6 自分勝手な恩返し
屋敷の談話室へ場所を移動したセルイラとチェルシーは、この事態に悲しみに打ちひしがれる母の肩をそれぞれ両側から優しく抱いていた。
「なんてことなの……っ、魔王なんて……嘘だと言ってちょうだいっ」
涙を流す母に、セルイラはどう慰めれば良いのか分からなかった。
すでに王室は事態の対処に動いている。信じたくないが、この国の令嬢を魔界へ送る方向で決議されているのだ。
魔族に逆らうことなど、人間には到底できる決断ではないから。逆らわずにいる選択肢以外、人間側には用意されていない。
200年前の記述に、魔族の身体的特徴や秘められた力の数々などが載っている。
人にはない魔法の力を宿し、人の何倍もの時間を生き、恐ろしい獣を使役する悪魔の末裔。交流が絶たれる200年より前は、生贄として魔界に連れていかれる年若い娘の犠牲者が多くいたという。
魔族の存在などこの時代では薄れつつあった。だというのに、今朝突然に国王陛下の前にそれは現れたのだ。
玉座に腰を下ろした陛下の前に前触れもなく出現したという青い炎。
その炎から問題の書簡と、魔族の男のものらしき声が飛んできたという。だが、居合わせた誰もが言葉を理解できなかった。
青い炎は消え、残ったのは黒い羽が一枚。魔族の身体的特徴のひとつの、翼の羽根であった。
どこからともなく出現した浮遊する青い炎、通じない言葉、そして黒い羽根。それだけでも魔族関連だと確定するが、ご丁寧に書簡まであるのだ。もう間違えようがない。
「そう……ディテール公爵のご長女、アメリア様まで名前があがっているなら、アルスター家も応じないといけないわね」
魔界からの書簡には、少なくとも二十人以上は揃えておくようにと書かれていた。
複写の書簡を手にしたセルイラは、心中穏やかではないものの、一つ一つ整理していく。
娘一人のみの家名は外されているようである。跡継ぎ問題から派閥の発生を避けるためのものだろう。
それ以外を対象に、大臣らが選抜した花嫁候補の令嬢は三十人前後。
その中には、アルスター家の名も入っていた。
「陛下からの慈悲だ。お前達ふたりで、決めるようにと」
アルスター伯爵家から一人、魔界へ行くことはすでに決定事項。
だが、セルイラとチェルシー、どちらが向かうかは当人たちで決めてくれということだった。
(どこまでも、馬鹿にしている)
複写された書簡の文には、他にも魔王の要望が書かれている。
『容姿端麗』な娘であること。人間側を馬鹿にしているのか、それとも本気なのか。どちらにしても腹立たしい。
適当に下位の貴族の娘を選ぶということも対策にあったというのに、容姿端麗と言われれば嫌でも選ばざるを得ない。
美的感覚が魔族も人間も同様ならば、それこそ適当は許されなかった。その結果、魔族がどう出てくるかも予想ができないのだから。
社交界デビューにて『華』と謳われたセルイラと、誰が見ても可憐で愛らしいと感想が出るチェルシーは、選抜一覧に入ってしまっている。
姉妹二人に決めさせるなんて酷なことだが、セルイラは知っていた。アルスター夫妻の気持ちを。
「……お父様、お母様、魔界へはわたしが行くわ」
「な、にを……言っているの? セルイラお姉様……」
瞠目する両親に、セルイラは笑みを浮かべた。
ふらりと、チェルシーは母親から離れてセルイラに近づく。
何度も首を振り続けるチェルシーは、セルイラの両肩をきゅっと掴んだ。
「なぜ、お姉様なのですか? わたくしだっていますのに、勝手に決めないで……!」
「チェルシー。あなたには、レオル様がいるでしょう?」
「っ……だからって、お姉様が行く理由にはなりません!」
そう言いつつも、チェルシーの顔は戸惑いの色が浮かんでいる。セルイラを魔界に行かせることには反対だが、かと言って自分が行けるのか。迷いが生じていた。
「……チェルシー、あなたは本当に優しいわね」
彼女はセルイラの自慢の妹だ。
「──血の繋がっていないわたしをこんなに慕ってくれて、ありがとう」
「……?」
驚愕したチェルシーの瞳が、セルイラの顔を映した。チェルシーは初めて聞く事実に頭が追いついていないようだったが、両親は違った。
「セルイラ、知って……いたのか?」
「どうして……」
「ごめんなさい、二人とも。隠していて」
特段隠そうとしているわけではなかった。ただ、両親は自分を実の子のように育ててくれていた。その愛情に偽りはなく、わざわざ言う必要もないと思っていたから言わなかっただけ。
なぜ、知っていたか。
それはセルイラが、赤子の頃から意識を持っていたからである。
彼女の実の両親は、アルスター伯と旧知の仲であった。
だが、セルイラが生まれて間もない頃、出先で土砂崩れに遭い両親は即死。近くの荒れた川に流されたセルイラは、奇跡的に引き上げられ命を取り留めた。
家をなくしたセルイラを引き取ってくれたのがアルスター伯爵家である。
「お父様、お母様。これまでの御恩を返せるのならば、今がその時だと思っています。──だから、わたしをどうぞ、差し出してください」
かしこまった仕草と、言葉遣い。
まるで彼らと自分の間に線を引くように、セルイラは堂々と振る舞った。
血の繋がりなど関係ない。彼らにとってセルイラは、かけがえのない娘である。
それでも、どちらかは必ず、魔王の花嫁候補として連れて行かなければいけない。
だからセルイラは、わざと明かした。
自分が血の繋がりがない人間だと。反対するチェルシーや両親を宥めるための口実として。
(ごめんね、お父様、お母様。それに、チェルシー)
自分が犠牲になる。
そんな仰々しい理由でセルイラは魔界行きを決めたわけではない。
ふつふつと湧き上がる感情を抑えながら、セルイラは微笑みを浮かべる。
(本当に、馬鹿にされたものね。──魔王、ノアール)
書簡には、彼の名前は載っていなかった。けれど、押されていたらしい魔王の印が、第七代魔王ノアールのものであると、セルイラは知っていた。
魔族の王 第七代魔王 ノアール・クロシルフル。
その名を思い出して、セルイラの胸はぎゅっと締め付けられる。
けれどもすぐに、怒りが上回った。
(容姿端麗な娘をご所望だなんて、変わったわね。本当に……変わったわ)
前世に縛られ、なにもない空っぽな自分。一体どうしたいのか、いつも胸の内で問いただしていた。
この時のセルイラは、半分自棄になっていたのかもしれない。けれどそれでよかった。
(ねえ、ノアール。わたしね)
書簡の内容が複写された羊皮紙が、セルイラの握力によってぐしゃりと握り潰される。
前世のあの記憶を断ち切り、先へ進むためには。
(あなたを一発でも殴らないと、気が済まないみたい)
セルイラは……前世、自分の夫であった男の顔を思い浮かべ、顔を歪めた。