18 彼の望みを叶えた人間
※別視点です。
日に日に孤独に返る魔王の姿が、メルウには痛ましくて仕方がなかった。
魔王ノアールが幸せを感じていたとするならば、それは間違いなく200年前であると彼は断言できる。
ただの村の娘だと思っていた少女が、孤独であった魔王を変えていったのだ。
少女と出会い、魔王の世界に彩りが生まれた。
少女と出会い、魔王は愛しい感情を知った。
少女と出会い、魔王はかけがえのない存在を手に入れた。
魔王ノアールの実父、前魔王は、欲にまみれた男だった。
人間の女を魔界へ攫い、ノアールが産まれれば母親とともに城の一室に閉じ込めたのだ。
ノアールと前魔王が初めて顔を合わせたのは、年々気を病み、最後は枯れた姿のまま命を落とした母親の死の一ヶ月後のことである。
己の力を誇示するように辺りに赤い炎の光を浮かべ、魔族の若い女を周囲にはべらせ酒を煽る前魔王は、息子であるノアールを一目見てこう言い捨てた。
『俺とうり二つじゃあないか。気色が悪い。もういいぞ、貴様は二度と俺の前に現れるな』
前魔王は人間の女に子を産ませた。しかしそれは、跡継ぎを作るためではなかった。
人間の女に興味があった。ただそれだけである。一度体を交わらせれば興味は削がれ、どうでもよかったのだ。そして魔界の行く末すらこの男にはどうでもいいことだった。
母親が命尽きるまで、ノアールは理不尽な暴力を逃げることもなく受け入れていた。
耐えていた、といえば語弊がある。
彼にとっては、それが生きるうえでの理由であったから。
一番古い記憶には、若い少女が素手で自分を殴り続ける光景がある。
次の記憶には、少しばかり大人びた娘が自分を殴りつける光景があり、その次は壮年期を迎えたばかりの女性が棒のようなもので一心不乱にノアールの背中を打っていた。
女は初老を迎えるが、それでもノアールは抵抗もせず目の前の女の悲しい暴力を受け続けていた。
そして、そのうちノアールに手をあげる体力すら無くなった老婆は、床の上で静かに息を引き取った。
老婆の憎々しげな眼差しと、顔を伝う涙が、ノアールにとっての、母親の最後の記憶だった。
ノアールの存在が明るみになったのは、前魔王の反乱軍が城を攻め入ったときである。
鉄壁の魔法防衛を施していた魔王城が、蒼白い満月のその夜、内側から大きく崩れたのだ。
反乱軍が玉座の間の扉を蹴り破ると、そこには痩せ細った少年の姿があった。
誰かと似た容姿の少年の足元には、反乱軍の目的であった男の体が横たわっていた。
『……』
少年は驚愕した様子の反乱軍には目もくれず、転がった果物の前にしゃがみ込んで、ぱくぱくと食べ始める。
空腹により命の限界が迫っていたノアールは、無自覚に魔王の血筋としての力を引き出した。
それに気がついた前魔王はノアールを殺めようとしたが、ノアールの力は常軌を逸していた。
当時の魔王であった父親を殺せるほどの威力が、少年の体には隠れていたのである。
前魔王の死後、魔界は反乱軍を中心に一新された。ノアールの強大な力は次期魔王として申し分ないと判断され、そのための教育が始まることとなった。
『は、はじめまして。ノアール様』
『……?』
歳の近い側近として抜擢されたのは、父親を反乱軍の参謀にもつメルウだった。
そんな二人の付き合いはとても長く、言葉すら話せなかった頃のノアールのことを一番知っているのは、おそらくメルウである。
そばにいる時間が増えれば増えるほど情のようなものを、メルウはノアールに感じていた。
『メルウ。私はあの時……本当は死ぬつもりでいたのだ』
おもむろに口にしたノアールの言葉が、メルウの記憶には深く残っている。
蒼白い月を酒の肴にしながら、彼はメルウに初めてその時のことを語ってくれたのだ。
『だが、気がつけば父親が床に転がっていた。こんな者に、私は囚われていたのだと可笑しく思ったが、なにより己を守ろうと動いた体が不思議でたまらなかった』
そう話すノアールは、まるで疑問を覚える純粋な子どものように見えた。
『今は、どうなのですか?』
『……今?』
『ご自分の死を、王となった今も望んでいるのですか』
魔王として即位の時を迎えても、ノアールに執着というものは一切なかった。
何に対しても無情のまま、ただ淡々と魔王教育で仕込まれたとおりに役目をこなすだけ。
だからこそ、知りたかった。
ノアールの本心が、どこにあるのかを。
『今、か』
無意識だったのか、メルウの問いかけにノアールは口角をわずかに持ちあげた。
『もう、なにもわからない──』
ぼんやりと虚空を見つめたノアールに、もはや自我すら薄いのではないかとメルウは底知れず恐怖した。
メルウが思う魔王とは、ただただ、悲しい人だ。
──どうか。どんな形でも、どんなことでも構わない。
いつの日か孤独の中にいる我が主が、心の底から満たされ、幸せだと感じる瞬間が訪れんことを。
それがメルウの望みだった。
『もう、忘れてくれ。メルウ、頼む』
孤独だった魔王は、彼を孤独の中からすくい上げた娘を手放した。
魔王はなにかを隠している。
それを察知できなかった不甲斐ない自分をメルウは何度も責め続けていた。
魔王は、なにかに囚われている。
幸せを教えてくれた娘を人の世に返し、入れ替わるように現れた──あの女によって。
◆
信じられない者を、メルウは目の前にしている。
顎を掴んでいた手が離れ、息苦しさから解放された少女は、その場で何度か咳き込んでいた。
アルベルトの花嫁候補として召喚された少女は、可憐に咲き誇る花の中にいたとしても霞むことのない容姿をしていた。
透けたプラチナブロンドの髪、蒼く輝く瞳、陶器のような肌。その姿を形作るすべてが、美しいと客観的に見ても感じる。
「げほっ、げほ」
手加減はしていたものの、少女は未だに口に手を当てて咳き込んでいた。
「本当に、メルウさんて相変わらずせっかちなんだから」
目に涙を溜めながら、少女はメルウに文句をこぼすような口調で苦笑いをする。
その仕草が脳裏に思い起こされた少女と重なった。
──メルウさんて見た目と違ってせっかちなんだから!
魔王の副官にそう文句を言えたのは、彼の記憶の中で一人だけである。
赤子だったアルベルトの夜泣きが酷ければ、何かあるのではと心配になり、一大事だと国で最も優秀な医者を呼び寄せようとしたメルウに少女は言った。
その少女とは……その人以外いない。
「セラ、様……?」
崩れ落ちるように、メルウは両膝を硬い床につく。
容姿は似ても似つかない。それなのに、その名を呼んでしまった自分に、少女の蒼い海を連想させる瞳が波のように震えた。
「……」
少女は何も答えない。
しかし、切なそうに微笑んだ顔は肯定を意味していた。
「……セラ、様」
今も昔も変わらない。メルウにとってその少女は、彼の望みを叶えてくれた──魔王が愛した、唯一の人間。
ありがとうございました!




