31 魔王がいた。
空には蒼白く輝く丸い月がある。
けれど、まだ完全な満月ではない。もしこれが満月ならば見える大きさも、輝きも弱すぎる。
魔界の満月は息を呑む美しさがあった。また月から満ちる魔力の影響で星が流れやすく、満月の日は通常の何倍も夜空が煌びやかになるのだ。
「あった! はあ、よかった……」
セルイラが着いた席の場所を思い出しながら芝生の上を進んで行くと、失くしていたお守りが草と草の間に隠れるようにして落ちていた。テーブルセットは撤去されていたが、おそらく片付けた者が見落としていたのだろう。
──ガタッ!
ほっと胸を撫でおろしたセルイラだったが、夜の静寂を破る物音に、すぐさま身を固くさせた。
(……なに?)
音が聞こえた方向にセルイラはゆっくりと体を向ける。
茶会のときに足を踏み入れた、セルイラの大切にしていた小さな中庭。その場所がある方向から、音は聞こえていた。
無事に見つけ出したお守りを両手にきつく握りしめ、セルイラは歩みを進めた。
ごくりと乾いた喉を唾で潤し、小さな中庭が窺える木の陰からセルイラはこっそりと確かめる。
「……っ」
出かかった自分の声を、ギリギリのところで寸止めた。
体が石と化してしまったのか動かない。
セルイラの縁取られた蒼い瞳が、これでもかと開かれた。
──そこには、魔王ノアールがいた。
大きな物音の正体は、彼がよろけて椅子を蹴飛ばしてしまったからなのだろう。
丸テーブルに片手をついて体を支えようとしている姿に、セルイラはそう瞬時に理解した。
青白い月光を浴びているからだろうか。ノアールの横顔が驚くほど弱っているように感じる。
(そんな顔、知らないわ)
ただ、セルイラは苦しくして仕方がなかった。一体彼の瞳には、今なにが映っているのだろう。ここで何をしていたというのだろう。
(あなたは、わたしが知らない、なにを抱えているの)
じわじわと内側を侵食していく行き場のない感情に、セルイラはまたもや振り回されていく。
憎かった、恨めしかった、けれど弱々しいその姿に、拒むことの出来ない憂慮が押し寄せてくる。
──ガタンッ。再び音が響く。
ノアールの近くにあった椅子が横転し、セルイラの目の先でその体が大きく傾いた。
「……あ、ぶないっ」
きっと彼ならば受け身なんて造作もないことだ。それなのにセルイラは、理性とは切り離された融通の利かない想いに突き動かされノアールの元へと駆け寄っていた。
『……』
気配を察知したノアールは、顔を歪めてセルイラのほうを向く。
驚愕した拍子に唇が開かれるが、ノアールはそれをすぐに片方の手で押さえ付けた。
(……夕餉の間でもそうだった。話そうとして、急に苦しそうにしていたわ。もしかして──)
冷静を装ってセルイラは思考を回転させる。
有りうる可能性に、セルイラも相手に意志を伝えるように自分の片手を唇に当てた。
『……!』
セルイラの行動にノアールは眼孔を揺らした。
──ノアールは、話すことを制限されている。もう、そうとしか思えなかった。
だが、アルベルトやメルウとは問題なく会話を交えていたはず。
つまり、そこからたどり着く答えは──。
(……人間と、話せない)
そうだ。だから夕餉の間でセルイラが近づいたとき、ノアールはあのような反応をしていたのだ。
(……これも、メルウさんが言っていた呪術と関係があるということ?)
疲弊した様子のノアールは、人間であるセルイラが現れたにも関わらずその場を離れようとはしなかった。
すぐにセルイラは気がついた。理由は分からない。だが、夜闇の中にいる今のノアールには、魔法で場所を移動する力すらないのだということを。
『……』
乱れた髪の隙間からノアールはセルイラを見据えている。
彼は何を考えているのだろう。魔族を束ねる尊き王が、この瞬間だけは迷い猫のように頼りなく見えた。
──ぽたりと、ノアールの額から滲み出ていた脂汗が地面に落ちて弾ける。
(本当にひどい汗……)
ただ生まれた感情に動かされるように、セルイラは井戸へと向かった。
置いてあった桶に引きあげた水を溜めて、部屋から持って来ていたハンカチをこれでもかと浸して全体的に濡らす。
セルイラの行動が理解出来ていないのか、ノアールは息を荒くさせながら注視していた。
「……」
くるりとセルイラが振り返ると、同時にノアールの肩がビクリと反応する。
一歩、一歩と足を動かし、テーブルの端に体の半分を預けるようにしたノアールへと近寄った。
自分に近づこうとする人間の存在を拒もうと体を力ませるノアールだったが、それは叶わずにセルイラに見下ろされる形となった。
「……」
お互い沈黙を貫いたまま、セルイラは濡らしたハンカチをノアールに差し出した。
『……。……、……?』
決して口を開かないセルイラに、妙な違和感を覚えはじめたノアールは、ゆるりと頭を斜めに動かした。
自分にハンカチを渡しているというのに、その行為にさえ、彼は意味を理解していない。
そうだ。ノアールという人は、相手の好意が自分に向けられていることにも気がつかない、鈍い人だった。
心配をしていても、されていることに気づかない。自分が心配されているという少しの考えさえ浮かばない。馬鹿が付くほどの鈍感。
(あぁ、もう)
こんな時に都合よく労わろうとしてしまう自分が憎らしくて、けれど放置なんて出来はしない。
複雑な矛盾が殺到し、もつれ合ってはセルイラの中で火花を散らした。
きっと目の前で苦しんでいる人がノアールではない、見ず知らずの人でも自分は駆け寄っただろう。ノアールだけが、特別なのではない。
誰に言うでもなく、セルイラは心中でそう何度も言い聞かせていた。
(こんなの、ただの言い訳ね)
見苦しい結論に、セルイラは自嘲の笑いを口の端に浮かべる。
「……」
そしてセルイラは──濡れたハンカチをノアールの額に優しく押し当てた。
体の自由が利かない様子のノアールは、手を振り払えず突然の冷たい感触に身を強ばらせる。
けれど汗を拭われれば、ふっと険しい顔が少しだけ和らいだ気がした。
(だめ、手が……)
かたかたと震えを抑えることが出来ず、セルイラは歯の奥をぐっと噛み締めた。
振動が伝わってはいないだろうか。
胸を炙られるような焦燥感の中、セルイラがノアールの白い額から少しだけ下に目を向けた、その瞬間。
「──っ」
──美しい、紫色。セルイラとノアールの視線が、ぴったりと嵌ったパズルのように、隙間を与えず絡み合う。星影のような煌々とした眼に吸い込まれそうになった。
鼓動が強く打っては、全身の血の巡りが逆流したような感覚にセルイラは手を引っ込める。力が抜け、芝生の上にハンカチを落としてしまった。
『……』
ノアールはそんなセルイラの動作を見逃すことなく捉えている。セルイラには、今のノアールが何を思っているのか読み取ることが出来ない。
緊張の糸がほどけるように、まぶたを伏せたノアールの瞳がうっすらと影を被った。
『魔王様、お呼びでしょう……か……?』
小さな中庭に、セルイラでもノアールでもない、第三者の声がした。
(メルウ、さん?)
転移の魔法を行使し、一瞬にしてその場に姿を現したメルウは、目の前の状況に仰天している。
『……』
無言のままノアールがメルウに目配せをした。
『……かしこまりました。直ちに』
そこに会話は一切ないはずだが、仰々しくノアールに頭を下げると、メルウは短くそう答えた。
『失礼致します、魔王様』
メルウの声とともに、セルイラの景色は音もなく一変する。
「え……?」
こぼれ落ちた吐息混じりの声は、セルイラとアメリアの部屋である空間に溶けるように消えていった。
「……申し訳ございません。魔王様のご命令により、あなた様をお部屋へ転移させていただきました」
同じく転移の魔法で移動してきたメルウが、苦い表情を浮かべながら言った。
「そう……」
あの場でノアールとメルウの間に言葉は交わされなかったが、命令されたということは念話を使用したのだろう。それ以外に口を開かず意志を伝える方法はない。
「セルイラ様、なぜあの場所にいらっしゃったのですか?」
「茶会のとき、お守りを落としてしまったの。取りに行ったら物音が聞こえて、気になって覗いたら……あの人がいたわ」
「……左様でございましたか」
「茶会のときも、アルベルトと少しだけあの中庭に一緒にいたの。アルベルトは言っていたわ。場所をとるだけで意味の無い庭だって。でも、取り壊すことが出来ないんだって」
アメリアはぐっすりと眠っているだろうが、注意を払いながらセルイラはメルウに小声で話した。
「……セルイラ様。アルベルト様に城の東棟の管理を命じたのは、魔王様なのです。つまり東棟はアルベルト様の管理下、いくら魔王様でも公的な王命でない限り手出しは出来ません」
「それは、どういうことなの?」
「……セルイラ様は、どう思われますか」
質問に質問で返したメルウは、憶測であってもその先を言う気はないのだろう。
普段と変わらない微笑を作るだけだった。
「どうして、こんな夜に魔王はあの場所にいたのかな。あんなに苦しそうにして、ひとりで、ひとりぼっちで」
「話を、なさらなかったのですか?」
「……。メルウさんも、気がついているんじゃない? 魔王は人間と話すことが出来ないって。メルウさんが夕餉の間で起こったあの人の変化を見逃すのかしら」
試すようにメルウを見つめれば、彼は度肝を抜かれたように眉を下げて薄く微笑んだ。
「その通りです。と言っても、そうだと分かったのは、あなた様が魔王様に近づいてくれたおかげです。この200年、そんな情報でさえ掴むことができなかったのです」
魔王は頑なに何も言わない。調べるにしても証拠がそう転がっている訳では無い。ほとんど八方塞がりと言ってよかった。
「メルウさん。やっぱりわたしは、本当のことが知りたい。何があったのか、200年前に起きたこと。知り得ることは、全部──」
魔界へ来て初めてセルイラは、前向きな意志を明確に言葉にした気がした。恨み辛みに溺れていた時とは違う。これは今の自分がそう考えて導いた意志だ。
「セルイラ様……」
目を見開いたメルウに、セルイラは憫笑する。
「……未練がましいって、そう思う?」
「そのようなこと──」
「いいの、それでも」
セルイラはメルウの発言を遮り言った。
「だって、未練だったんだから。だからこうして魔界にいるの。ああ……認めることでこんなにも心が軽くなるなんて思わなかった」
チェルシーから貰ったお守りをぎゅっと両手に包み込み、セルイラは大切そうに言葉を紡ぐ。
都合が良いと思われたって構わない。それでもこれが、今のセルイラの正直な気持ちだった。
「──わたしはもう、200年前をあきらめたくない」
ありがとうございました!
セルイラとノアールの会話が「……」『……』ばかりで大切な場面なのにどうしてか笑ってしまいました。




