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16 水神のきまぐれ


本編へ入る前の大切な回想話。

よろしくお願いします。



 愚かな人の子だと、彼は水底に沈んだ娘を見下ろした。


「自分から身を投げ出すなんて、それほど彼を想っているんだね」


 うっすらと開かれた瞳に、すでに生気は感じられない。

 娘は望んで水の中に身を投げ、そして命を落としたのだ。


「ああ、本当に愚かな人間だよ。そんなに彼が……魔王が好きだった?」

 

 彼は、水中で眠るように体を横たえる娘を優しい水の膜で包み込んだ。

 泣き腫らした目がとても痛々しい。


 心優しい娘だった。

 運命に翻弄され、人間と魔族の間に心を苦しめ、それでも強い意志を持って決意したのだ。

 娘は魔王の妻として、そして魔王の血が流れる子どもたちの母として生きることを選択した。


 それなのに、なぜ娘は水底で命を落としてしまったのだろう。


「……」


 彼は水の膜に護られる娘の額に手を伸ばした。

 ほんのりと放たれる手のひらの光が消えると、彼は悟ったように表情を曇らせる。


「まったく……君たちは本当に、相手のことしか考えられないんだね」


 それで片方は絶望し命を落として、片方は一生背負い続けて死ぬまで生きていく。

 ヒトとは、なんて愚かで、脆く、儚いものなんだろう。


「僕なら、君を生き返らせられるよ。僕のそばにいれば、人間や魔族のしがらみもない。自由に生きていけるのに」


 けれどそれは彼女が望まないのだろう。

 心を消して、魂を水へ溶かして、新しい生命に生まれ変われば娘は幸せになれるだろうか。


 だが、伝わってくるのだ。

 命途絶えた娘が宿す消えかけの魂は、今も彼を、そして子を強く想っている。


 この無念を、()は消してしまって、本当にいいのだろうか。

 本来の彼ならば、戸惑いはしなかった。

 それは彼の使命であり、今まで数えきれないほどにやってきた彼の役目であったから。


 それでも、今こうして娘の魂をたやすく溶かすことができないのは。

 ──水神である彼が、人間の娘に恋心を抱いていたからだ。


「それなら、運命にかけようか」


 もし自分のおこないがさらに娘を苦しめることになったとして、運命を恨んだとして、天を憎んだとして。


「これはすべて、水神()のきまぐれだから」


 あの日から、彼は知らず知らずのうちに娘に恋をしていた。


 水神である彼は、退屈な水中から顔を出した海辺で、村の少年たちに生け捕りにされてしまった。

 海の生物に擬態した彼を、誰も()()()とは思わなかったのだ。

 すぐに逃げられはしたが、なんとなく彼は流れのままに身を任せていた。理由は単純、ただのきまぐれだった。


 なにも初めてのことではなかった。水神は前にも一度、似たような経験をしたことがある。

 いつの時代だったかは覚えていないし、神にとっては重要でない。同じく海の生物に擬態し、ふわふわと水中を漂っていたら遊び半分に猟をする子どもたちに捕まったのだ。

 生きるために命を奪うのは、生物に共通する行動原理である。だが、どの時代においてもその場しのぎの遊戯のために命を弄ぶのは、人間が圧倒的に多かった。

 見て見ぬふりをする者もいた。それが人間だと、水神は知っている。

 水の神だと知らずに危害を加えようとする人間も、我が身可愛さに目を逸らす人間も、水神にとってしてみれば等しく人の子なのだから。

 恨みも憎みもしない。なんの感情も抱くことはなかった。

 海水を操り波を立たせ、水神は少年たちから離れていった。

 それが水神の経験した、人の世で起こった初めての出来事だった。

 

 ……そうして今回も、似たような状況だなと考えていたときである。

 彼を助け出したのは、赤錆色の髪をした年端もいかない少女だった。陽射しをたっぷりと浴びてできた頬のそばかすを少年たちに馬鹿にされながらも、少女は必死に守ってくれていた。


 ──もう、こんな浜辺に来たらダメだよ。わかった?


 解放された彼を優しく撫でた少女は、とても可愛らしい笑顔をしていた。

 こんな人間もいるのだと、水神は少女に興味を抱いた。

 水中に長らくいるのもつまらないと、その日を境に、彼は頻繁に少女の前に姿を現した。

 時には海の青いイルカ、時には泉の青い魚、時には空の青い鳥となり、少女のそばへ訪れた。

 少女は何かを感じとっていたのかもしれない。頻繁に現れ出した青い生き物について思うところがあったのだろう。少女は不思議に思いながらも青い系統の生き物が現れたとき、面白そうに受け入れていた。


「人間の生きる時はほんのひと握りだというのに、彼らのいない世界で生きるくらいなら、君は死を選択するんだね、セラ」


 この胸が熱くなる感覚はなんなのだろう。

 ──悲しいのか?

 水神である自分が、ただひとりの人間の娘が死んだだけで、胸を痛めているというのだろうか。


「僕は、ゆるさないからね」


 君の心が、魂が、無くなるのはゆるさない。


「彼が君を手放して、君が自分の命を投げ捨てたなら、このあとは僕の好きにしたって、構わないはずだよね?」


 だって僕は、皆に崇められる水神様だから。


「僕は君たちの運命(さだめ)の行方を見たいんだ。いいよね、だから……君の魂は水に溶かしてあげない」


 代わりに、君たちがまた巡り合える可能性を残して、水神の糸で繋げてあげる。


「あらら、やっぱり少し絡まっちゃうか」


 水神の糸はふたりの心を繋いだ。

 けれど、ところどころ絡まっている。


 それは水神でもほどくことができなかった。いわゆるこれは、運命に立ちはだかる障害とでもいうやつなのだ。

 彼らにとって立ちふさがる大きな壁でも、神にとってはただの糸の絡まりにしか見えない。


「さて、僕は君の行く末を見守るよ」


 彼女が生まれ変わるのは、一体いつになるのだろう。それは神にもわからない。

 十年、二十年、それとも数百年後? もしくは数千年とかかるのかもしれない。

 彼女の新たな誕生を待たずして魔王の寿命が尽きれば、水神の糸はそこで途切れる。

 けれど、彼らの心が互いを求め続けているのなら、必ず巡り合える水神の糸。


「ねぇ、セラ。僕は楽しみにしてるよ」


 君がまた、この世界に生まれてくることを。


 水の神がはじめて好いた、人間の娘、セラ。

 彼女は神の歪んだきまぐれ(好意)により、前世の心を持って生まれ変わった。


 セルイラ・アルスターとして。



『アオ! 今日もご飯貰ってきたよ』


 生まれ変わった彼女は、相変わらず動物に優しかった。

 青い鳥に擬態する彼は、王城の書庫に通うセルイラをずっと見守っていた。

 ──そう、ずっと。


 セルイラは一度、命を落としかけたときがある。

 彼女が赤子の頃、貴族であった両親とともに土砂崩れに巻き込まれたのである。

 両親は土砂に埋もれて助からなかった。

 川に流されたセルイラは、水神の加護によって岸辺へと運ばれ奇跡的に助かったのだ。

 救助した誰もが不思議に感じていた。なぜ首が座ったばかりでしかない赤ん坊が、岸までたどり着けたのだろうか。

 誰も真相はわからないまま、セルイラはアルスター伯爵の長女として引き取られることとなった。

 

 それから早くも十数年。セルイラは誰もが羨む麗人へと成長を遂げた。

 なんの不便もない生活、また容姿に恵まれながらも、セルイラが心の底から笑ったことはない。


 その理由はセルイラ以上に、彼も知っていた。


『──未練がましいって、あなたは笑うのかしら』


 誰も訪れない第四資料庫の中。セルイラは問いかけるように言葉を発する。

 

『…………200年後のわたしは、本当に空っぽなのね』


 前世に縛られた自分を卑下するセルイラ。彼女の心がいつまでたっても満たされない。

『アオ』としてそばにいた彼は、今も苦しみ続けるセルイラの姿を目にして、やっと自分の本心に気がついた。


 ──セルイラ(セラ)、僕はただ、君に心から幸せになって欲しい。


 それが人間の娘に恋心を抱いた、水神のきまぐれ(願い)だった。





ありがとうございました!

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