38 魔法のドレスと、野次馬夫婦
「ごめんなさい、ノア、ごめんなさい」
うわ言のようにセルイラは繰り返す。自分のせいで魔王の真名は、ユダに知られてしまった。そして、おそらく……そのせいで呪術が、と。
「ごめんな、さ……?」
目を開けると視界いっぱいに、ノアールの顔があった。
表情の変化が乏しい彼が、これでもかと瞳を見開いている。
(あれ? 星が……凄い)
ノアールの後ろに広がる星空が美しく瞬いていて、彼に似合うなとセルイラは呑気に思った。
「……。あ、わたし……どうなって……」
ようやく頭が働いてくると、セルイラは自分の状況もわからずに遠慮なく首を回す。セルイラの背中に添えられた手に力がこもった。
「……え」
噴水の中に倒れ込みそうになったセルイラを、どういうわけかノアールが間一髪のところで支えていた。
もう一度、セルイラは真正面に顔の位置を戻す。目と鼻の先には、表情を固くさせたノアールがいる。
「あ、え?」
『……』
「うあ、ええええ──!?」
「……急に動こうとするな」
ノアールが手を離せばセルイラは、一瞬にして噴水に落ちてしまうだろう。
伸びる腕の中で慌てふためくセルイラに、やれやれとため息を吐きながら、ノアールはセルイラの体をゆっくりと起こしていった。
(ここは……わたし……そうだ、あの人!)
自分のことを水神と名乗った、奇妙でいてどこか現実離れしたひと。
セルイラはきょろきょろと辺りを確認するが、あの青年の姿はどこにもなかった。
代わりにいるのは、ノアールただ一人。それだけでも今のセルイラの心臓に悪い。
「どう、して、ここに? そうよ……言葉も、それに、あなたは人間と話せないんじゃ?」
過去の背景が完全に抜けきれず、セルイラは言い淀んでしまう。
「……。気づいて、いたのか?」
目を開いたノアールは、興味深くセルイラを見据える。ばつが悪そうにすると、背けるように空を仰いだ。
『私も、ここまで影響が強く出るとは思わなかったな』
浮かんだ満月を見上げながらノアールはぽつりと呟いた。月光を眩しそうに浴びるノアールの顔色は、先日よりもはるかに良くなっている。
「あなたは、なぜこんな場所にいる?」
再びこちらに目を向けたノアールは、セルイラの全身を見るとわずかに眉を顰めた。
「それも、そのような姿で」
ドレスが酒まみれであったことを思い出したセルイラは、みっともなくて唐突に恥ずかしくなってくる。
咄嗟に自分の両腕で体を隠したセルイラは、下唇をむっと噛んでさらに問う。
「あ、なたこそ……どうしてここに。質問にも、答えてくれていません」
「答え?」
ゆるりと首を傾けたノアールは、思い出したように口を開いた。
「人間の言葉は……昔に覚えた。それだけだ。ここへ来たのは奇妙な気配を感じたのだ。そうしたら、あなたがいた」
なぜ、人間と話せているのか。それはノアールにも確信がないのか言葉を詰まらせている。その様子をセルイラは思い詰めながら見つめていた。
ふと、ノアールの視線がこちらに向く。次はあなたの番だと言うように小さく顎をしゃくった。
「わ、たしは……夜会を抜けて来たのです、このありさま、ですから。それで、立ちくらみが」
どうしても喉の奥がつっかえてしまう。ノアールに対しての言葉遣いも、今の自分と魔王ならば気をつけなければならない。
謎の青年のことは、話す気になれなかった。
「それは、厚遇の結果ではないだろう」
広がる赤黒い染みと、鼻をつまみたくなるような頭にくる臭い。舞踏場での反応を思い出して、それはノアールも例外ではないだろうと、セルイラは恐る恐る彼を盗み見る。
(もう、色々と起こりすぎて追いつかない。さっきの記憶といい、今といい。ノアールに、こんな姿を見られるなんて)
しかしノアールはただ、不可解そうにしているだけだった。
「それでは、夜会には戻れないだろう」
ノアールが右手を胸の中心まであげる。彼の行動をただ見つめていれば、セルイラを包み込むように温かな風が吹いた。飛び散った紫色の魔力の光が、セルイラの足元から頭のてっぺんまで駆け上がる。
(ドレスが……!)
微風が止み、セルイラはまじまじと自分の体を見下ろして嘆息した。
落とすのは困難だと思われていた汚れは取れ、魔法の名残なのか、結晶を散らしたような輝きがドレスをより美しく引き立たせている。
「ここ、血が出ている」
セルイラのほうに手を伸ばしたノアールは、首筋を指で撫でた。不意に心臓が鷲掴みされたように痛くなる。
声が漏れそうになるのを抑えていれば、じんわりと首周りに温度を感じた。
セルイラは気づいていなかったが、ガラスで切って細い傷になっていたようだ。それをノアールは簡単に治してしまった。
「どう、して」
「……どうして?」
セルイラが唇を引き結べば、ノアールが全く同じ言葉を繰り返した。
(違う、こんなことを言いたいんじゃない)
ノアールは訳が分からないという仕草をしている。セルイラの表情があまりにも苦しそうであったから余計に。
「──いえ。わたしのような人間に、こんなお心遣いを、ありがとうございます。魔王様、感謝しています」
顔をあげてセルイラは、自分ができる精一杯の笑顔を浮かべた。
セルイラの複雑に入り乱れる表情に、ノアールは気を取られたように押し黙る。
そうして、どちらとも次の行動を起こさず、時間だけがゆっくりと流れ始めた。
『おい! 待てよ!』
走る足音が、二人の沈黙を劈いた。
聞こえてくるのは、セルイラとノアールが立つ噴水の反対側からで、徐々にこちらに近づいてきている。
『っおい、待て、お前──アメリア!』
その声に、セルイラは咄嗟に物陰へと移動した。かなり前に舞踏場を出ていったアルベルトとアメリアが、こちらに来てしまったのだ。
『……なぜ、私まで』
体が二人分、すっぽりと余裕で隠れられるオブジェの後ろにはセルイラと、彼女に手首を掴まれ連れてこられたノアールが息を潜めている。
『申し訳ございません。人が来たので、思わず……』
ノアールのほうには振り返らず、セルイラはひんやりと冷たい石のオブジェに手を当てて噴水にいる人影を確認する。
『……! あなたは、こちらの言葉がわかるのか?』
息を呑む気配に、セルイラはまた複雑そうに笑った。
『ええ。昔から……勉強していたので』
『……』
背後から感じる視線に、セルイラの体が痺れを伴っていく。こんなにも近くにいるのに、自分がセラだと明かせないのがもどかしい。
まだ、言うことが出来ない理由は、セルイラも理解している。
ノアールにも、アルベルトにも、ミイシェにも、ユダにより呪術が施されているのならば、なにが作用して体に害を及ぼすのかわからない。
そしてユダは、200年前にセラと接触していた。ユダに真名を自分の口から話したときのことを、セルイラは一切記憶にない。忘れているのではなく、あれは意識がなかったのだ。まるで暗示を掛けられているようだった。
ようやくセルイラが思い出せたユダの姿は、黒い髪のおさげを垂らした魔族の少女であった。見た目も控えめで、ほかのメイドの陰に隠れているような印象がある。
(黒髪? でも、さっきのは、髪の色が……それどころか、顔立ちまで違っていた気が)
──ユダ。セルイラの頭の中には今、対照的なふたりの人物像が浮かび上がっている。一人は地味で大人しい黒髪の女性。そしてもう一人は先ほどの妖艶な憎悪をたぎらせるオリーブ色の髪の女性。
(どちらの顔も、わたしは知っている。あれが、あの人が見せてくれたものなら、本当にあの人は──水神様?)
そんな、まさかと。セルイラは思案を巡らせる。
これはメルウやニケに尋ねた方が早いのではないかと、セルイラの気持ちが速まっていく。
『……アルベルト』
ふと、後ろに立つノアールが呟いた。
素直に身を潜めていたノアールは、いつの間にか噴水にいるアルベルトとアメリアを食い入るように観察している。
(まず、ここをどうにかして出ないと。思わず隠れちゃったけれど、これじゃ完全に覗き見だわ。わたしが強引に引っ張って来たとはいえ、ノアールなら魔法で移動できるわよね?)
それなのに、ノアールはその場を一切離れない。
考えることは山積みだが、この状況では埒が明かないとセルイラもこっそり噴水に目を向けた。
ありがとうございました!




