56 オーパルディアにて
「……はぁ」
鉢植えに水を与えながら──チェルシーは、本日何度目かも分からないため息をもらした。
彼女がいるのは、姉のセルイラが使っていた寝室である。
太陽が朝の訪れを報せる時間、窓際に置かれた鉢植えに、セルイラは欠かさず水をやっていた。
そして今は、チェルシーの役目でもある。部屋の主であるセルイラがいない今、こうしてチェルシーがそれを引継いでいた。
「……お姉様」
オーパルディアに住まう貴族の令嬢たちが、魔王の花嫁として魔界へと召喚され、はや数日が経過した。
チェルシーは、すっかり落ち込んでしまっている。
彼女だけではない。セルイラが魔界へと召喚されてからというもの、アルスター伯爵邸内が、どこか光を失ったように元気をなくしていた。
じんわりと視界が滲む。自然と込み上げてくる涙を、チェルシーはごしごしと拭った。
他の貴族の令嬢を含め、セルイラの生死すら不明なこの状況では、明るい気分になれというほうが難しい。
しかし今日は、婚約者のレオルが自分の元に会いに来てくれることになっている。
「こんな顔、レオル様には見せられない……しっかりしないと」
チェルシーは、萎れて元気のない肩に力を入れ、セルイラの部屋を後にした。
◆
誰が見ても元気のないチェルシーを、レオルは王城の薔薇園へと連れ出した。
王族でないものが王城の薔薇園に入る際は、許可証が必要になるのだが、レオルはこの日のために前もって手配をしてくれていたらしい。
チェルシーとレオルは、園の中間地点までゆっくり歩くと、設置された長椅子に腰を下ろした。
「とても、綺麗ですね。いい匂いで、癒されます」
「……それは良かった。使用人から聞いたよ、チェルシー。最近、きみが部屋にこもりっぱなしだったとね。だから今日は、少しでも外の空気に触れて欲しくて、連れ出したんだよ」
若干申し訳なさそうにしながら、レオルは横を向いてチェルシーの顔を覗き込んだ。
青白い肌と、ほんのり浮き出た目の下の隈に、レオルは自分のことのように辛そうな表情をしていた。
「……心配で、眠れない?」
そっと、レオルはチェルシーの目元に触れる。
いつもならば、恥ずかしさのあまり慌てふためいて顔を真っ赤にしているチェルシーだったが、今日は大人しいものだった。
「……後悔、してしまうんです」
ぽつりと、チェルシーが視線を真っ直ぐ前に見据えながら答え始めた。
「セルイラお姉様は、ずっと、何かに思い悩んでいました。きっとそれは、お父様も、お母様も、知らないことなのだと思います。けれどわたくしは、気づいていました」
自分とセルイラに血の繋がりがないと知ったのは、つい最近のことである。
しかし、そんなことチェルシーにはどうでもよかった。目に見えない血の繋がりよりも、チェルシーが気にしていたのは──
「……っいつも、こうなのです。相手のためだと顔色を窺ってばかりで、結局何も、できなかった」
ぼんやりと前を見つめるチェルシーの目尻に、また涙が溜まり始める。
いつの間にかレオルは、そんな彼女の震える肩を優しく抱いていた。
「もっと、聞けば良かった。お姉、様が、何に悩んでいらっしゃったのか。思えばいつも、甘えてばかりで、何も知らなかった、です」
もしかしたら、すでに生きていないのかもしれない。
最悪な想像ばかりしてしまうが故に、チェルシーはいつもの何倍も泣き虫になっていた。
積もり積もっていくのは、後悔ばかりである。
「会いたい……お姉様、会いたい……」
何度も呟いては、チェルシーは祈りを捧げるように両手を強く握りしめた。
「夜になると、いつも、こうしてお祈りをしているんです。セルイラお姉様が、ご無事でありますように。そして、連れて行かれた皆様が、どうかご無事でありますようにと」
毎晩のように水神に祈りを捧げるものだから、寝不足になってしまったのだろう。
「きみが身を粉にして祈りを捧げてくれているのだから、水神様も耳をお傾けになってくれるかもしれない。僕も一緒に、祈りを捧げるよ」
きっと大丈夫。そんな無責任な発言は、できなかった。
セルイラを含め、花嫁候補となった令嬢たちの無事を確認できるすべは無いのだ。
気休めだと分かっていても、ただの人間にできるのは、神に祈る他ない。
ある神書の一説によれば、気が遠くなるほどの長い年月をかけて水神に祈ることで、知らずのうちに信仰力の高まった者が、水神の祝福を授かったという。
しかしレオルは、そこまで信仰に熱心というわけではない。
チェルシーに感化され一時の間だけ祈りを捧げたところで、神はそう簡単に、都合よく応えてはくれないだろう。
それでもチェルシーと同じように、令嬢たちの無事を、祈らざるを得なかった。
(──もう、不可解な事態が起こらないでくれるといいが)
別の意味も込めて、レオルは水神に祈っていた。
侯爵家の次男であり、チェルシーの婚約者でもあるレオルは、現在王太子の補佐役を務めている。
立場上、王太子に入る情報は、ほぼ自分も把握しているといっていい。
そんなレオルは、今朝方……奇妙な報告を受けていた。
それは、城に勤める王の臣下らと、数名の貴族たちが次々と意識を失い倒れた、という報告である。
彼らには、ある共通点があった。
(まさか……魔王の花嫁として令嬢たちを選定することに、いち早く首肯された方々ばかりとは)
そして不気味なことに、目を覚まし始めた彼らは、皆一様に同じ言葉をこぼしている。
──魔王の書簡が王城に届いてからの、ここ数日のことを何も覚えていないと。
一体何が起こっているのか。レオルを含め、残された者たちには、分かりようがなかった。
ありがとうございました。
次回から、いよいよ結末までラストスパートです。




