65 水神の祝福
セルイラが目を開けると、そこは水の底だった。
ごぽごぽと、口内からこぼれ出た息が気泡となって見えない水面へと昇っていく。
呼吸はしていない。けれど苦しくはなかった。水の中だというのに恐れは一切感じず、むしろ穏やかな気持ちがセルイラを満たしていた。
(わたし、刺されなかった……?)
自分の右胸に目を落とすが、貫通していたはずの剣の先はなかった。
怪我もしておらず、体の痛みは感じない。ここまで状況を確認して、セルイラは「ああ……」と声を漏らした。
(わたし……死んだのね)
最後に覚えているのは、ノアールに告げた「愛している」という言葉。
そこからのセルイラの記憶は途切れているので、自分の命が尽きたのだろうと察する。
色々と突っ走った結果……ノアールの危機を間一髪で防ぐことはできた。けれど自分は、死んでしまったのだ。
(…………)
セルイラは、両膝を抱えてうずくまった。
ここは水の中。丸まったセルイラは、ふわふわと水中を漂うように浮かんでいる。
自分が死んでしまったのなら、ここはどこなのだろう。セラであったときは、このような死後の世界を目にすることはなかったはずなのに。
「死にたく、ない」
セルイラの声は、こぽこぽと溢れる水泡の音にかき消された。
そんな時である。
――チチッ、という可愛らしい鳥の鳴き声が、耳に届く。
セルイラが顔をわずかに上げると、そこには青い翼を羽ばたかせた小鳥が、パタパタと飛んでいた。
(アオ)
ここにアオが現れたことに、セルイラは少しも驚きを見せなかった。
この不思議な水の空間に、アオが現れる理由。さすがのセルイラも、彼の正体には気づいているのだ。
まるで水の中を泳ぐ魚のように、滑らかな動きで青い小鳥は飛行する。
伸びやかな羽ばたきでセルイラの目の前までやってくると、小さく「チュン」と鳴いた。
「……」
つぶらな瞳が、セルイラをじっと見つめている。小鳥は、セルイラが口を開くのを待っているようだった。
「あなたが、水神様だったのね。――アオ」
青い小鳥に向かって名を告げる。すると小鳥は、嬉しそうに鳴いて、その姿を変えていった。
淡い光を放つ水の膜に包まれながら、小鳥は徐々に体の形を変化させていく。
ぽこぽこ、ぽこぽこと、空気を孕んだ雫は、煌めく星々の光のように、青い鳥だった者のそばを浮遊していた。
「……やぁ、セラ」
雫が弾け、水の膜から現れたのは、一人の青年だった。
白に近い水色の長い髪は、おそらく彼の身長ほどあるだろう。透き通る銀色の瞳は、セルイラを優しげに、それでいて悲しそうに見つめていた。
◆
――セルイラが命を落とした、まさに数秒後のことである。
『……!』
ノアールの腕に抱かれたセルイラの身体が、淡い光に包まれた。
冷たく硬直したセルイラの身体は、少しずつ温かみを取り戻していく。
青白い唇はほんのり桃色に色づき、頬にも赤みが差し始めたのだ。
『な、んだ……!?』
『ママ……!』
アルベルトとミイシェが、同時に声をあげる。メルウは仰天のあまり言葉を失い、ニケは両手を口に当てて声を抑えた。
少し離れた位置にいるユダは、警戒した様子で距離を取り、ユージーンは未だ棒立ちで唖然としている。
『…………あっ、ママの、怪我が!』
ミイシェが指さしたのは、セルイラの右胸に刺さる剣。
深々と体に残る刃は――セルイラを覆う光に反応するように音もなく消えていく。
剣だけではない。致命傷となっていたセルイラの傷口が、どんどん塞がり始めたのである。
ところどころ血で汚れた肌も、浄化されるように綺麗になくなっていった。
「……」
ふっ、と――セルイラの唇から、浅い息が吐かれた。肩が上下に揺れる。呼吸が再開されたのだ。
「……ん、んん」
呼吸の合間に出たセルイラの声に、皆は瞠目する。
まばゆく神々しい輝きが弱まると、セルイラの怪我は――完全に治っていた。
「……アオ……」
セルイラの瞼が、ゆとりのある動きで半分ほど開かれる。
海のような青い瞳に、セルイラのまつ毛の影が落とされた。
まだ、自我を取り戻していないのか、セルイラはぼんやりとしたままノアールに体を預けている。
『…………』
ノアールの手が、恭しい動作でセルイラの肩に触れた。ほんの些細な力で消えてしまうのではないか。神秘の光景を前に、そんな心配がノアールの頭によぎったからだ。
けれどそれは、杞憂に終わる。
「……あ、ここは……わたし、戻ってこれたの?」
意識がはっきりと覚醒したセルイラは、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
ノアールの胸元でもぞもぞと動き出し、ようやく自分の力で体を持ち上げた。
「ノア」
『……』
セルイラと、ノアールの視線が合わさった。
どこか夢から醒めたようにきょとんとさせているセルイラとは対照的に、置いていかれた子どものような顔をするノアール。
『…………えっと、ノア、ただいま』
光のヴェールを纏わせたセルイラ。まずは、目の前の彼に一言添える。なんとも呑気な発言だ。
訳が分からずに息を吹き返したセルイラを見つめ返しているノアールは、口をぱくぱくとさせていた。アルベルトやミイシェも同様に、これが本当に現実なのかを判断できずにいる。
しかし、セルイラは違った。彼女はすべてを見通し分かっているのか、その顔は温容に満ちている。
『まずはあなたに、水神様の祝福を――』
色々と、話さなければならないことは沢山ある。
とはいえ、まずはノアールの体を蝕み支配し続けていた、その忌々しいユダの誓約を、解こう。
ノアールの両の耳を、セルイラの両の手が支えた。
吸い寄せられるように、血色の戻った唇がノアールの額にそっと触れる。
涼やかな水の音は、縛り付けていた彼の誓約を溶かすように、ノアールの心身に浸透した。




