54 今度こそ
昨晩の、ノアールの不自然さや言動の数々を、セルイラはメルウによって聞かされた。
なにかに解放されたような、あるいはこれから、そうなるのだと予感せざるを得ないノアールの発言に、メルウは言い表せない胸騒ぎを覚えていたのだ。
メルウの話によると、ノアールに掛けられた呪術は解かれていない。
だというのに、彼の行動の節々からは、どこか思い切ったような感情が見え隠れしてならない。
先ほどのセルイラとの会話もそうだ。
それこそひと月前のノアールならば、あのような行動に出ることはまずなかった。
(なんだか……)
ざわりと、セルイラの胸の内に不穏な空気が立ち込める。
思い切りのある──というよりも、セルイラからしてみれば妙に吹っ切れていると言ったほうが、なぜかあの穏やかにしたノアールには当てはまった。
(わたしは……ずっと前にも、見たことがある)
そうだ。確か自分は、あの顔を知っている。
忘れていたのか、しまい込んでいたのか、はたまた故意に消されていたのか。
「っ、痛い」
「セルイラ様?」
「また、これ……」
──かすめた記憶の断片に、セルイラは目尻の横を押さえる。
ずきずきと痛みを伴いながら波のように押し寄せてくるのは、200年前、自分に別れを告げる直前の、ノアールの姿だ。
着実と蘇りつつセルイラの記憶には、精一杯に我を保とうとするノアールの表情が浮かんでいた。
今なら、その表情の意味を理解することができる。
(この、目眩と一緒にくる感じ……昨晩の、アレと似てる)
自分を水神と名乗のる青年に出会った際に起こった、奇妙としか言いようのない現象。
だが、そのおかげでセルイラは、真実を知ることができた。
(……きっと、あの人は本当に、水神様だったのね)
根拠はないが、セルイラはそうだと受け入れた。それ以外に、あの水の雫をまとわせた青年に当てはめる言葉がない。
けれどまた、疑問が生まれた。
どうして水神は、自分の前に姿を現したのだろう。
(セラだった頃のわたしが、水神様の加護を受けていたから……?)
「セルイラ様、どうなさったのですか」
考え込んだまま微動だにしないセルイラの肩をメルウが触れる。
目が合うと、セルイラはぽろりと声に出した。
「あの、メルウさん。わたしね、水神様に会ったの」
「……はい?」
突然なにを言い出すのかと、メルウは中途半端に眉を持ち上げて固まった。
「言う機会がなくて今になってしまったけれど……昨日、舞踏場を離れたときにね、声をかけられたの。とても綺麗な男の人だった。彼は自分のことを、水神と名乗っていたわ」
「なんと、いう……」
メルウは言葉を詰まらせる。けれどさすがと言うべきか、彼が顔色を変えたのは一瞬で、セルイラの話を順序立てて冷静に聞き入れていた。
「つまり、その水神と名乗る男が……セルイラ様に過去の記憶を見せたと……」
「うん、そうだと……思う。正直、すべてを正確に覚えているわけじゃないけど。わたしが知ることを望んだ、だからその心に沿うだけだって」
「……あなたは200年前にセラ様として、水神の加護を受けていた。そして姿は違えどセラ様の記憶を持って生まれ変わった。……つまり、あなたの生まれ変わりには、少なくとも水神が関わっているということなのでしょう」
意外にもあっさりと結論付けるので、セルイラはまじまじとメルウを見る。
「メルウさんは、凄いのね。わたしなんて目の前で起こったことを把握するので精一杯なのに」
「いえ、私も似たようなものですよ。というより、もう半分ヤケですね。今こうしてセルイラ様が魔界にいらっしゃる奇跡に比べたら、水神の出現など些細なことのように思えただけです」
魔族は水神を信仰していないとはいえ、なんとも豪快な発言だ。
信仰心の強いオーパルディアの神官が聞けば顔を引き攣らせるだろう。
「……奇跡」
セルイラのその言葉が、細い虫の音のように小さくなる。
──奇跡など、あってはならない。
もしもと問うたセルイラに、ノアールはまるで拒絶めいた口ぶりをしていた。
彼は、どんな思いでそう答えたのだろうか。気づけばセルイラは、そればかりを考えていた。
(次こそは、大丈夫……)
考えているだけでは、なにも変わらない。ならばやることはひとつだと、セルイラはメルウに向き直った。
「メルウさん、お願いを聞いてもらえないかしら。今晩もう一度、あの人と話をさせて欲しいの」
「……! セルイラ様、」
「はじめは呪いの影響を恐れて慎重になっていたけれど、なんだか今は……様子を窺うだけではいけない気がする。ミイシェのことも、アルベルトとミイシェの呪いが解かれたことも、メルウさんが予想していなかったことばかり起こっているでしょう?」
「……ええ」
セルイラの言葉に、メルウは深々と頷いた。
ただおとなしく時機を待つ期間は、ここまでなのかもしれない。
200年前のように手遅れになってからでは、意味がないのだ。
「もう後悔したくないって決めたのに、さっきのわたしは何も言葉が出てこなかった。こんなに自分が臆病だとは思わなかったわ」
セルイラはほんのり嘲笑する。
今度こそ、今度こそと、声にならない心の独白を呟いて、キュッとまぶたを持ち上げた。
「──だから、次にノアールと会ったとき、わたしは全部を伝える」
己を奮い立たせるように、セルイラは声に出す。
「呪術を恐れてあの人を遠巻きにするんじゃなくて、呪術が掛けられたあの人も巻き込んで、どうするべきなのかを、今度は一緒に考えたい。たとえわたしにできることが、ほんの些細なことでも。またあの人をひとりにさせてしまうくらいなら、そのほうがよっぽどいいわ」
「……」
力のこもったセルイラの宣言に、やはりとメルウは胸を熱くさせる。
すれ違いを起こし、事情があったとはいえ一時は歪に変化し憤りを覚えていた相手だとしても。
(愛情とは、不思議なものですね。私にはまだ到底理解し難い感情ですが、お二人にはそうであって欲しいと願わずにはいられない)
牢で尋ねたとき決して言葉にこそしなかったが──セルイラは今でも、ノアールを深く想い続けているのだ。




