64 願い
『セラ様っ!!』
遅れて駆けつけたメルウが声を張り上げる。
セルイラのおびただしい出血を前に、彼の頭には最悪の結末がよぎりそうになった。
無闇に剣を体から抜くことは、セルイラを殺めることに繋がりかねない。
すぐさま剣が刺さった部位に手をかざし、メルウは治療の魔法を施し始める。
だが――状態は一向に回復の兆しを見せなかった。
『魔王、様……?』
ノアールの手元を見ると、片方は自分の体を支えているが、もう片方はセルイラの体に当てていた。
かなり早くから、回復魔法をセルイラにかけ続けていたのだろう。
体の限界が近いノアールの魔法では、効果は半減するだろうが、それでも魔王の魔法には変わりない。しかし、セルイラの顔色が良くなることはなかった。
『そ、そんな……セラ様……』
『メルウ、さん? 良かった……どこも怪我、なさそう』
虚ろな瞳のセルイラが、メルウを見る。
ユージーンによって連れ去られてしまったあと、メルウの安否を気にしていたセルイラは、ほっとして彼に笑いかけた。
『私の心配など、なさらないでください!! 私は、また、また、あなたの危機をお救いすることが……!!』
『……そんな、こと、言わないで』
戒めるメルウの言葉を、セルイラはやんわりと遮った。
セルイラはそんなことを、メルウに思って欲しいわけではないのだ。
『ママ』
ぽーん、と。ピアノの一音のような幼く柔らかな声音に、セルイラは応える。
『なあに、ミイシェ』
こぼれ落ちそうなほどに瞳を広げたミイシェが、すぐそこに立ってた。
『マ、マ、パパ』
ニケに肩を支えられるようにして佇むミイシェは、パタパタと足音をさせてセルイラの横に両膝を着いた。
『ミイシェ……ノアに、あ……パパにね、伝えられたよ。ミイシェ、ずっと気にしてくれていた、ものね。良かったわ、伝えられて』
『ママ、だめだよ。喋っちゃ。まっててね、ミイシェがすぐに、ママの怪我を治すからね』
嗚咽混じりの声がミイシェから漏れる。
ぶんぶんと首を横に振り、ミイシェは両手をセルイラの体に押し当てた。
セルイラの傷口がほんのりと光を帯び初め――けれどそれは、すぐに消えてしまう。
『あれ? なんでだろう? もういっかい……』
しかし、結果は同じだった。
『……ど、して? どうして? どうしてママの傷、治らないの!?!?』
何度も、何度も、ミイシェは魔法を起こす。光っては消え、光っては消え、光っては……また、何の変化も起こらないまま灯火のように消えた。
『やだ、やだ! ママ、ひっ、ぐ……なんでぇ……』
魔法が一切効かないことを、ミイシェは悟った。
『ミイシェ』
泣き出してしまうミイシェの頬に、セルイラは優しく触れる。
愛しい我が子を撫でると、ミイシェはさらに大きな声で泣き出してしまった。
『どうして、こうなっちゃうの……? やっと、ママに逢えたのに……パパに、逢えたのに……っ、アルお兄さまに、みんなに、やっと逢えたのに!! どうしてママが、こんなことになるのっ!!』
駄々をこねる子どものように、ミイシェは誰に言うでもなく声をあげる。
少女の叫びは、そうなろうとしているセルイラの運命を拒否しているようだった。
『……ミイシェしってるよ。悪いことするひとが、神さまから罰をうけるの。ママは、なにも悪いことしてない……ママはなにも悪いことしてないのっ!! なのに、なんで、ママなの! ミイシェのほうが悪い子だよ!』
『ミイシェ……』
ミイシェの頬に添えられていたセルイラの手を、ミイシェはぎゅっと抱きしめるように握る。
ガラス玉のごとく大粒の涙を流すミイシェに、セルイラは小さく「ごめんね」と呟いた。
『どうしてママがあやまるの……? あのね、ミイシェね、ママがいなくなっちゃうなら、ほかの人が代わりになればいいのにって思ったの! ミイシェ今思ったから、ミイシェ悪い子だからっ、ミイシェのほうが悪い子だから。だからママとこうかんこして!!』
『……ミイ、シェ』
『ママがいなくなったら、ミイシェがずっと叶えたかった、家族じゃないの!!』
『……』
セルイラはくぐもった声で「こんな優しい子には、罰は当たらないわ」と言った。
もしもミイシェの言葉で罰が落とされるならば、セルイラは全力で、その罰とやらを否定するだろう。
『お前は悪い子になれないだろ、ミイシェ』
ミイシェは弾かれるように顔を上げる。
ユージーンと対峙していたはずのアルベルトが、セルイラたちを見下ろしていた。
アルベルトの背後、そう遠くない位置には、ユージーンが呆然と立っている。
何をするでもなく、己が犯した事の重大さを噛み締めているのか、拳を握って硬直していた。
『アルベルト……』
『父さん、何やってんだよ』
強がりから出たから空笑いが、とても痛々しい。
セルイラはアルベルトに、無理して笑わないでと言いたかった。
アルベルトの心は、そう逞しいものではない。本人が思うよりもずっと、弱く脆いのだから。
『……っ』
そっと、アルベルトはセルイラの傷口に手をかざす。ミイシェと同じく回復魔法をかけようと魔力を込めるが、輝きは跡形もなく消えてしまった。
『アルベルト……、アル、ありがとう』
『なに、言ってんだよ。元はと言えば、俺があんたを魔界に連れて来たから、こうなったんだ。馬鹿みたいに焦って、花嫁候補なんて召喚しなければ、少なくともこうなることはなかったんだ』
ぼんやりと思考を彷徨わせ、セルイラは「そんなことない」と呟く。
できることなら、涙を滲ませた強がりなあなたを、自分の両手で慰めてあげられたらよかった。
「げほっ……」
咳き込んだ拍子に、セルイラの身体が前に傾いた。
『――セラ!』
ユダの命令で自由のきかないノアールが、それでもセルイラを抱きとめようと動く。
とん、と……ノアールの肩にセルイラの顎が置かれた。
『ノア……わたしのこえ、あなたには、聞こえてるよね』
途切れ途切れとなったセルイラの声。舌もうまく扱えず、ぼそぼそとお粗末な音しか出てこない。
耳元で聞いているノアールにしか、セルイラのこの言葉は拾えないだろう。
『ミイシェが、ミイシェがママの、代わりになるからぁ……』
『お前じゃなくて、なるなら俺だ』
『おにーさまのばか! ミイシェだよ!』
『俺だって言ってんだろ!』
不謹慎にも、二人の子どもは言い争いを始めた。こんな時に……こんな時だからこそ、なのかもしれない。
『ほら、あんなこと、言ってる』
セルイラは力なく、けれどどこか微笑ましそうに吐息を漏らした。
『あの子たちには、まだ、親が必要なの』
どれだけ長い時間を生きてこようと、どれだけ精神が立派になっていようと、関係ない。
二人にはまだ、その存在がいるのだ。これまでの境遇を考えれば、失うには早すぎる。
『必要とされているのは、私ではない。あなたが、必要なんだ』
『そんな風に、言わないで』
『……』
『…………ノアも、そう思ってくれているの?』
『なに?』
『わたしのこと、必要としてくれる?』
そう尋ねると、セルイラの頭部に確かな温度が触れた。
ノアールの指先が、セルイラの髪の隙間をすり抜ける。
『今も昔も変わることは、ない』
紡ぎ出す感情が、ノアールの唇から零れ落ちた。
『あなたは、私のすべてなんだ……っ』
あなたがいたからこそ、大切な存在を見つけることができた。あなたがいたからこそ、世界が彩りに変わった。
あなたがいなければ、愛おしい我が子に出会うことすら叶わなかっただろう。
『……う、ん。わたしも、あの時…………あなたに、言いたかった』
200年前の、別れの間際。
押し潰されそうな思いの渦の中、あの瞬間、目の前のあなたに、本当に伝えたかったことは一つだけ。
"わたしは、ノアが "
あの日のわたしが言えなかった、告白。
『わたしは、ノアを、愛している』
ああ、やっと、あなたに言えた。
――セルイラの意識は、そこで途絶えた。
◆
静寂があたりを呑み込んだ。
誰もが声を発せずに、たった今、息を引き取ったセルイラの姿から目を逸らせずにいた。
こんな結末を、誰が望んだと言うのだろう。
どうして彼女でなくてはいけなかったのか。
身体に伝わるセルイラの熱が、失われていくのを感じる。
ノアールは、今すぐにでも自分を、自分の手で殺してしまいそうになった。
『…………あは、あはは! なに、死んだの? だったら早く、あたしに寄越しなさいよ』
息を潜めていたユダが、歓喜に震え瓦礫の中から顔を出す。
『…………』
ノアールは、考えた。
今ならば、自分のすべてを投げ出して、ユダの命を奪えるのではないか。
元々そのつもりだった。絶好の時はたったの一度きり。失敗は許されない命懸けの最後。
残されていた魔力と寿命で、一時的に誓約を止めることができるなら、ユダを殺めることができるはずだ。
初めから自分は、そうすることで、ユダを消滅させようとしていたのだから。
ただ、そんなノアールを迷わせるのは、彼女の言葉だった。
そして己の胸の中で事切れたセルイラを、置いていくことがノアールにはできなかった。
『――大丈夫。君たちの願いは、水神にすべて、届いているから』
ぴちゃん、と響く、水の音。
セルイラの身体が、まばゆい輝きに包まれた。




