23 記憶の混濁
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ニケが落ち着いた頃、セルイラは用意されていた椅子に腰を下ろした。
メルウとニケにも座って欲しいとお願いしてみるが、二人は遠慮を貫き結局セルイラだけが座るかたちとなった。
『ニケ、大きくなったわね。本当に』
居住まい正したニケの見た目は、十代後半の愛くるしい少女そのものである。
こう見えてもアルベルトより少し歳上だが、背は遠に抜かされてしまったようだ。
とはいえ、人間の成長による外見の変化と、魔族の外見の変化を比べるものではない。はじめは人間と似たように成長していくが、後に差が出始める。
ニケは年月で換算すると二百歳、メルウはおよそ三百歳だった。
『あなた様も、とても変わられました』
『……どう変わった?』
『とてもお綺麗だと、思います』
セルイラの姿を目に収めてニケが言った。
社交界の華と呼ばれたセルイラは美しい。大概の者はそう思うだろう。
200年前と200年後の容姿は似ても似つかない。目の前のセルイラの姿を見てニケは心なしか寂しそうにしている。
それを感じ取ったセルイラは、困ったように眉を下げた。
『わたしね……この顔はもうわたしであると言えるの。鏡に映る自分に違和感は全くない。けれど嬉しいかと聞かれれば、それは──』
言葉を噤んだままセルイラは弱々しく笑った。その先をセルイラは言う気がなかったのだろう。すぐに「ごめんなさい」と謝ってこの話を切り上げる。
思うところがあるということは、ニケもメルウも勘づいていた。それでも深く聞こうとはしなかった。
『昔話に花を咲かせる……には、まだ早いようですね。まずはセルイラ様に地下牢でお話できなかったことをお伝えする方が先かもしれません。というより、そのために本日の朝食は部屋で摂れるよう話を通していました』
ニケがここにいることも、そしてセルイラがニケに自分のことを打ち明けることも、メルウには予想出来ていたということなのだろう。
先ほどのニケとのやり取りが嘘のように、部屋を包む空気には重い緊張が混じり始める。
『セルイラ様──ユダという、女をご存知ですか』
ぞくりと背筋が凍りついたような寒さをセルイラが感じるのは、ユダの名を言ったメルウから隠しきれない殺気が漏れでていたからだ。
そしてそれは、ニケからも伝わってくる。
『ユダ……?』
その名前にセルイラは聞き覚えがあった。けれどそれが誰であったのかが思い出せない。
『……痛っ』
細い糸を手繰るように記憶を探してみても、ユダという女の存在を見つけ出すことができなかった。
それどころか無理に思い出そうとすると、まるで反動のようにチリっとこめかみに鈍痛が走る。
(なに、これ?)
それは初めての感覚だった。頭の中が迷路のようにぐちゃぐちゃとして気持ちが悪い。
『セラさ……いえ、セルイラ様、大丈夫ですか?』
心配したニケがセルイラの左肩に優しく触れる。人の体温を感じて少しほっとするものの、動悸はなかなか治まらなかった。
『セルイラ様……やはり、分からないのですね』
悟ったようにメルウがそう告げる。セルイラには訳が分からなかった。
今のセルイラは200年前に生きたセラとしての記憶のすべてを持っている。多少細かい部分が曖昧であったりはするものの、深く関わった人物はそう簡単に忘れられるはずがない。
『セルイラ様……あなたは200年前のことを、本当にすべて覚えておいでですか?』
『どういう、こと』
『あなたが魔王様に人間の世へ戻される前、魔王城でのこと、どこまで記憶にありますか?』
『戻される前……? 魔王城でのこと……?』
その時、セルイラの中で何かがすっと吹き抜けた。
まるでぐちゃぐちゃに酷く絡まり合っていた糸の塊が真っ直ぐと解かれたように、はっとしてセルイラはメルウを見捉える。
『……メルウさん、わたし、分からないわ』
ぽっかりと、空いている。その記憶がセルイラにはない。
メルウの問いでセルイラは、自分の記憶が欠落していることにはじめて気がついた。
『ユダとは現在、城の西の宮に住まう──魔王様の伴侶と云われている者です』
その言葉に鈍器で殴られたような衝撃がセルイラを襲った。
心が揺さぶられる。だが、決して表に出すまいと毅然とした態度を装った。
『魔王の伴侶、かぁ。それはつまり、あの人が選んだ新しい妻──』
『違います!!』
乾いた笑みから発せられたセルイラの声は震えを隠しきれないでいる。
そんなセルイラの発言を許すまいと遮ったのは、ニケだった。
呼吸を荒くさせたニケは、違うと、強く否定している。
『そんなの、城の者が勝手に噂しているだけの話です。事実無根です。魔王様はそのようなこと、一言も仰っていません。あの女が……あの女がすべて操っているんです! セラ様のことも、この城の魔族のことも、魔王様のことも、母様のことも、それに──ミイシェ様だってっ!!』
──ミイシェ。それは、セルイラが産んだ二人目の子どもの名前。
『ミイシェが……どうしたの?』
共に過ごした時間はアルベルトよりもさらに短い。自我が芽ばえる前であった。けれど赤子のミイシェは、セルイラのことをしっかり母と認識していた。
魔界へ召喚されてからというもの、アルベルトの姿はこの目で確認できた。けれど娘のミイシェの存在を近くで感じたことはない。
『ニケ、落ち着きなさい』
『……! 申し訳、ありません』
怒りで興奮したニケを宥めたメルウの表情も固く険しいものである。
彼らの様子が可笑しいのは、セルイラの知らない……いや、もしかすると欠如してしまった記憶に関係していることなのだろう。
『……なに? ミイシェになにかあったの?』
『それは、』
『お願いニケ、教えて!!』
言い溜めるニケに詰め寄ったセルイラは、懇願するようにニケの両肩を掴んで揺さぶった。
落ち着きを保とうとしていたはずが、無意識のうちにセルイラは動揺を曝け出している。
『──すべては、ユダが関係しているのです』
メルウは苦虫を噛み潰したような顔をして言った。
『ユダとは、前魔王──ノアール様の父君の側女として城入りした女です。ノアール様によって前魔王が討たれ、複数の側女たちは皆、反乱軍によって拘束されたと思われていました。ですが──』
ユダ、ユダと。
心の中で何度も名前を繰り返すが、やはりセルイラはその女の存在すら思い起こせない。
『セルイラ様。ユダは、あなたが魔王様に人間の世界へ戻される前の数日間──姿を偽り、あなたの、侍女として傍にいた女なのです』
──返そう、すべて。身体も、時間も、記憶も──そなたと私が、出逢う前へ。
あの言葉が、今もセルイラの耳に残っているような気がした。
表情の分からないノアールは、淡々とした動作でセルイラを透明な魔法の膜で包み込んだ。
(どうしてと、何度も叫んだ)
セルイラは足掻くことも出来ず、最後になるであろうノアールの姿を目に焼き付け、そして。
「あれ……? どうして? なん、で」
脳裏でフラッシュバックする情景に、ぽつぽつと色が塗り込まれ始める。
魔界語で話すことも忘れ言葉をこぼすセルイラは、ようやく気がついた。
あの時の、彼の表情の違いに。
ただの生贄に過ぎなかったのだと悲観したとき、悲しみと怒りに暮れたセルイラを見たノアールは──。
(わたしは、どうして覚えていなかったの?)
返そうと、そう告げたノアールは、物悲しく微笑んでいた。
まるで世界が消えていく寂しさに必死に堪えるような……細められた彼の紫色の瞳には、水の光が溜まっていた。
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