44 伝えたい
一度抱擁を解き、セルイラとミイシェは改めて近くの長椅子に腰を下ろした。
隣に母であるセルイラがいることが嬉しいのか、ミイシェはぷらぷらと床に届かない両足を動かしてニコニコしていた。
『えへへ、ママだ。ママが隣にいる』
屈託ない笑顔を向けられ、セルイラの胸がキュンと跳ねあがる。
こうして穏やかな気持ちのままいられたらどんなにいいのだろう。そんな心の片隅に生まれる欲を振り払うように、セルイラは座ったままの状態でミイシェに向き直った。
『ミイシェ……あなたにたくさん訊きたいことがあるの。でも、その前に体は大丈夫? 200年も眠っていたんでしょう?』
『うん、あのね。ミイシェもう大丈夫なの。ミイシェの呪いね、もうないんだよ』
『呪いが、ない……?』
思わずセルイラはメルウへと目を向けた。しかし彼もまだ知らされていなかったようで、同じく驚愕した様子でミイシェを食い入るように見ている。
『そ、れは……本当、なの?』
『パパが言ってたの。もう、ミイシェには呪いが何も残ってないんだって』
『そう、そうなの……』
セルイラはミイシェの前髪をかき上げるように撫でる。
アルベルト、そしてミイシェが呪術にかけられていると知った時、セルイラの手足は凍りつくような感覚に陥った。
前世の自分が産んだ子。そして今でも親としての心があるセルイラにとって、子どもが何かに脅かされているというのは、身が裂けてしまうのではと思うほど苦しい。
(まだ、不安が拭えたわけじゃないけど……)
こうしてミイシェの元気な笑顔を見られたことが、セルイラは何より嬉しかった。
『ママ、あのね』
ふと、セルイラの膝に両手を乗せたミイシェが、顔と顔の距離を縮めてくる。
セルイラやメルウたちが思っていた疑問を、ミイシェ自らが話し始めてくれた。
『ミイシェがママのこと、パパのこと、おにーさまのこと、全部知ってるのはね、水神さまが教えてくれたからだよ』
『水神様?』
『うん。ミイシェを産んでくれたセラは、水神さまの特別な加護があったの。だから、ママの血が濃かったミイシェも水神さまの加護があって、水神さまが力を貸してくれたんだよ』
産んでくれたママとは、セルイラではなく前世のセラを指しているのだろう。
セルイラはぼんやりとだが覚えていた。セラであった頃、自分には水神の加護があるのだと知っていたのだ。
赤子の頃からあったわけではない。いつの間にか加護があり、それをセラに教えてくれたのは村の司祭である。
だからセラに水神の加護があることを知った村の人間たちは、セラを魔王の贄として魔界に捧げたのだ。
『えっと……ミイシェ。水神様って、水神様?』
『?』
『水神様が教えてくれたって言ったけど、あなたの言う水神っていうのは』
『オーパルディアの水神さまだよ!』
ミイシェにはっきりと言われ、むしろそれ以外あるわけないだろうと、セルイラは自分の額を軽く叩いた。
『うん、そうよね。そうなるわ。つまりミイシェは、水神様に会ったということ?』
『そうなの。ミイシェはずっと呪いで頭の中に閉じ込められてたの。暗くて、怖くて、寂しかったよ。でもアオく──えっとね、水神さまがミイシェの頭の中に入って来てくれたから、いっぱい知れたんだよ。こうやってお話できるのも、覚えてるのも、水神さまの力のおかげだよ』
途中、ミイシェは言いかけていた名前を取り消した。
本当はセルイラに包み隠さず水神の正体も話してしまいたい。けれどミイシェは水神の想いも知っているため、少しだけその意志を尊重したのである。
『水神様が……ミイシェを……』
まるで絵本のような驚くべき内容だ。人間と神々が交流していた時代は千年よりも前である。セラとして生きていた時代も、神のお告げを降ろす儀式などはあっても、実際に神を目にすることはなかった。
そんな尊き存在の神との交流を娘の口から聞かされる日がこようとは。セルイラも夢のような話だと思った。
しかし、自分はこうして生まれ変わりを体験している。
(噴水でも、変な人に会ったし……)
自分を「水の神」と名乗る青年のことをセルイラは思い出した。
世の中なにがあるか分からないゆえに、ミイシェが話す内容もしっかり受け止め聞くことができていた。
『この話は、魔王──パパも知ってる?』
さすがにミイシェに向かって彼女の父親のことを『魔王』と言うのは気が引け、セルイラは咄嗟に言い直す。
たった二言だというのに、妙に落ち着かなかった。
『しってるよ。さっき、パパにも言ったの。アルベルトおにーさまも』
『そう……』
『ねえ、ママ』
思い詰めた様子のセルイラに、ミイシェはそっと尋ねた。
『パパも、おにーさまも、ママのこと知らないんだよね?』
『……うん、知らないわ。まだ、なにも。ちょっといろいろ、問題がたくさんあって』
『ママは?』
再びミイシェはセルイラに問う。その意味がよく分からず首を傾げたセルイラに、ミイシェは言葉を続けた。
『ママの気持ちは、言いたい? パパとおにーさまに、ママがママなんだよって、伝えたい?』
澄み切った眼を前に、セルイラは答えていた。
『──うん、伝えたい』
オーパルディアにいた時は、もっと単純な考えだった。自分がセラの生まれ変わりだと伝えても問題はないと思っていたのだ。
しかし魔界へ着いた途端、そう簡単なことではないのだと思い知らされた。浅はかな自分に恥じて、だからこそ考えを改めた。
『ママね、二人にたくさん言いたいことがあるの。ごめんなさいも、ありがとうも、それに──』
『大好きも?』
『へっ?』
『ミイシェね、ママの「大好き」が、大好きなの。ミイシェが赤ちゃんのとき、やってくれたよね!』
赤子の頃から記憶があるミイシェはすべて覚えている。
セルイラが我が子に注いだ愛情の形も、仕草も、すべて。
中でもミイシェが好んでいたのは、体をギュッと抱きしめてくれたあと、「大好きよ」という言葉と共に両まぶたに優しく唇を落とすという愛情表現であった。
セルイラにとっては癖でしていたことだったが、ミイシェは鮮明に記憶に残っていたらしい。
『あれね、パパもやってくれてたの。ママ知ってた?』
『……そうだったの?』
『ママとパパ、同じことしてたの。えへへ、ミイシェ言っちゃった』
『……』
頬っぺに両方の手を当ててくすくす笑うミイシェの姿に、セルイラは複雑な心境を抱きながら眉を下げ微笑む。
──その時、談話室の扉がゆっくりと押し開かれた。
 




