42 ミイシェの200年
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生まれて一年も経たないうちに、ミイシェの精神は、ユダの呪術により体の内側に閉じ込められた。
200年前、ミイシェは赤子であったが、母を含め家族のこと、そして周囲に関する記憶をはっきりと覚えていた。
その実は……ミイシェが他の魔族に比べても抜きん出た潜在能力があり、また水神に愛され加護を受けていたセラの血の影響が色濃く出ていたからだった。
『ミイシェ』と、そう呼ばれることが彼女は何よりも大好きだった。
自我が芽生える前から、自分に向けられる無償の愛を赤子ながらに感じていたミイシェにとって、家族の存在は何物にも代えがたい特別であった。
赤子のままでは、自分の気持ちも、意志も、上手く伝えることが出来ない。
いつか、ひとりで起き上がれるようになったとき、歩けるようになったとき、言葉を話せるようになったとき。愛を与えてくれる家族に、自分の気持ちを自由に伝えたい。
互いを想う気持ちの正体に気がついていない父と母、妹である自分に「アルがまもるからね」と幼いながらに兄としてそう話しかけてくるアルベルトと、四人で何気ない木漏れ日のような時間を過ごすこと。
それが、この世に生まれてきたばかりのミイシェが思う最初の夢であった。
しかし、その夢は叶うことがないのだと、ミイシェに突きつけられたのは、酷い現実だった。
200年前──それは、ほんの一時だった。
歪んだ情に動かされたユダは、ゆりかごで眠るミイシェに呪術を施した。呪術が完全に発動すれば、呪いの効果で体内の魔力がすべて放出され、死に至ってしまうというものを。
ミイシェが持つ本来の力であれば、ユダの呪術にも抵抗できていたのかもしれない。それが不可能だったのは、ミイシェがまだ赤子であったからだった。
呪術をかけたユダは、セラの専属侍女であったナディエーナの代わりに入ったメイドのひとりである。
セラが魔界へ来た日から侍女として勤めていたナディエーナは、その数日前から体調を崩していた。
心配したセラは、ナディエーナに休暇を勧めたのである。
そして短期間のセラの世話役として選抜されたのが、当時魔王城に勤めていた数人のメイドたちだった。
彼女たちが選ばれた要因は、まず人間の言葉が完璧でなくても理解できること。そして三年以上と勤務日数が長い者であること。
人選は当時の侍女長によって行われたが、ノアールもセラや子供たちに付くメイドらの顔は確認していた。
そこまでは、これといって問題はないはずだった。
けれどそこには、僅かな隙があった。
まず一つ目に、ナディエーナが休暇でセラのそばからいなくなったとき、時を同じくしてメルウが魔王城を離れていた。
理由は、前魔王の石碑が何者かによって荒らされたと報告が寄せられ、調査のためにメルウが足を運んでいたからである。
魔王城を正面に北北西へ約五日間ほど移動した場所にある石碑は、ノアールの手で葬られた前魔王の遺骨が収められ管理されていた。
その地帯は、魔神の加護が強く留まった場所であり、長い年月をかけて少しずつ消えていく前魔王の残り香ともいえる思念を遺骨ごと封印するには誂え向きの場所だった。
石碑荒らしによってメルウが魔王城を留守にしていたことが隙の一つ目だとするならば。
二つ目の隙は──石碑荒らしの張本人であるユダを、みすみす城内に侵入させてしまったことである。
ユダは、石碑を掘り起こし、禁忌とされている呪術を使って前魔王の遺骨に残った力の半分を手に入れていた。
そして魔王城に潜入し、セラの短期間の侍女として選抜されたメイドの一人に成り代わってセラに近づいたのだ。
姿は魔法によって違和感なく仕上げ、そして人間の言葉を理解しているという条件は──故郷の言葉を忘れるはずもなく、難なく紛れ込むことができた。
地毛であるオリーブ色の髪も、風貌も、本来のユダとメイドの姿とでは、似ても似つかない別人になっていたのだ。
そしてミイシェは、赤子の身に呪いを受けた。
ユダの呪術は、おびただしい怨念がどす黒い蔦のような形となってミイシェの精神に圧力を加えていった。
現実とはかけ離れた別の空間で、呪いはとぐろを巻く蛇のように囲い込み、ミイシェに襲いかかってきたのだ。
現実とは違った空間──あとに、精神世界だと教えられたその場所で、ミイシェは呪いにより閉じ込められていた。
周囲に伸びる黒々とした蔦こそが、ミイシェの成長を妨げ、現実の世界で赤子のまま目覚められなかった原因であった。
──そして、眠っているはずのミイシェに、その真実のすべてを教えてくれたのは、恐ろしく透き通る風貌の水神だったのだ。
「はじめまして、ミイシェ」
200年の月日が流れても、ミイシェは精神の世界にいた。
父のノアールによって少しずつ呪術の威力は収まっていたが、それでもまだミイシェは現実で目覚めることができないでいた。
ミイシェは精神の中で、人の形を成しているわけではない。例えるなら、火の玉のような光となって宙に浮いていた。
そんなとき、火の玉に声をかけてきたのが、オーパルディアに加護を与える神、水神だった。
「ミイシェ、君のお母さんが、ようやくこの世に戻ってきたんだ。君の母親──セルイラの心と魂が生まれたんだよ」
水神はミイシェである火の玉に両手を優しく添えると、膝の上に乗せて語りかけ始めた。
そしてミイシェは、事の経緯を知ったのだ。
水神が母に恋をしていたこと。魔王の贄として魔界へやって来た母のこと。不遇な環境で育った父のこと。そんな二人の間に生まれたアルベルトのこと。ユダの起こした事態がどれほどの影響を及ぼしているのかということ。
話を聞いたあと、ミイシェはただ、悲しくなった。自分を縛るユダの呪術よりも、ミイシェが一番に思ったのは、ただひとつ。
様々な物事が重なった結果、家族がバラバラになってしまったことが、悲しくて仕方がなかった。
無自覚に好き合っていたはずの二人の間に確執が生じて、ひとりは孤独に生き、ひとりは記憶の混濁で相手を恨んでいるなんて、絶対にあってはならない。
「ああ、泣かないでミイシェ。君は優しい子だね。本当に、家族を大切に思っているんだね」
ほろほろと、火の玉から飛び散る火花は、ミイシェが流した涙であった。
水神はそれを丁寧に拭い、自分の生み出した水でジュワリと打ち消すと、また口を開く。
「呪いを、解こうか。君には多少の魔神の加護があるけれど、人間であったお母さんの血が濃い。つまり水神の加護が極めて強く反映されてるということ。これなら僕も干渉しやすい」
それならば、兄の呪術は解けなかったのかと尋ねてみると、水神は顔を曇らせた。
「アルベルトの血は、お父さんのほうを色濃く受け継いだからね。魔神の加護が強く出ているから、立ち入ることは難しいんだ。それに前に一度、僕が私情で役目を放棄したのがバレて他の神から注意されたし……そうしたら魔神くんにもバレるし」
げんなりとした様子で水神はぶつぶつと言っていたが、ミイシェには聞こえていなかった。
そんなことよりも、呪いが解けるのかどうかのほうが、ミイシェには重要だったのだ。
母親がセルイラとして生まれ変わり、水神の糸は強固なものになった。そして父親のノアールが月日を費やして少しずつ外側から呪術を弱めた今ならば、ミイシェの精神世界に根付くユダの呪術を解くことができるかもしれないと水神は言った。
もちろん確証はない。どこまで浄化できるのかもわからないが、ミイシェの返答は決まっていた。
──おねがいします、水神さま。ミイシェ、みんなにあいたい。
ほわほわと動いた火の玉に、水神は瞳を細めると、こくりと頷いた。
◆
セルイラが生まれ変わって十八年──ミイシェは未だに精神の狭間にいた。
ユダの呪術のすべてを解くことはできなかったが、ミイシェの精神世界に張っていた呪いの影響による黒い蔦は、綺麗に消えていた。
それによってミイシェの現実の姿と、精神の中では変化が起きていた。
まず、現実の姿は赤子から、人間でいうと七歳前後の見た目に変わった。
200年もの間、呪いによって成長が妨げられていたミイシェの身体は、200年分の時間を取り戻すことはできなかったが、ミイシェにとってはそれでも大きな進歩であった。
「アオくん、ママの話がききたい」
「いいよ。といっても、君のお母さんはいつも通り書庫に通ってばかりだよ」
「それでもいーの」
「はいはい」
ぷぅ、とミイシェは頬袋を膨らませる。可愛いだけでしかないその顔に、水神はくすくすと笑っていた。
「そうだね。最近は、妹のチェルシーの恋愛相談をよく聞いているみたいだよ。そのおかげなのかな、婚約者と仲が深まったみたい」
「へぇー、ママ、すごい!」
「そうだね。セラの優しさは、生まれ変わっても変わらないね。社交界では人気者だし」
「えへへえへ、ママ、すごい〜」
「ミイシェ……君の感想はそればっかりだね」
「でも、ほんとうだもん。ママってすごいなぁ。いいなぁ……ミイシェもいつか会えるかなぁ」
もっと話を聞きたいと、ミイシェは小さな体で前に乗り出す。
精神の中でただの火の玉であったミイシェは、現実と同じ容姿を保てるようになっていた。
そして、度々自分の精神世界に入ってくる水神に、オーパルディアで暮らす母親の話を聞いていたのだ。
「はぁ……ママ、どうしたら魔界に来てくれるかな。パパもおにいさまも、ママにあいたいと思う」
「……魔王のほうを動かすのは、無理だろうね」
「しってる。アオくん言ってたもんね。パパは、せいやくでなにも話せないって」
「そうだね。もし、今の状態を一気に動かせるとしたら──うん、アルベルトかな」
「おにいさま?」
首をかしげたミイシェに、何もない場所で体だけを浮かせた水神は、ふと思い立った。
「夢でなら、アルベルトの意識に入り込めるかな。それとなく人間の娘に興味を向けさせて」
「えー?」
「呪術のせいでアルベルトもメルウも、次の手段が出せないんだよ。僕は水の神だから、魔界だと自由に力を使えない。彼らがなにか行動しないとどうにもならない」
「ママが、魔界に来られるように、かんがえてるの?」
「まあ、そうだね」
唸る水神に、ミイシェは先ほどの話を思い出した。
現在の母親の妹チェルシーのことである。確かチェルシーと婚約者のレオルは、共通の知人が主催した夜会で初めて顔を合わせたという話だ。
二人はいずれ婚姻を結んで夫婦になるのだろう。夫婦になれば住む場所は同じで、一緒になれると、ミイシェは単純に考えた。
「ママがまた、パパとふうふになれば、こっちに来れるね」
「……僕としては複雑だけど、そうだね」
「ママ、もてもて」
水神が母親に恋をしていたことを承知しているミイシェはそう口にするが、水神は華麗に無視する。
「とはいえ簡単にはいかないさ。200年前は村から強引に決められた生贄として魔界に召喚されたから。今は魔界も人間と関わりを絶っているし、魔王がそんなことをすればユダの注意も……あ、そうだ」
ミイシェの言葉で、水神の頭に浮かんだのは、別の一手だった。
「あれは、千年ほど前かな。とある王国を統治していた人間の王が、自分の花嫁候補として条件に合った国中の娘を登城させたんだ。そして、その中から伴侶を決めた」
「はなよめ、こうほ?」
聞き慣れない言葉に、再びミイシェは不思議そうに首をひねる。
「そう。もしかすると、君のお母さんが魔界に来ることができるかもしれない」
「ほんとう!? アオくん、それ、やって欲しい!」
「簡単に言うね。上手くいくかはわからないよ?」
「だいじょうぶ! ミイシェ、うまくいくとおもう」
「……まあ、あくまで僕はきっかけを与えるだけに過ぎないし。行動するかどうかは、アルベルト次第だけど」
それから数日も経たないうちに、アルベルトは、花嫁候補の令嬢を魔界へ召喚することになる。
母親が人間であり、父親も引き摺っていることを察していたアルベルトは、人間の女性を特別気にしていた部分もあった。
そこを上手く利用した水神とミイシェの小さな企みにより、花嫁候補の令嬢として、セルイラは魔界へやって来たのだ。
◆
花嫁候補の令嬢が参加する夜会の日は、見事な満月だった。
夜会が行われるその裏で、ノアールは相も変わらず、現実では眠ったままのミイシェに掛けられた呪術を弱めるべく、命をすり減らして魔力を注いでいた。
異変が起きたのは、ノアールがミイシェが眠る部屋を出たあとのことだった。
蒼白い満月から降り注ぐ光線が、窓をすり抜けミイシェの全身を照らした時──。
『──』
ミイシェのその大きな瞳が、ゆっくりと開かれた。
『……、……?』
200年間、横になっていたにも関わらず、ミイシェの体は何不自由もなく動かせた。
寝台の上で上半身を起こし、腕をあげて両手を広げたり、閉じたりを繰り返す。
気分はすっきりとしていた。縛られていたあの感覚はもう何もない。精神世界にいたはずの自分が、なぜ突然に現実で目を覚ましたのかを、ぼうっとする意識の中で思考を巡らせる。
考えたところで、わからないものはわからない。しかし、ミイシェの中に蔓延っていたユダの呪術の圧が、全くしないことにミイシェは気づいた。
呪いが完全に解けた? なぜ? 何が引き金となったのか、理解が追いつかない。
『……!』
混乱するミイシェだったが、ふと香った匂いに、ハッとして素早く顔を持ち上げた。
『……ママの、香り。パパ、おにいさま……』
そう、自分は目覚めた。そして、一番近い距離に、母親の香りが確かにある。
速くなった鼓動に背中を押されるように、ミイシェは寝台から降りると、その方向を目指して進んでいく。
素足のままぺたぺたと音を立て、一心にミイシェは歩みを早めた。
──ママ、ママ。どこ?
無意識のうちに念話を送りながら、ミイシェは強い月明かりが注ぐ城の廊下を歩き、そして辿り着く。
大きな専用扉を溢れ出た魔力で開け放つと、段差を挟んだ先には、ひとりの女性が立っていた。
「ミイ、シェ」
その声がミイシェの耳に届いた瞬間、ミイシェは女性の元へ──母親であるセルイラに抱きついた。
『──ミイシェ!!』
ミイシェが現れてすぐに、ノアールも舞踏場に姿を見せた。
喧々囂々たる場内で、迷いが生じるセルイラに念話で言葉を伝えると、ミイシェは驚愕した顔を浮かべるノアールに駆け寄った。
『……パパ!』
セルイラの元を離れて、ノアールへと目を向けたミイシェ。
その時、ミイシェの瞳に映ったのは、透き通った糸。
セルイラとノアールを繋ぐように輝いた糸は、その場にいる他の誰にも見えていなかったが、ミイシェには、はっきりと確認できた。




