63 残された時間
『よし、開いた。行くぞメルウ!』
『はい。おそらくセルイラ様も、こちらに……!』
正確に言えば壊したというのが正しいが、扉を崩壊させたアルベルトは、メルウと共に王座の間へ入って行った。
一歩、足を踏み入れた瞬間、ただ事ではない空気にアルベルトとメルウは、立ち止まる。
『……は?』
無惨な光景を前に、アルベルトは自分の目を疑った。
黒い床に赤黒い色で描かれた魔法陣。
その中央には、父親と――背中から右胸を刺された血だらけの母親がいる。
父親のノアールは、上から覆い被さる彼女の体を抱き止めていた。
『なんだ、これ。なんで』
『ママ!!』
入り口から声を張り上げたのは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたミイシェだった。
悲痛な叫び声が、空間にこだまする。
ユダは、ミイシェの発言に顔を歪ませた。
『……ママ?』
『いけません、ミイシェ様! アルベルト様に言われたでしょう! 危険だからお部屋で待っているようにと!』
『……でも、ママが……あれ、ママの血が! ママァ……!』
ニケはミイシェを取り押さえるが、セルイラの惨状を目のあたりにすると、顔を青くさせた。
『……せ、セラ、さま』
尋常ではない血の量。床を徐々に侵食していく赤い血は、セルイラの命の危機を報せていた。
『――おい』
誰もが動けずにいる中で、真っ先に動いたのはアルベルトだった。
魂を半分抜かれたような、目の前の光景に呆けた顔をするアルベルトは、表情を変えることなく周囲を確認する。
『何があって、そうなった? なんで、刺されてる? どうすれば、そうなるんだ?』
『ああ、ああ……餓鬼が。よくも、邪魔を』
計画が狂ってしまったからだろう。ユダは自分の髪を掻きむしりながら、ブツブツと小言をこぼしていた。
『――その髪に、顔は』
ユダの姿にアルベルトは目を見張る。
眉を引き絞らせ数秒間だけ考え、その後アルベルトはどこか納得したように言った。
『ようやく面が見れたと思ったら、なるほどな』
『――ああ、アルベルト。こうしてあたしの顔をちゃんと見るのは、はじめてだった? ふふ、そんなに見ないで恥ずかしいわぁ』
頭のネジが一本外れたような、陽気なユダの声にアルベルトは露骨に顔を顰めた。
アルベルトの記憶にあるユダは、常に顔をベールに似た布で覆っていた。
一番頭に焼き付いているのは、不快とすら感じるどぎつい色の唇の紅だけ。
城の者が知る限り、ユダの素顔を把握しているのは、魔王ノアールとお付きの侍女であるナディエーナだけであった。
『アルベルト。お願いだから、おとなしくしていて? もうすぐで、儀式が完成するんだから。ねぇ、いい子だからね』
『俺の名を気安く呼ぶんじゃねぇ。てめぇは黙ってろ。クソババア』
アルベルトは、冷めた瞳をユダに向け、手をかざした。
『ギャアア!』
一切の手加減なく、アルベルトはユダに炎を放った。アルベルトの魔力と同じ色をした青い炎は、ユダの体を直撃し、衝撃に押されて壁に叩きつけられる。
玉座の間の壁は、扉同様に崩れ落ち、ユダは瓦礫の下に埋もれたまま反応を示さない。
『メルウ』
アルベルトがメルウに目配せをする。
『かしこまりました』
アルベルトの合図で、メルウはノアールとセルイラがいる場所へと急いだ。
『……っ!』
『おい、待て。なに動こうとしてんだ。てめぇに訊いてんだよ』
ユダのもとへ駆け寄ろうとするユージーンを、アルベルトが止めた。
一歩でも動いたら許さない。アルベルトの瞳は本気だった。
『ユージーン。俺、言ったよな。あんま勝手なことするんじゃねぇぞって。なのに……お前は一体、何をしてるんだ?』
『……魔力縛りでセルイラちゃんを動けなくさせ、ここに連れて来たんだ』
その言葉に、アルベルトの瞳がカッと開かれる。
『お前、俺に言ったよな? 魔力縛りが、どういうものなのか。俺の頭に拳を下ろしたよな?』
『……それは』
『聞きたいことは山ほどある。お前とあの女の関係もな。その前に、これだけは答えろ』
怒りが頂点に達したアルベルトは、抑えが効かず身体中から魔力を溢れさせている。
ごき、ごき……と、手を組んで関節を鳴らす。そしてもう一度、右の手に青い炎を出現させ、ユージーンに尋ねた。
『…………俺の母さんが、あんな怪我を負ってる理由は、なんだ!!!』
◆
セラ――と、ノアールは呼ぶ。
セルイラの奥底が、じんわりと温かな感覚に包まれる。
ノアールに認識され、名を呼ばれるだけで、こんなにも泣きたくなるなんて。喜悦の情で心が溢れそうになるなんて思ってもみなかった。
『……ノア』
ノアールの瞳からわずかにこぼれた涙を、セルイラは指で掬いとった。
四つん這いのような状態で、セルイラはノアールに覆いかぶさっている。
ノアールは手を後ろについて、自分の体を支えていた。瞬きすら惜しいと、セルイラの存在を確かめ見入っている。
『あの、何から、話せばいいんだろう……。わたしね、生まれ変わって、たんだ』
『生まれ……変わり……?』
ようやく絞り出したノアールの声。セルイラはコクリと頷く。
『う、ん。本当は……げほっ……もっと早く、言うつもりだったの……でも、こんなに、遅くなっちゃった』
段々と……セルイラの呼吸に、雑音が混じり始めた。
背中から右胸にかけて一突き。刺されたままの剣を抜けば、今の比ではない量の出血がセルイラを襲うだろう。
『えっと、そっか……あなたも、ユダの命令で、動けないんだった。わたしも、動けそうにないから、このまま聞いてくれる……?』
言葉を紡ぐたび、セルイラの全身に激痛が走り続ける。
足元から伝わる冷ややかな温度は、徐々に体温を奪われているのだと悟った。
震える手で、ノアールの頬を包み込む。まだ夢だと思っているのか、ノアールの顔は普段の何倍も幼く、不思議と可愛く見えた。
(あ、れ、痛みが……なくなって、きた?)
激痛の次に待っていたのは、神経の喪失だった。それはつまりセルイラの時間が、もう残りわずかとなっていることを意味している。
それでも今、ノアールに伝えなければいけないと、セルイラは唇を開く。
『あ、ごめんなさい……こんな感じで、あなたに、打ち明けることになるとは、思ってもみなかった、から。もっと、順を追ってね、言おうとしてたのよ。今日、談話室で。…………ええと、そうだ…………わたし、わたしはね……セラの記憶があるの。セラとして生きた……200年前の、記憶』
『……セラ』
『信じて、くれる? アルベルトにはね、最初……少しだけ……疑われちゃったけど、あなたには…………信じて欲しいなぁ』
ノアールは、唇を噛んで首をふるふると動かした。
『あなたは――セラだ』
言葉では例えようのない表情を浮かべ、ノアールは、そう言いきる。
ふんわりと笑ったセルイラは、眩しそうにノアールを見つめた。
『もしかして……ノアも、見えるの? この、綺麗な糸。これね、水神様の、糸よ。ずっと、絡まっていたみたい。でも、さっきね、ほどけて……だからなのね、あなたが、わたしを、わたしだと……分かってくれたのは』
本当に夢みたいな話しねと、セルイラはおかしそうにする。
『……なんだっけ、あのね、色々……話したかったんだけど。ほら、わたし……こうなっちゃったから……難しそうで……』
二人の間に流れる時間だけが、ゆっくりと流れている。
聞こえるはずの喧騒は、なにも聞こえてこない。
この瞬間だけは、世界が二人を中心に動いているようだった。
『わたしはね、ノア――、ごほっ!!』
セルイラの口から、またしても血がぼたぼたと溢れ出る。
その美しい青い瞳に、影が差し始めた。




