17 思わぬ告白
大股四歩。それが、セルイラと魔王ノアールの間にある距離だった。
本物の威力は、凄まじい。
一目見ただけで胸が凍りついた。一目見ただけで深い悲しみが溢れそうになった。一目見ただけで──恋しいと、感じてしまう自分がいた。
「……っ」
その想いから逃れるように、セルイラは足の裏を強く蹴る。
どうして、どうして、どうして。声に出ないセルイラの言葉が頭に痛々しく響き渡った。
(ねぇ、ノア。どうして、あんなことをしたの?)
二度目の命を授かり生きてきたセルイラは、いつか過去の清算をしなければと心に留めていた。新しい人生、新しい人間となって別人として生きれるほど自分自身は器用ではなかったから。
前を向くために、もうこれ以上囚われたくないと足掻いた結果が、今のこの状況を作りだした。
(どうして)
過去の清算の、はずなのに。
セルイラだけが、あの日に戻っていた。言いたいことが山ほどある。怒りも、不満も、悔しさも、全部をぶつけたくなった。
一直線にセルイラはノアールのもとへ動いていた。彼女の動きを予想していなかったのか、近くにいたアルベルトとメルウが目を瞠る。
元々の存在感に加え、副官である自分とアルベルト、そして城勤めが長いニケのみが感じとった魔王のわずかな気の乱れ。
それが魔力の圧となって周囲に放たれたこの状況で、人間が動こうとするなど誰も予想だにしていなかった。
力強く握ったセルイラの手のひらが肩より高く持ち上がる。
今の今まで、彼に一発でも張り手を入れてやりたいというセルイラの意気込みに嘘はなかった。それだけのことを200年前にされたはずで、むしろこれだけでは足りない。
──魔王ノアールに、手が届こうとしていた、その瞬間までは。
(……どう、して?)
セルイラの疑問は、全く別の意味で浮上していた。ぴたりとノアールに向けられていた手は空中で止まるが、勢いあまったセルイラの体は前のめりになる。彼の胸板に両手が触れたとき、あまりの冷たさに背筋が粟立っていた。
『……』
前髪の隙間から窺える彼の顔に覇気は一切ない。ノアールを見上げるセルイラは、戸惑いを隠すことができなかった。
夕餉の間に現れた直後はまったく気がつかなかったが、こうして近くで見つめれば気がついてしまう。
うっすらと確認できる目の縁の隈と、横髪で隠れた痩せた頬。病的とはいかなくても、200年前よりあきらかに痩せてしまったノアールの姿は、異常だった。
「……あなた、一体、なにが……?」
その瞬間、異変が起こる。
『……ぐっ』
セルイラが口を開いたと同時に、目の前のノアールが首を手で押さえ苦しみだしたのだ。
正確にいえば、セルイラからの視点で苦しんでいるように見えたというのが正しい。苦渋の色を浮かべるノアールは、ふらりとセルイラから半歩離れる。
『アルベルト、メルウ。話は後ほどだ』
『魔王様!』
それだけを発すると、ノアールはこの場から一瞬にして姿を消した。おそらく魔法による転移魔法だろう。
「……なに、あれ」
魔法によってノアールが姿を消すまで、青ざめた彼の横顔をセルイラは焼きつけていた。
自分が見たかったのは、あんな顔ではない。あんな魔王を求めていたのではない。
「……」
たった数秒だけ触れた体の温度の冷たさが指の先に残っている。
衣服越しだというのに、まるで人形のようだと思った。
(お願いだから、そんな姿を見せないで。わたしは、あなたを恨んでいるの、憎んでいるの、怒っているの。お願いだから、お願いだから……あなたは、残酷な人だった)
顔を見るまで、セルイラの中の魔王ノアールは、自分勝手で残酷な人物だった。
それなのに、あの顔を間近で見てしまったら、なにがあったのかと考えてしまう。
(もう、したくないの。あなたの心配なんて)
彼の体に触れた自分の手を、セルイラはぎこちなくこすり合わせた。
◆
「不敬罪ですね」
にっこりと笑顔を浮かべたメルウは、投獄されたセルイラにそう言い放った。
(……まあ、そうなるわね)
ここは魔王城にある地下牢だ。許可もなく人間の女が魔王ノアールに至近距離で近づき、あろうことか触れた。それがセルイラの罪状である。
触れただけでこうなるのなら、張り手をしていたら即殺されていたのだろうか。そうぼんやりと考え込むセルイラにメルウは再度言葉をかけた。
「失礼ですが、真名を名乗っていただけますか」
「……セルイラ・アルスターです」
「はい、結構です。では一応訊きますが、なぜあなたは魔王様に近づいたのですか? あの状況で、よく足が動きましたね」
「それは……」
牢屋の椅子に座ったセルイラは、鉄格子を挟んで対面するメルウを見つめる。
魔王の副官メルウ。彼は200年前も魔王の右腕としてそばに仕えていた。
もちろんセルイラも、セラとして彼とは何度も顔を合わせている。今と同じように人間の言葉がわかるため、話し相手と、村の娘だったセルイラのマナーや教養の講師としても世話になっていた。
「メルウ殿。残りの人間の女二名、牢へ入れました」
「ああ、ご苦労さまです。声をかけるまでは上階で待機を」
「かしこまりました」
メルウの命令に牢番は階段を上がっていく。牢番の足音以外に音は無く、地下牢は静かなものだった。
「わたし以外のふたりも、ここに?」
「ええ、もちろん。ある意味、あなたより罪は重いですからねぇ。ここより奥の牢に入れていますよ」
二人というのは、夕餉の間でアルベルトに平手打ちをしたアメリアと、アルベルトに飲み物を浴びせたサリー令嬢のことだった。
「……二人は、どうなるのでしょうか」
真名を記入した際、身の安全は保証するとメルウは言っていた。だが、魔王の息子に手をあげてしまってもそれは約束されるのだろうか。
背いた場合のことを詳しくは聞いていない。人間の世界でもない魔界で、その国の王子にしてしまったことを考えれば無事で済むほうがおかしい。
「無駄な殺しは避けたいというのが本音です。そうですねぇ……ここは、あなたの答え次第で、処遇を決定しましょうか」
「どういうことですか?」
「……」
メルウは無言のまま、牢の扉を鍵で開けた。
ギギィ……と鳴る錆びた鉄の音と、近づいてくる靴の音。牢の暗さも相まってメルウの崩れない笑みが薄気味悪いとさえ感じる。
「武器は、持っていないようだが」
じろりと、三日月のように細められたメルウの瞳がセルイラを映した。
「あなただけ、反応がおかしいことに気づいているか? あなた以外の花嫁候補には、怯えがあった。魔界に対する恐れ、魔族に対する恐れ、アルベルト様に対する恐れ。しかし夕餉の間で、あなたからはそれらが一切なかった」
「ぐっ……」
乱暴に顎を掴まれ、セルイラは無理やり上を向かされた。手加減なしの力に鈍い声が喉からもれる。
「オーパルディアの差し金か? あなたは本当に、伯爵家の令嬢、セルイラ・アルスターなのか?」
「あたり、まえじゃない」
急な扱いに口調すら乱れてしまったセルイラは、体をよじらせてなんとかメルウの手を逃れようともがいた。
だが、魔族の力に適うはずもなく、代わりにみしみしと骨が鳴る。
「……そうですか。実はあまり長丁場が得意ではないんです」
再びにっこりと嘘の笑顔を浮かべるメルウ。
(ええ、よく知ってるわ。メルウさん、あなたって本当にせっかちだった)
セラの講師として勉学を教えていたメルウだが、丁寧な口調と見た目に反してかなり豪快なところがあった。それを思い出してセルイラは心の中で同調する。
「手っ取り早く、真名を使いましょうか。あなたが本当にセルイラ・アルスターなら、あなたが記入したこの真名が光ります。そうではない場合、この文字は反応しない」
懐に忍ばせていた羊皮紙に手を伸ばしたメルウが、セルイラにそれを見せつけた。夕餉の間で記入した、セルイラの真名が書かれた誓約書である。
「夕餉の間でのあなたの視線が気になっていました。アルベルト様に向けた視線……あれはなんだったのでしょう」
あれ、とは。横暴な言動の数々を繰り返すアルベルトに対してセルイラが強い視線を送っていたことを言っているのだろうか。
それを敵意だと受け取ったならメルウの考えは見当違いである。
セルイラはあの時、息子の度が過ぎる成長に驚愕し頭を抱え込みたい衝動を抑え、あわよくば叱咤したい思いだったのだから。
(こんなふうに疑われているなんて。やっぱり不自然に見すぎたんだ)
自分の甘さを反省すると同時に、言い逃れできないのではないかと考える。
ここまで疑われているのに、言葉を取り繕ったところでメルウ相手に上手くいく未来がみえない。
(それ、なら)
意を決して、セルイラは口を開いた。
「真名を、使わなくてもっ、答える。アルベルトを、恐れないのは……わたしだから。時が経っていても、自分が産んだ息子なんだもの……怖いわけ、ない」
「……なに?」
セルイラの顎を掴んでいたメルウの手の力が弱まりはじめる。
「魔界も、魔族も、知っているから。魔族にだって心があり、理性がある。もちろん非道な行いを起こす魔族はいる。けれどそれは人間だって同じこと。二種族に決定的な違いがあるとするなら、それは身体的特徴と魔法の有無だけ」
「あなたは、一体……」
「200年前、そう授業で教えてくれたのは、あなただったわ。メルウさん」
メルウの手が、セルイラの頬からずるりと離れた。




