2 セルイラ・アルスター
「お父様、お母様。これまでの御恩を返せるのならば、今がその時だと思っています。──だから、わたしをどうぞ、差し出してください」
セルイラは、ひらりとドレスの裾を摘んで頭を垂れた。
七日後、セルイラは、魔界へと足を踏み入れる。
人の世界で未知の種族と恐れられ、古い歴史を辿れば惨い行いを多々起こしてきたとされる悪魔の末裔──魔族。
そんな魔族の長、『魔王』の副官メルウから、セルイラが生まれ住む、水神の加護を賜る国 オーパルディアの王城に書簡が届いたのは先刻のこと。
『魔王は人間の女を妻に所望している。歳は十五からとし、未婚者であること。健康であること。数を絞るため、平民は外しすべて貴族の娘から選抜すること、また──』
(……)
と、お世辞にもうまいとは言えない解読文がその後もつらつらと並んでいたが、そこでセルイラは視線をずらし、深呼吸をする。
今ごろどのご令嬢も絶望に打ちひしがれているに違いない状況下で、セルイラだけは強く前を向いていた。
セルイラ・アルスター伯爵令嬢。彼女はアルスター伯の長女として十八年間、なに不自由も無く生きてきた。
社交界デビューを果たしたのは、十五の夏の日。
美しく透けたプラチナブロンドの髪と、蒼く輝く瞳の容姿を持つセルイラは、一躍社交界の華となった。それから早くも三年が経ち、セルイラもそろそろ嫁がねばならない年齢となっていたが、当の本人はまるで興味なし。
縁談の話は、何十、何百と舞い込んでいるのにも関わらず、セルイラが首を縦に振ったことは今まで一度もない。
アルスター伯の権限を利用し、城の書庫にて書物を読み漁る日々を繰り返し送っていた彼女を、周囲は密かに変わり者と囁いていた。
魔界からの書簡が届いたと知らされたのは、ちょうどセルイラが城の書庫から屋敷へ戻ったタイミングだった。
そろそろ、この書庫通いもやめにしようか。そう頭の片隅で考えていたセルイラは、自分が影で変わり者と言われているのは知っていた。
年齢的にも潮時なのではと薄々感じてはいたことだった。それでも未だに縁談に迷いがあるのは、前世の記憶を引き摺っているからだろうか。そんな問答を何度もしては、結局答えに辿り着けずにいた。
だが、彼女の変わらぬ日々は、この日を境に変動する。
(こんなことが起こるなんて、思いもしなかった)
セルイラは、先程までいたはずの城から届いた通達の用紙に目を落としながら思い耽った。
この日、魔界から書簡が届くまで、彼女が過ごす日々はただ単調で、それを望んでいたような、そうではないような、けれどどうしたいのかもわからず、時だけが過ぎていくばかりだった。
(ようやくわかった。わたしが、したかったこと)
書簡を持つ方の手に力が加わる。
ぐしゃりと、王家の紋章が刻まれた羊皮紙が、あっという間に皺だらけになってしまった。
(ねぇ、ノアール。わたしね……あなたを一発でも殴らないと、気が済まないみたい)
──時は少しだけ遡る。
変わらない日々を送っていたセルイラの運命が劇的に変わることとなった日の明朝。
彼女はその日も、最近頻繁に見始めた前世の記憶の夢から目を覚まし、頬に涙を流していた。
セルイラの前世の記憶。
200年前、魔王への贄として魔界へ放り込まれたセラという少女。
魔王の子を産み、そして用無しとでも言うように故郷へ返された憐れな女の記憶である。