61 対面と開始
玉座の間。
魔王の座具のみがある部屋は、他に一切の物はない。
ただ、ぽつんと置かれた玉座は、歴代の魔王が腰を据えた由緒ある座であり、独特の空気を孕んでいた。
(――ユダが、わたしの前にいる。ユダが)
記憶の中で何度か目にした、濃いオリーブ色の髪と、垂れた眦。間違いない、この女が本来のユダだ。
そしてその顔は、やはりユージーンと似ている部分があった。
『これが、器』
セルイラと、ユダの視線が交差する。
とろりと溶けた眼差しに、セルイラは心臓を握り潰されそうな心地になった。
『そう。この顔、この瞳、この髪。これがよかったの』
「……っ」
『うん、やっぱりこの体がいい。もう時間もないし。ふふ、これがあたしの器……』
加減を知らないのか、わざとなのか。突然、ユダに顎を掴まれたセルイラは、さらに上を向かされた。
(なに、この……変な臭い)
ツンとした嫌な臭いが漂う。鼻が曲がりそうな臭いは、ユダからきている。彼女が衣服に付けていると思われる香水の甘さも相まって、吐き気が襲った。
何度も何度もセルイラの頬を撫で回すユダ。少しすると満足したのか、乱暴にその手を離した。
「……いっ……つ」
ユージーンの魔力縛りのせいで受け身が取れない。セルイラは無防備なまま、硬い床の感触を味わった。
『……なに、喋れるの。なんで? これからあたしの器になるのに、言葉を発したらダメでしょ? ねえ?』
『っ! 俺がやります』
『いいのよ、ユージーン。これは直に、あたしの体になるんだから。あたしがおとなしくさせないとね』
セルイラから声が漏れたことが気に入らなかったのか、ユダの高い声がスっと低くなる。
嫌な予感がする――そう悟った瞬間、セルイラの喉が強く締め付けられた。
(声が……出せないっ。苦しいっ)
パクパクと唇を動かすが、出てくるのは掠れた吐息だけ。
ユダが、セルイラに魔力縛りを使ったのだ。
こうなってしまっては、床の上で身をよじることしかできない。
痛い、痛い、と声にならない声をあげるセルイラに、その言葉は届いた。
『――やめるんだ、ユダ』
不思議と、その声にセルイラの肩の力が抜けた。
いつからいたのだろう。セルイラが気づかなかっただけで、彼は最初からいたのかもしれない。
(ノアー、ル)
体勢を横向きにさせ、透けた髪の隙間から、先にいる彼の姿をセルイラは目に焼き付けた。
ノアールが玉座の間にいるということは、アルベルトやニケが異変に勘づいてもおかしくない。
玉座の間の外がどんな状況か把握することはできないが、談話室にいるはずのノアールが消えたことを不審に思うだろう。
『その娘を、器にすると言ったか』
『……そうだけど。あんたには関係ないことよ』
『そのようなことが、本当にできると思っているのか……?』
『ええ、できるのよ。それをこれから、証明するの』
『……』
ノアールは黙り込んでしまう。眉間に皺を寄せ、流れるような動きで横たわるセルイラの姿を確認した。
落ち着き払った様子のノアールは、もう一度ユダのほうを向くと、きっぱりと言う。
『……馬鹿な真似はよせ。そなたが成そうとしている儀式が、成功することはない』
挑発をしているのか。ノアールの発言は、ユダを確実にイラつかせていた。
『はっ、随分と余裕ね。今まで散々、惨めな生き様を晒していた男の言葉とは思えないわ! ねえ、たまらなかったでしょ? あんたの唯一の物を、あたしが奪い、殺し、そしてあんたを恨みながら死んでいった!』
『物と言うな。彼女は物ではない』
『はあ? あたしに口答えする気? 何も出来ずに、ずっとこの城で言いなりだったあんたが、あたしに? なに、勝ったつもり? 知ってるわよ、あんたがちまちまと馬鹿みたいにあたしの掛けた呪術を解こうとしていたことなんて』
『……』
鼻を鳴らしたユダに、ノアールの眉間がまたぴくりと動く。
『あの二人の呪いが解けて、良かったわねぇ。嬉しい? でも残念、あたしの目的が達成したらあの二人は用済みよ。あの女と同じように、死なせてあげるから』
『……言いたいことは、それだけか?』
どこまでも余裕そうなノアールの発言に、ユダの瞳孔がカッと開かれる。
(ノアール、あなたは……)
彼はなにを考えているのだろう。
あのように煽り続けていては、ユダの苛立ちを増幅させるだけだというのに。
『何を企んでいるか知らないけど、もう遅いことに気づいてる? あんたの体は、限界なんでしょ。ふふふ、あたしは知ってるんだから。たかが子どものために、どれだけ命をすり減らしたら、そうなるのかしら』
ノアールを見捉えるユダには、何か見えているのだろうか。
瞳を細めてノアールの体をじっくりと眺め、喜悦の笑みを浮かべている。
『子どもたちの呪いは解けただろうけど。ノアール、あんたには、誓約があるの。真名で縛った誓約が。だからあんたは、絶対にあたしから逃げられない。ねえ、そうでしょ。ルア・ノアール・ロード・クロシルフル』
『ぐっ……』
ノアールから声がこぼれる。ユダは未だに千切れていない真名の誓約を行使し、ノアールの動きを止めたのだ。
コツ、コツと足音を立てて、ユダはノアールの元へ近づいていく。
ノアールを目の前にしたユダは、手を伸ばし彼の体に触れると、絡みつくようにしなだれかかった。
『ああ……ジグデトスさま……もうすぐ、お会いできます』
酔いしれたように熱い吐息を漏らすユダは、ノアールの顔を見つめながら、ノアールではない別の男に思いを馳せていた。
『本当はすぐに殺してしまいたかった。でも、あんたは憎いくらいあの人に似てるの。だからね、今日まで殺さないであげたのよ。あの人の魂を移す器に、ちょうどよかったから』
『……』
『これですべてが完成する。あんたを殺して、ジグデトス様の魂を生き返らせて。あたしは代わりの器に憑依して新しく生まれ変わるの。この腐った体とも、ようやくお別れだわ』
半魔は、人間より長い時を生きることができる。しかし、魔族に比べればその寿命は短い。
ユダの肉体は、遠に半魔としての寿命の範囲を超えてしまっていた。
だからなのかと、セルイラは思った。ユダを目の前にしたときに感じた臭い。あれはすでにユダの体が腐りかけているという意味だったのだ。
『どう、ノアール。あたしに生かされて生きた、この200年は。少しは孤独を堪能してくれた?』
『元は、私は一人であった。ただそれに戻っただけの話だ』
『そんな痩せ我慢をしたって、何の意味もないのにね。本当に、惨めで憎たらしい男』
ユダは顔を顰めたまま、くるりと方向を変えた。
向かったのは、玉座である。
セルイラの位置からギリギリ見える玉座には、古めかしい壺のようなものが置かれていた。
ユダは壺に手を添えると、愛おしげにぺたぺたと触りだす。
傍から見ると、奇妙な光景だった。
『ここに、ジグデトス様の遺骨と、魔力の残り香が入っているの。あの人の魔力をかき集めるのに、200年もかかったのよ。最後は気がはやって、人質の呪いが解かれてしまったけどね。でも、これを使ってあとは儀式で魂を呼び寄せるだけ。ああ……そうすれば、会えるわ』
ユダは分かっているのだろうか。自分がどれだけのことをしでかそうとているのか。
死んでしまった者の魂を呼び寄せ、今を生きているノアールを殺して、復活させるなど。
(ユダは……)
ユージーンが、彼女を憐れな人だと言った理由が、少しだけ分かった気がした。
ユダにとって、ジグデトスは何物にも代えがたい存在だったのだろう。
そんな存在が、ある日、ノアールによって殺された。
ジグデトスがどれだけ悪と呼ばれていようと、彼女にとっては大きな喪失だったのかもしれない。
(その気持ちは、ユダにしか分からないわ。でも、だけど――もしもわたしが、同じような状況なら)
今、セルイラが思っていること。それは200年前に、子どもを産んだことのあるセルイラの親としてのエゴなのかもしれない。
『――おい! ここを開けやがれ!!!!』
ドーン! と、地響きと共に、けたたましい衝撃音が辺りに振動した。
『そこにいるんだろ!! 父さん!! この――ユダァ!!』
それは紛れもなく、アルベルトの声だった。
入口の扉を開けようとしているらしい音に、その場にいるノアールやユダ、ユージーンは視線を向けた。
『ああ、思ったよりも早く来たのね。儀式が終わるまで、部屋に閉じこもってて欲しかったのに。ユージーン、あの扉は大丈夫なの?』
『……。はい。まだ、持ち堪えるはずです』
歯切れの悪いユージーンは、ぎこちなく頷いた。
『ユージーン』
ノアールは、ユージーンに声をかける。
『お前は、アルベルトに慕われていたようだったが。……そちら側で、本当にいいのか? 後悔は残っていないのか』
『……』
『私には、多くの後悔がある。中には、もう取り戻せないことも。だが、ユージーン。お前はまだ、間に合う』
『なにを、今さら。俺にそんな言葉をかけて、ご自分が助かることをお望みで? 俺が……あなたと腹違いの兄弟だったと知ったから?』
ノアールはふっと睫毛を伏せると、口角をほんのり上げた。
『……私は今、アルベルトの父親として、アルベルトの友人のお前に話している。そこに、私の命のことなど持ち出す意味などない』
『――。なんだ、それ。彼女といい、あなたといい、もっと自分勝手なら、どれだけよかったか』
『……彼女?』
ユージーンが倒れたセルイラに目を落とす。つられてノアールも、セルイラを見た。
『なんだか、似ているよ。あなたと、セルイラちゃんは』
『――……』
ユージーンの泣きそうな声が、そうだと語った。
徐々に開かれていくノアールの瞳に、セルイラの心音は大きくなるばかりである。
(声が、出せない……もし、声が出せたら、言えるのに)
『……なっ、おい! その声! ユージーン!! お前もいるんだな!?』
聞きつけたアルベルトが、より一層に扉を激しく叩いていた。
だが、ユージーンによって魔法で固定されているため、なかなか扉は開かない。
『……くそっ! お前ら、そこどいてろっ!』
扉の前には、アルベルト以外にも何人かいるようだった。
アルベルトが、何かを仕掛けようとしている。
それを察知したユージーンは、ユダに言った。
『……もう、時間は残りわずかです』
『ええ、そうだった。それじゃあ、さっさと済ませるわ』
白けた様子でノアールとユージーンの会話を聞いていたユダは、自分の両手を合わせると、それをそっと左右の方向へ離していく。
手と手の間から見えてきたのは、鋭く研がれた刃だ。
『儀式を……始めましょうか』
ユダの手に握られた銀色の輝く剣。ユダはその矛先を、ノアールへと定めた。
あわわわわ…。




