36 妬み嫉みと、汚れたドレス
聞こえた声に、セルイラははっとして周囲を警戒した。
だが、セルイラとアメリアの近くに特定の魔族はいない。こちらを意識している魔族は何人かいるようだが、皆が皆、一定の距離を空けている。
「セルイラ、どうかしましたか?」
強ばった顔のセルイラを、心配したアメリアが正面から覗き込む。
──その時だった。セルイラに向き直ったアメリアの背後の景色に、キラリと光る無数の物体が映りこんだのは。
「……! アメリア!」
悪い予感がした。起こり得る未来の予測は不確かなものだったが、セルイラはアメリアの肩を咄嗟に押しのける。
「……っ」
ピリッとした痛みがセルイラの首筋に走った。間髪入れずに、たくさんの情報量がセルイラの視覚や、嗅覚を刺激する。
飛んできたのは、葡萄酒が注がれていたグラスだった。まるでセルイラとアメリアを標的にしたように、風に乗って飛んできた無数のそれらは、外に液体が溢れだし、びしゃりとセルイラのドレスを濡らす。
美しい色合いであったパープル色のドレスが、飛び散った液体によって大きな染みを残していった。
(うわ、凄い臭い……)
周囲に立ち込める酒の独特な香りに酔いそうになる。
中身が空っぽになったグラスは、その場でするりと力が抜けるように落下し、音を立てて次々と割れていった。
「セ、セルイラ」
青ざめた顔と、怯えた声でアメリアが手を伸ばしてくる。
しかし、セルイラが気を取られたのは、自分の周囲に散らばっていたグラスの破片だった。
おそらく葡萄酒の入った数々のグラスは、魔法によって故意に飛んできたものだ。
風を操ったのか、物体そのものを浮かせるようにしたのか、それはセルイラも断定できない。けれど、グラスに魔法が掛けられているのは、確かだった。
「……! アメリア、離れて!」
床に飛散する鋭いガラスの欠片が、ぷるぷると怪しい動きを見せ始め──危ないと、そう思った時にはもう遅かった。
「きゃっ」
アメリアの短い悲鳴にセルイラは瞠目する。
ガラスの欠片は、生き物のような動きでアメリアを襲ったのだ。
ビリビリと布が裂かれた音。アメリアの着ていたドレスが、無残に切り刻まれていく。
肌が傷つけられることはなかったが、ドレスの上部は容赦なく破かれる。晒されそうになった胸部を寸前のところで、アメリアは自身の両腕を駆使して隠した。
「……あ」
それでも、すべてが隠せているわけではない。淑女としてあるまじき格好は、恥じらいを通り越してアメリアに恐怖を植え付けていった。
破かれたドレスでは、舞踏場の外へ走り去ること困難で、アメリアはその場に蹲ることしか出来ない。
「アメリア! 今、掛けるものを……!」
この際、近くのテーブルに敷かれた掛布で構わない。必要以上に肌を晒されたアメリアの体を隠せることができるならと、自分の格好は二の次でセルイラが行動に移そうとするが──。
『必要ない』
何の前触れもなく響いた、重圧のある低い声。
目の前が黒に染まる。──それが黒い翼であったのだと気づいたのは、両翼の中心にアルベルトが立っていたからだった。
『……ちっ』
忌々しく舌打ちをしたアルベルトは、両方の翼を器用にしならせると、震えたアメリアの体をそっと包むように覆う。その行動には、相手を思いやる愛憐のようなものがあった。
アルベルトが現れ、アメリアを庇い立てる。それは、まさしく数秒の出来事だった。
『おい。誰が、こんな真似をしていいと許可した?』
突風が吹き、アルベルトの背にあった翼があとかたもなく消えると、上着を脱いで白い中衣姿になったアルベルトと、彼の上着であろうものを肩に羽織ったアメリアが二人して姿を見せる。
おそらく、自分の翼を衝立の代わりにして、その隙にアメリアに上着を掛けてやっていたのだろう。
魔族の翼は体に元々生えているのではなく、魔力によって作り出すものであるため、引っかかる心配もなく上着は脱げたようだ。
本来、人が入り乱れるような場所で翼を出すことは、妨げとなるため制限されている。だが、そんなことよりもアルベルトはアメリアを優先したのだろう。
「アル、ベルト、様」
助けてくれた人がアルベルトだとは思わなかったようで、アメリアは横に立つ彼の顔を見上げ声を振り絞った。
『いったい誰なんだ? こんな余興を許可なくやりやがったのは』
感情の起伏は一切見当たらず淡々とアルベルトは問う。表立って怒り狂う様を出したときよりも、静かな怒りは底知れない危うさがあった。
『アルベルト様』
遅れてメルウがその場に到着する。圧する勢いのアルベルトを彼は鎮めようとしていた。
『目を配っていたにも関わらずこのような事態となったのは、私の不徳の致すところです』
そんなメルウをアルベルトは視界の端に映すと、ふっと息を吐く。
目で会話するように、二人は視線を合わせていた。
『分かってるよ。暴走はしてないだろ』
アルベルトはひらひらと片手を振りながら肩の力を抜くと、今もまだしゃがみ込んでいるアメリアを見下ろした。
『おい、アメ……。お前、平気か──』
「申し訳、ございません。わたくし、あの、失礼します」
初めの言葉を濁したアルベルトは、片膝をついてアメリアを立たせようとする。
けれど、それを遠慮するように拒んだアメリアは、すくっと立ち上がると、舞踏場の扉へと一直線に走って行ってしまった。
「アメリア!」
セルイラの声も届かないのか、アルベルトの上着を羽織ったアメリアは、振り返ることもなく会場の外へと消える。
『おい!』
そのあとを追うように、アルベルトが人ごみを掻き分け素早く動いた。
主催がいなくなり舞踏場は混乱が続いている。面白そうに成り行きを見つめる者、またもや王子が花嫁候補の人間に気をかけたと勘ぐる者、案外本当に人間を伴侶に迎えるのではと考える者、捉え方は様々だ。
『まったく……次から次へと、問題が起こりますね』
メルウの周囲は雪が吹き荒れるように寒い。内心ご立腹であるのが窺えた。彼の負担はアルベルト以上に大きいのかもしれない。
「……メルウさん、こんな時になんだけど、わたしも少し会場から出ても構わないかしら」
葡萄酒がじっとりと肌に引っ付く感覚に煩わしく思いながら、セルイラは申し出る。
とてもじゃないが、このまま夜会に残ることはできない。着替えるにしたってここには予備のドレスが置いてある控え室もないようだ。
「しかし……」
「アメリアと比べれば、わたしは軽いものよ。貸してもらっているドレスは汚れちゃったけど。メルウさんはこの後の対応をしないといけないでしょう?」
コツコツと、履きなれないハイヒールでセルイラは優雅に廊下に続く入り口へと歩いて行く。
姿は酷いものだったが、意地でもセルイラはうつむかなかった。
(……誰がこんなこと、したのかな)
どちらにせよ、気分のいいものじゃない。グラスを飛ばした魔族からしてみれば、ほんの少しちょっかいを出しただけなのかもしれない。
そこに一つだけ予想外のことがあったのなら、それはアルベルトの対応である。
誰もアルベルトが、人間の女性を庇うような行動を起こすとは思ってもみなかったのだ。
「セルイラちゃん!」
舞踏場の入り口を抜けようとしたところで、飲み物を取りに行っていたユージーンがセルイラを引き止めた。
「あ、ユージーン様。みっともない姿をお見せして申し訳ございません」
「……いや、俺こそごめん。飲み物を取りに行った隙にこんなこと」
「ユージーン様が気に病むことないですよ。そんな顔をしないでください」
あまりにも申し訳なさそうにしているユージーンが気の毒で、セルイラはころころと和やかに笑んだ。
その様子にユージーンはまばたき、くっと眉尻を下げた。
「着替えに戻るの? よかったら、部屋まで送るよ」
「……いえ、お構いなく。さすがにそれはこちらが申し訳ないので。それでは」
くるりとセルイラは踵を返す。ようやく舞踏場の外に出ると、自分の体に漂うキツい臭いに顔を顰めた。
(……もう、本当にくさい!)
少量の酒から香る上品な匂いは好ましいが、ここまでくると鼻をつまみたくなる。
人間よりも鼻が利く魔族ならなおさら、セルイラ以上に表情を歪ませてしまうだろう。実際に舞踏場を出るまで、異臭を振り撒くセルイラを魔族は避け、そのおかげでぽっかりと空いた道を進んできたのだ。
(メルウさんも、ユージーン様も、紳士だわ。顔に一切出ていなかったもの)
もうこれ以上、他の人にこの悪臭の害が及ぼしませんように。そう思いながらセルイラは、ため息をこぼして廊下を進んでいった。
──ぴちゃん、ぴちゃん、と音がして、セルイラは左側に目を向けた。
舞踏場から部屋がある建物へと続く渡り廊下を歩いていた最中で、セルイラが見つけたのは水場だった。
彫刻やオブジェが飾りとして立ち並ぶそこは、鑑賞目的に造られた水場なのだろう。中央にある噴水も、まるで芸術品のような造形をしている。
来る時も通っていたはずなのに、今こうして魅力的に映るのは、丸々と太った満月の光が時間をおいてより強くなったからだった。
青白い輝きが噴水の水面を反射して、キラキラと揺らめいている。
「──あ、そうだ」
吸い寄せられるように、セルイラは噴水へと近寄って行く。
セルイラの上に広がる夜空には、無数の流れ星が瞬いていた。
ありがとうございました\( ¨̮ )/!




