つ大きく伸びをする。枕元の照明が眩しい。

 まさか一人旅が二人旅になるなんて思ってもなかったな。

 ポケットからスマートフォンを取り出す。些細な偶然を自分の中に、留めておくことができなかった。


〝今、何してん?〟


 そうラインを打ち込むと、すぐに既読の表示がついた。まるで佳織からラインが来ることを予知していたかのように。返信もすぐだ。


〝家で飲んどるわ。そっちは?〟


〝ご飯も食べて、ホテルに戻ってきたとこ。奮発してビーフシチューがかかったオムライス食べてもうた〟


〝オムライス好きやな〟


〝そら、オムライスは国民食やもん。三度の飯よりオムライスが好きやで〟


〝オムライスもご飯やん〟


〝バレてもうたか〟


 佳織がギクッと驚く猫のスタンプを送ると、伊藤はなんでやねんと、ツッコむ芸人のスタンプで返してきた。押してみると、声が出て少しびっくりする。


〝ところでな、今日阪急に乗ったんやけどな。ひょんなことから、ニシキタの駅前で出会うた人と、一緒に回ることになってもうた〟


〝ひょんなことって?〟


〝別に大した話ちゃうて。ニシキタの駅前で、写真撮ってくれませんかって声かけられたん。で、その後近くの喫茶店でもういっぺん会うて。まあ行く方向も同じやったし、どうせならいうことで、一緒に甲陽線に乗ったんや〟


〝そいつ男?女?〟


〝女の人。せやけど、すごい可愛い人やったな。石ころの中で控えめに輝くターコイズみたいな。そない人やった〟


〝そう言われんと、ちょい会うてみたい感じもするな。まあ、カオリの方が、可愛いんやろけど〟


〝ややなー、いーちゃんったら。褒めてもなんも出ぇへんって〟


 佳織は足をジタバタさせた。できることなら、今の姿を伊藤に見せたい。ビジネスホテルで気兼ねなく、くつろいでいる自分の素の表情を。八ヶ月も会っていないと、擦れた想いはたまる一方だ。


〝でさ、明後日が何の日か、覚えとる?〟


〝八ヶ月ぶりに、俺たちが会う日やろ。今から楽しみやな〟


〝せやけど、他にもあるやん〟


 佳織は虫眼鏡を手に持ち、うーん?と覗く猫のスタンプを送った。例によってすぐに既読はついたが、伊藤からの返信は滞る。しまった。圧が強すぎたか。しばらく考えて、佳織がフォローを入れようとしたとき、伊藤からの返信が来る。


〝明日さ、ガンバの試合あるやん〟


〝どしたん、急に〟


 ここで言うガンバとは、Jリーグクラブであるガンバ大阪のことだ。佳織も伊藤に連れられて、何回かスタジアムに行ったことがあるので、それくらいは知っている。


〝いやな、俺が広島に行かされてから、ガンバが初めて広島に来るやんか。それが楽しみやなって〟


〝ガンバって今、三連勝中やろ。それにオリンピックの中断明けの試合やし、気合いもいつも以上に入るわ。サンフレッチェには、ここ最近あんま勝ててへんし、優勝争いに絡むためには、絶対に落とせない一戦やからな〟


〝ガンバは怪我しとったFWが中断期間中に復帰できたし、補強しよったボランチの外国人選手も、けっこうやるいうて評判なんやで。広島は強いけど、正直勝つ想像しかできへんな〟


 伊藤からの怒涛のラインを、それだけガンバ大阪のことを熱烈に好きなのだろうと、佳織は好意的に解釈した。好きすぎて、デートの予定があまり入る余地がないのが、玉に瑕ではあるが。

 伊藤から送られてきたマスコットキャラクターのスタンプは、目が燃えている。


〝応援すんのはええけど、あまり熱うならんといてな。いーちゃん、試合の次の日に声枯れとること、けっこうあんで〟


〝せやな〟


〝とでもいう思うた?明日は思いっきしやったるからな!〟


〝明後日、あたしと会うときに、燃え尽きへん程度にがんばってな〟


〝ああ、また明後日会おうな〟


〝早う会いたい〟


〝俺もや〟


 スマートフォンのスイッチを切り、枕元に置く。佳織は起き上がって、意味もなく部屋の中を歩き回った。明後日、伊藤に会える。そのことが佳織にとっては、キハ38やキハ37よりも、上位の楽しみになっていた。待望がマグマのように、佳織の心の底から湧き出していた。

 抑える術を佳織は一つしか知らない。また、スマートフォンを手に取って、ベッドに寝転んだ。



(続く)

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