51 不必要な華
潜めるように息を吸い、セルイラは慎重に口を開いた。
「母親、ですか」
ノアールは、わずかに頷く。
「アルベルト……様と、ミイシェ様の母親は、人間だったと、お聞きしました」
セルイラの言葉に、唇を固く結んだままノアールは目を見張った。
瞳が揺れて、それから伏せる。頬に落ちた睫毛の影は色濃く、どことなく心細げに見えた。
「そうだ。彼女は、人間だった」
ノアールの視線がじっくりとセルイラに下りる。堪らずセルイラの喉がキュッと狭まった。
(なにを、考えているんだろう)
そもそもセルイラには、ノアールが野原に来た理由すら思いつかない。
わざわざこうして自分と会話するためだけに来たのではないだろう。ミイシェの様子を確認しに来たのか、または他に気になることがあったのか。
200年前から殻にこもり塞ぎ込んでいたノアールが、こうして人目に付く場所に自分から現れるなんて、どんな心境の変化なのだろう。
いくら考えたって分かりっこない。知りたいならば本人に直接尋ねるしか方法はないのだ。
「あの」
二人の間に沈黙が落ち、気まずさから再びセルイラが言葉をかけた。
「……どんな方ですか?」
なんという愚問だと、すぐに後悔する。
血の気がさあっと引いていく冷たい感覚が、容赦なくセルイラの足元に忍び寄った。決して水面が涼しいからではない。
これにはノアールも、無表情を崩して驚いた顔をしている。
「なに?」
聞いてはいけないと心中が叫んでいる。けれど撤回もできず、口先はやけに饒舌だった。
「魔王様から、お二人の母親の……奥様のことを話してくださったので、どんな方なのか気になっ……て……」
反応を窺うのも怖かったが、恐る恐る見上げる。
セルイラは、発する声をとめた。
穏やかに目を細めたノアールが、そこにいたから。
「深い夕暮れの、優しい赤色の髪をしていた」
ノアールの声と共に、風が、ゆっくりと雲を動かし始めた。
地上の草花を左右へ揺らし、セルイラのプラチナブロンドの髪が、川の流れのように靡く。
「暑さが和らいだ頃に染まり始める、暖かな落ち葉の色の瞳をしていた」
まるでなにかを確かめているのか、ノアールはセルイラを見つめる。
セルイラの海の光を閉じ込めたような青い瞳が、次々と思い出していくノアールを映し出した。
「陽の光が満ち浴びた肌を、気にしているようだったが、可愛らしいと私は思っていた」
雲の切れ間から射し込む日光が、セルイラの陶器のように白く透き通る肌をより輝かせる。
「触れた手から、懸命に兄弟を守ってきたのだろうとわかる、強く美しい手をしていた」
セルイラは、傷一つない滑らかな自分の手のひらを強く、強く握り込む。
彼が語り始めたときから、セルイラは気づいていた。
ノアールがセルイラに教えてくれているのではない。ただノアール自身が望んで、あの頃の彼女の姿に思いを馳せているのだと。
「……そんな、女性であった」
ノアールの言葉のひとつひとつが、セルイラの心の奥深くに沈んでいった。
目の前にいるノアールは、自分を見ているわけではない。彼自身が思い描く過去の面影を見ているのだ。
(……ああ、痛い)
無意識に響かせた彼の優しい甘い声が、耳に酷く残る。
セルイラの思考が、徐々に黒点で塗り潰されていった。
「もしも……奇跡が起こり、その方が今も生きていたら……どうしますか」
震える唇が、ゆっくりとノアールに問うてしまった。その刹那、セルイラは我に返る。
メルウやニケ、アルベルトに明かしたときは、自分を保っていられた。冷静さを持って向き合えていた。
だというのに、ノアールを前にして自分がどんな人間だったのかを尋ね、それどころか生きていたらなどと回りくどく訊いている。
とても滑稽で、無様で、吐き気に似た気持ち悪さにセルイラは逃げてしまいたくなった。
「生きていたら、だと……?」
作り物めいた端正な顔立ちが、みるみるうちに歪められていく。
もともとの存在感に加え、空気が重くなる威圧感に木の枝で羽を休めていたであろう数羽の野鳥が飛んでいった。
「そのような奇跡は、決してあってはならない」
彼の言葉は、容赦なくセルイラの胸を深々と貫いた。
どこまでも冷えきった声が、耳朶を打つ。
セルイラはかけるべき言葉を完全に見失ってしまった。
この時のノアールがどんな顔でそう言っていたのかも、見逃していたのだ。
「……申し訳、ございません。決して死者を侮辱したわけではないのです。どうか失言を、お許しください」
ノアールが相手だと、こんなにも臆病になってしまうなんて、自分でも信じられなかった。
口角を必死に上げることが、今のセルイラにできる精一杯である。
「……謝る必要はない。私が真に受けて不快な思いをさせてしまったのだ」
「いえ、不快な思いをさせてしまったのは、わたしのほうです」
ノアールとこうして話せること自体がまたとない機会だというのに、うまく伝えられない。
不甲斐なさに目頭が熱くなった。
「こうして魔王様がわたしとお話する機会を設けたのは、お子様のためを思ってのことでしょう? 息子の花嫁候補の人間の一人であるわたしが、王女様のお傍にいるのです。気になって当然です」
セルイラの言葉に、ノアールは目を丸めた。
こうして見ると相変わらずわかり易いところがある。
「けれど……申し訳ありませんが、これ以上わたしの口から言えることは、とても少ないと思います」
割り切ったセルイラの言葉と笑顔に、ノアールの視線が集中した。
その目を掻い潜るように、セルイラは少しだけ俯いた。吹き抜ける風をあたかも避けているんだと主張するように。
「これを、返す機会があればとも考えていた」
下降したセルイラの視界に映り込んできたのは、綺麗に折りたたまれたハンカチだった。
見覚えのある刺繍が縫い込まれたハンカチを、ノアールはセルイラに差し出している。
「あなたが私に、使ってくれたものだ。ようやく渡せる」
「これ……」
チェルシーのお守りを探しに出た夜に、具合の悪そうなノアールと鉢合わせたことを思い出す。
咄嗟の思いつきで、セルイラは自分のハンカチを水に濡らしノアールの汗を拭ったのだ。
そういえば、あれから見当たらなかった。セルイラが落として、気がついたノアールが拾ってくれていたのだ。
「ありがとう、ございます……魔王様。本当に、ありがとうございます」
「……」
ハンカチを受け取ったセルイラは、それを大切そうに胸に引き寄せる。
自分に返すまで、ずっと持っていてくれた事実が、堪らなく嬉しかった。
「これは一体、なんだというんだ──」
戸惑いに染まるノアールの声は、セルイラに届かなかった。
◆
その後ノアールは、すぐに野原を去って行った。
突然現れた彼の目的は、子どもたちの様子を見ることと、ミイシェに好かれるセルイラを確認すること、そしてハンカチを返すことだった。
「ああ……失敗した……」
ろくな会話ができなかったと、ひとり畔に佇むセルイラはその場にしゃがみ込んだ。
(あんなことを思ってくれていたなんて、知らなかった)
煤れた赤錆の髪を、深い夕暮れの色だと。
くすみの強い瞳を、暖かな落ち葉の色だと。
散々馬鹿にされていたそばかすを、可愛らしいのだと。
畑仕事や家事でできた豆の潰れた手のひらを、強く美しいと。
過去の自分を肯定されたと同時に、今の自分との違いをまざまざと思い知らされた。
社交界の華。
オーパルディアでそう比喩されていたセルイラは、自分のことであるのにいつもどこか他人事だった。
そう、自分は、大勢に認められる華になりたかったわけではないのだ。
こんな我儘を故郷にいた頃は誰にも言えなかった。それは今の自分を評価してくれた人々に対する非礼だと思ったから。
それでも、そうだとしても。セルイラにはなんの価値も魅力もない。なんの意味もなかった。
“わたしね……この顔はもうわたしであると言えるの。鏡に映る自分に違和感は全くない。けれど嬉しいかと聞かれれば、それは──”
数日前、セルイラはニケにそう言った。あのときは続きを言うつもりがなかった。
だけど独り言でなら、言っても構わないだろうか。
「……全然、嬉しくない」
呟きながら、苦労の知らない綺麗な手を、セルイラは虚しそうに見つめていた。
姿が別人となった自分に、セラを象るものは、もう何もない。




