67 終結は、誰の手で
儀式を成功させるべく、ユダは躍起になっていた。
『なんだか様子が……』
ユダは今も、セルイラとノアールだけを狙っている。だが、最初の頃の余裕さがまるでなかった。
『禁術は扱った者の身を滅ぼす。ノアールの誓約も解かれたし、それ以前にユダはジグデトスの亡骸をあさって禁忌を犯しすぎた。その反動がここできているみたいだね』
当たり前のように水神が言ってのけた。彼の瞳には、一切の同情がない。というよりも、ユダに対して同情が湧くまでの興味すらないのだ。
ユダが時間がないと言っていたのは、そういうことなのだろう。だからこそ器となるセルイラの体が必要だった。
『まず……どっちから……』
的を定めたユダの目玉が、ぎょろぎょろと左右に揺らめく。その不気味な面差しにゾクリと鳥肌が立った。
『皆、下がっていてくれ』
セルイラの前に、ノアールが庇うように出る。横から窺えるノアールの顔付きは、魔界に来た当初とは比べ物にならないほど生気に満ちていた。
『……ノア、』
誓約が解けたとはいえ心配だ。咄嗟にセルイラは、ノアールの袖を引っ張る。
そのままノアールを見上げると、なぜだか彼は誇らしそうに微笑んだ。
――次の瞬間、ユダが先手に出た。
新しく魔法で出したと思われる剣を手に、近くにやって来たノアールへ一直線に向かってくる。
何の小細工もなく、ノアールは動きを捉え真正面からユダを迎え撃った。
(ノア……!)
前魔王ジグデトスの力を禁術によって手に入れたユダの力は、今や計り知れない。
ノアールのことを信じていたとしても、心配しないこととは別問題だ。
しかし、そんなセルイラの危惧は、綺麗に打ち砕かれることになる。
『ギィ、ギャアア……!!』
聞くに耐えない叫び声が、空間を埋め尽くす。
……ノアールの足元には、這いつくばっているユダの姿。
セルイラには、なぜそうなったのか分からなかった。
『――前魔王であるシグデトスを葬ったのは、魔王様がまだ幼少の頃の話です。その時すでにジグデトスを斃すだけの力が、あの方にはあった。今や誓約という呪いのしがらみが消え去った魔王様に、半端なジグデトスの力を持つユダが適うなど、ありえない』
本来の力を取り戻した絶対的な魔王の姿に、メルウはそう言葉にした。
光明が差し込んだかのような眼差しは、喜びに震えている。
ノアールに水神の祝福が与えられたときから、すでに勝敗は決まっていたも同然だったのだ。
『ああ……ああ! こんなこと、あってはならない! あたしがどれだけの時間、費やしてきたか! 待ち焦がれていたか!』
床を引っ掻くユダの爪の音が虚しく響く。それでも立ち上がることは不可能だった。
『ユージーン!!!!』
乱心状態でユダは大声をあげる。
ずっと後悔に駆られた表情で、事の成り行きだけを傍観していたユージーンは、彼女の呼びかけにハッとして返答をした。
『……はい』
『はやく、別の器を持ってきなさい!! 今すぐに!!』
『……。分かりました』
ユージーンは一瞬、葛藤に苦しむ様子で立ち竦む。
だが、ユダの命令に逆らうことはせず、一人の少女を転移の魔法で呼び寄せた。
セルイラは、驚きのあまり絶句する。
ユージーンの腕に横抱きされるようにして収まる少女――アメリアが、そこにいた。
『ユージーン』
セルイラの背後から、殺気立った声がした。間違えるはずもない、アルベルトである。
『……大丈夫だよ、アメリアちゃんは眠ってるだけ。この子はもしもの時のための、二番目の器だったんだ』
『ん、だと……?』
青筋を立てるアルベルトは、なりふり構わずユージーンのところへ向かうべく、体に魔力を込めた。
『アルベルト、待つんだ』
今にもプツンと怒りの糸が切れそうなアルベルトに、ノアールは落ち着いた声音をかぶせる。
ちらりと視線だけをアルベルトに向け、首を横に振り、その場で待てと言葉には出さないが指示していた。
ノアールは気づいていたのだ。
ユージーンがこれからどのような行動を取るのかを。
『ユージーン……っ! 早く、その器の心臓を……剣で突き刺しなさい!! そうすれば――』
『……』
うつむいていたユージーンが、顔をあげる。その目に、諦めにも似た決意を灯しながら。
『もう、できません……ユダ』
きっぱりとユージーンは言い切った。まさか断られるとは思ってもみなかったユダは、ぽかんと口を開けて固まっている。
そんなユダを尻目に、ユージーンが歩みを進めたのは、アルベルトの前だった。
『アメリアちゃんまで巻き込もうとして、ごめん』
ユージーンは「はい」と言って、アメリアをアルベルトに抱えさせる。
ぎこちない腕の中に渡ったアメリアは、すやすやと寝息を立てていた。
気が抜けてしまう寝顔に、アルベルトの口の端が安堵でゆるむ。けれど、すぐに厳しい顔つきに戻してユージーンに目を向けた。
『遅いんだよ……お前は』
『本当に……俺は取り返しのつかないことをしてしまった』
『この、馬鹿野郎が。こんなこと、そう簡単に許されねぇだろ』
悲しげに放たれた暴言に、ユージーンはただ頭を下げる。
また、セルイラへと視線を向け、さらに深く頭を下げた。
『は? ちょっと、何してんの? どうして器にとどめを刺さない? 聞いているのユージーン!!』
『聞いています。ユダ』
くるりと振り返ったユージーンは、素早くユダの前までやって来る。
ユダを抑え込んでいるノアールに一礼して、その場に膝を着いた。
『もう……やめるべきです。これ以上、あなたのために誰も巻き込んではいけない。もっと早くあなたを止めるべきだった。情に流されすべてに従うのではなく、間違っているのだと』
ユダは呆気に取られ、そのうちみるみると形相を変えていった。
『なによ、あんた……ふざけるのも大概にしな小僧!! 何のためにあたしが、あんたをそばに置いたと思ってる!? この、役立たず!! 本当はあんたなんて、初めっからいらなかったのに!』
『はい、本当ですね』
『あんたなんか、いらなかった! 邪魔だったのよ!』
じたばたと暴れるユダの言葉に、ユージーンはすべて頷いている。
その後ろ姿があまりにも、セルイラには苦しげに感じた。
『あんたなんか、一度も息子だなんて思ったことないのよ! 良いようにこき使えると思ったから、あたしはねぇ!!』
「……っ」
セルイラの頭の中で、何かがはじけた。
気づけば足が前に出ており、全速力とはいかないにしても、とてつもない早さでユダへと近づく。
目を丸くしているノアールの横を通り過ぎ、セルイラは聞き手にいるユージーンの肩に手を置いた。
『ユージーン様、ちょっと、よろしいでしょうか』
『え、セルイラちゃん……』
振り返り見上げたユージーンの顔は、叱られた子どものように弱々しい。
セルイラはぐっと奥歯を噛み締めて、未だに騒ぎっぱなしのユダの横に両膝を折る。
セルイラがそばに寄ったことにも、ユダは気づいていないようだった。
『ああ、あああ! こんなに使えないなら、初めからあたしの前に現れるな! とっとと消え――』
『いい加減にしなさい!!』
セルイラの怒号に、ユダはピタリと動きを止めた。「どうして自分は怒鳴られているんだろう?」と、何の理解もない間の抜けた顔を浮かべながら。
『ユダ。わたしが、あなたに語れることはきっと少ない。わたしはあなたじゃない。だから、あなたが大切な人を奪われて、どんな想いに苛まれていたのか、知ったとしてもすべてに同調することは絶対にできない』
『だから? だからなんなの? ねえ、あんた……あたしに説教でもしてるの?』
『説教なんて、そんな大それたことじゃない。ただ、考えてみたの。わたしが、もしあなたのような立場だったらって。……考えてみたわ』
『なにを、考えるって? あんたにあたしの何が分かるって!? ああ、憎らしい……そうよ……あたしは、セラ……200年前から、あんたのことも大嫌いだった!! 同じ生け贄のくせして、ジグデトス様を葬った男と幸福を掴み、愛され、恵まれていたあんたがっ!!』
次々と吐露を始めたユダは、転がっていた剣に手をかけようとする。
それに気づいたユージーンは、素早く奪い取った。
『ああ、くそ!! なんで、なんでいつもこうなる! ようやく、ようやく幸せになれると思ったのに!! どうしてあたしの邪魔をする!?』
『……ユダ』
『あたしには、ジグデトス様がすべてだったのに……あの方だけが、あたしを救ってくれたのに。そんな人を殺したその男が、どうして今ものうのうと生きているのよ!!』
叫びすぎてダミ声に変わってきても、ユダは止まらない。
『そうね……ノアールは、あなたの大切な人を、奪った。恨んで当然だわ』
同意したセルイラに、誰もが驚愕の色を顔に浮かべた。
まさかセルイラが、そんなことを言うなど考えてもいなかったからだ。
『……』
ノアールはセルイラの発言に分かりやすく表情を曇らせる。
その気配を察したセルイラは、彼のほうに振り返り、柔らかく笑んでみせた。
『たしかにノアールは、あなたにとって許すことのできない相手だわ。だけど……ノアールのしなければいけなかったことが、もしもユダのように誰かに傷を残す行為だとしても、わたしはノアールの味方でいないといけないの。それが罪だと言うならば、わたしが共に背負っていく。だからユダ……わたしのこともあなたの気が済むまでどうぞ恨んで、憎めばいい』
そこで一度息を切ると、セルイラは「ただ……」と言葉を繋げた。
『憎むことで、周りを巻き込むようなやり方は、絶対に正しいとは言えない。ユダ、死ななくてよかった人たちを、あなたは殺したの。わたしは……一生それを許すことができないわ』
『……ふっ、ふふふふ! あはははは! それって、あんたの弟たちのこと? なぁんだ、もう知ってるの。ふふ、そうよ! あたしがあの村を全部焼き払ったの! いい気味だったわ……あたしにとって、あの村は目障りだったから!!』
面白おかしくするユダに、セルイラは「ああ……」と諦観する。
おそらくこの人は、自分のおこないをこれっぽっちも悔い改める気はないのだろう。
今までのことを、一つも改心するつもりはないのだろうと。
『あんたが絶望すれば、それはノアールの苦しみに繋がる! だからセラ、あんたを思う存分利用したの! 本当に役に立ったわ!……なのに、こんなところで、こんなヘマをっ』
どうにかして体を起こそうとするユダ。しかし、それはかなわない。
『ユダ……わたしは恵まれていると言ったわね。そうかもしれない。こうしてまた、みんなに出逢うことができて、たしかに恵まれていると思う』
『……なに、なにが言いたい?』
『さっきの続き……わたしも考えてみたって。わたしがユダと同じような立場だったら』
セルイラは力強い眼でユダを見下ろし、断言した。
『わたしはきっと……自分が過ちを犯したとしてもそばにいてくれたユージーンを、手放したりはしなかった』
『……!』
ユージーンの瞳が、光の膜できらりと反射した。
すべてには恵まれていなかったかもしれない。
けれどあなたにだって、気づくことができたならば、あったはずだ。
恵まれた存在に。
『――さい。うるさいうるさい!! そんなのあんたに関係ない!! 長々と語って気分がいい!? いい加減、うるっさいのよ!!!』
セルイラの胸が、ドクンと跳ね上がる。
逆上したユダの指先が、セルイラのすぐ目と鼻の先に伸びていたからだ。
残していた力を、感情のままに押し出したのだろう。わずかな隙を突いて、近くにいたセルイラに手をかけようと、血走る目を向けてきた。
しかし、甘かった。その俊敏なユダの動きにも、今のノアールは対応ができたのだ。
ノアールはもう一度、ユダの自由を封じようと手をかざす。
『さよなら、母さん』
――ズプリと、生々しい音がした。
『がっ……はっ……な、にを』
うつ伏せになったまま、ユダの体には間違いなく剣の切っ先が埋まっている。
『……ユージーン様?』
わなわなと、セルイラはユージーンに視線を送った。
ユージーンの手には、先ほどユダが触れられないようにと奪った剣が、しっかり握られている。
『……』
わずかに飛び散った血しぶきが、ユージーンの頬に点々と赤い跡を残した。




