45 おにいさま、だめ!
『おい、ミイシェ。外までお前の声、聞こえてたぞ。動けるようになったのはいいけどな、あんまり無茶は……って』
現れたのはアルベルトだった。
(あれ? アルベルト、なんだか顔色が──)
セルイラはじっとその違和感を覚える顔を確認する。アルベルトは椅子に座るセルイラの姿を見つけると、一度足の動作を止めた。
『……ああ、お前もいるんだったな』
『アルベルト様。この方はミイシェ様が望まれてこちらにいらっしゃるのですよ。そのような言いかたは──』
『んなことは、わかってる』
ごほんと咳払いをしたメルウに、アルベルトはキッと睨みを効かせる。
けれどすぐに歩みを再開させ、セルイラの隣にちょこんと座ったミイシェの目の前に片膝を付くと、ミイシェの顔色を確認した。
『ミイシェ、体は辛くないか』
『もう大丈夫だよ。ミイシェ、げんきだよ?』
『……』
ほんのりと眉を下げたアルベルトは、ミイシェの頭に優しく触れる。
『本当か? 無理していないか?』
『へへ、おにいさま。本当だよ』
そんな二人の様子を見守るセルイラは、密かに安堵していた。
共に過ごすことの叶わなかった200年の月日。空白の時間があったにも関わらず、アルベルトとミイシェの間にはすでに兄妹としての温かな雰囲気があった。
(本当ならばアルベルトのことも、私のことだって誰だかわからないはずなのに。これもミイシェが言っていた水神様のおかげなら……)
『おい』
(水神……私が噴水であったあの人も、自分を水神と言ってた。あの人とミイシェの言う水神様が同じ人なら? そもそもあの人は、私を知っているような口ぶりだった)
『おい』
(どちらにしてもミイシェの呪いが解かれたことに、水神様が関わっているのは確かよね。なら──)
『おい! お前を呼んでるんだよ!!』
考え事に耽ってしまったセルイラの耳元で、バンッ! と大きな音が鳴る。
驚きですぐに動けず、眼球だけをゆっくり右へ向ければ、アルベルトが伸ばした腕が至近距離に見えた。
ミイシェと自分の間を裂くように伸ばされた手が、背もたれを強く掴んでいる。
上等で柔らかな椅子の生地が、アルベルトに爪を立てられたことにより痛々しい悲鳴をあげた。
『……びっくりした。いきなりどうしたの』
『はっ、それはこっちのセリフなんだよなぁ。とりあえず、はっきりさせたいんだよ、今ここで』
『なにを……』
『やっぱりお前……おかしいだろ』
唸るような低い声が、動きを封じられたセルイラに降りかかる。
触れ合うほどに詰められた体と体。そこに漂うのは研ぎ澄まされた緊張感のみであった。
『アルベルト様! まもなく魔王様もいらっしゃるのに、なにを──』
『父さんは来ねーよ』
またしてもアルベルトは、止めに入ろうとするメルウを制した。
『まさか、どこかお身体の具合が……?』
『今のところ、どこも異常はないって言ってる。けど、父さんは俺たちとまた状況が違ぇんだよ。メルウ、お前も知ってんだろ?』
『……。魔王様はどちらに?』
『部屋にいる。今夜は様子見で、ミイシェは俺に任せるって言ってな』
決してセルイラから目を外さないアルベルトは、メルウの問いにひとつひとつ答える。
応答が途切れたところで、アルベルトは皮肉げに笑った。
『なあ、おかしいよな。今のメルウは、あきらかに俺を止めようとしたぞ? それにニケ、お前もだ!!』
『……っ』
セルイラが座る椅子から少し離れた位置で待機していたニケをアルベルトは乱暴に呼んだ。
『ニケ……お前さっき、俺がこいつに何かするんじゃないかと勘ぐって動こうとしたろ? お前の魔力の動きなんざ、筒抜けなんだよ』
『アル、ベルト様』
アルベルトの指摘はすべて当たっていた。セルイラを見る今のアルベルトは、警戒を露わにしていたから。
ないとは思うが、万が一の時を考え構えていたのである。
『お前ら二人、一体どうした? なんでこの女をそうまでして気にかけている?』
『アルベルト様、それは……』
『は、否定はしないのか、メルウ。お前ともあろう奴が! この女にはどこか気を許してるよな! なあ、だからおかしいって言ってんだよ!!』
アルベルトは状況の整理が追いついていないようだった。
自分が置かれる立場、父親のノアールにある制限、深い眠りの中にいたミイシェ。
どう解決すればいいのか八方塞がりだったアルベルトは、思いつきで人間の女性を花嫁候補として魔界へ召喚した。
なにか、なにか手を打たなければと焦っていた部分も彼にあったのだろう。
花嫁候補を召喚し、それが引き金になったようにこの数日でアルベルトの身近にいる者たちの状況が変化して、トドメを打ったのはやはりミイシェの目覚めである。
『本当に、何考えてんだ……』
ぽつりと、アルベルトはこの場の誰にいうでもなく呟く。
アルベルトは今、心が大きく揺れていた。
先ほど──父、ノアールに告げられた言葉も相まって余計に。
(アルベルト、急にどうしたの? いや、急じゃないわ。部屋に入ってきた時から、どこか様子がおかしかった)
『……お前。お前の名は、なんだ』
『え……?』
『早く名を言え!!』
これは怒鳴り声の範疇を越えている。
まるで理性を失いかけた小さな獣のようで。
『お前は、なんなんだよ!!』
(いつも乱暴な口調だけど、変だわ。アルベルト、今にも泣きそうな)
何かが違う。メルウもニケも、顔を見合わせる。
『アルベルト』
『なんっ──』
震えを含ませた喚きに、セルイラはアルベルトの頭を引き寄せていた。
『──アル、どうしたの。なにか、あったの?』
ぐしゃぐしゃになった赤みが目立つ黒髪に、そっと触れる。
両方の手で支えるようにアルベルトの耳横を押さえたセルイラは、優しく言葉をかけた。
きっとこの行動は、褒められたものじゃない。
アルベルトにかけられたユダの呪いがどの程度のものなのか、不鮮明な状態で、感情的に動くことは決していいとは言えない。
それでも目の前で苦しそうにしたアルベルトを、どうにかしなければと動いていたのだ。
「……」
セルイラの発言で室内の音が消え去った。
そんな中、アルベルトがいち早く口を開く。
『は……? おま、なに、いって』
『おにいさま、だめ! ママにそんなことしちゃ、だめ!』
呆けたアルベルトの短い声と、ミイシェが行動を起こしたのはほぼ同時だった。
アルベルトの腕をきゅっと体を使って押さえ込んだミイシェは、そのまま前へと倒れ込む。
負荷を加えられたアルベルトはバランスを大きく崩した。
『なっ、ミイシェ、わ! やめ! うわああ!』
体勢を立て直せないまま、最終的にミイシェと一緒にセルイラの体へ覆い被さる形となった。
「ったた、背中が……」
長椅子に人が三人、寝転がるように転倒する。セルイラは二人分の体重込みで背中を強く打ち、弱々しい声をあげた。
『みなさま大丈夫ですか!?』
『セルイラ様、背中に痛みは? 椅子の上だったとはいえ、かなり鈍い音が……』
『だ、大丈夫。私より、この二人を……』
後ろに手をついて体を起こそうとすれば、視線を感じて前を向く。
『……』
無言のアルベルトが伸し掛かったままで、じっとセルイラを見つめている。
セルイラの目には、そんな彼がどこかあどけなく映っていた。
 




