第九話 兄さんさえいればいい
8月12日、この日に起きた美しき兄弟愛の話を綴ろう。
昨日こしのりと別れてからというもの、丑光は心に悶々としたものを抱えていたのだが、それを忘れるために趣味のゲームやアニメや漫画などに手を出せば、彼は虚構の世界にはすっかり没入して現実での柵の一切を忘れることに成功していた。
彼は現実に虚構を重ねることをしたりしなかったりするが、虚構の世界に現実を持ち込むという行為は、その作られた世界の紡ぎ手に対して失礼であるし、なにより自分の趣味をフルに楽しむためにも絶対にしなかった。そう、彼はいつだって本気と書いてマジで生きている。趣味一つとってもそうである。
そういう性質である丑光は趣味の世界に走ればその間は現実でのあれこれを忘れてしまう。だから彼に生活のストレスがあったとしても簡単にリセットが出来るのだ。彼のように世間のあらゆる柵をも凌駕する趣味があれば、世に広まる欝病や自殺志願者だって減るかもしれない。
丑光はその日の朝には大福を食いながらこしのりのことが気になっていたのだが、それ以降は趣味の世界に没頭して過し、気づけば17時になっていた。
17時になるとポイズンマムシシティには17時の合図のサイレンが鳴り響く。これはお昼の12時にも鳴る。
「南無三、趣味の世界にはまり過ぎて時間を忘れていた! 昼飯を食ったら回覧板を次に回せってお母さんに頼まれたのに昼飯を食うのも忘れてこの素敵に面白いアニメ『義妹クイーン』を一気見していた。それにしても妹って良いな。僕には兄さんしかいないからね、一体妹って奴はどんな感じなのかな。ああ、そういえば腹が減っているぞ。この空腹は何とかしなければいけない。空腹、それはこの世で一番の恐怖だ」
彼は小学校の時に枯れ井戸に落ち、救出されるまで半日程暗く狭い空間に閉じ込められたという過去を持っていた。彼は腹ペコの状態で金を握り、トラックで移動する焼き芋屋を目指している途中で井戸に落ちた。腹ペコのまましばらく井戸に閉じ込めらた彼は心細いとか結構この中臭いとかよりも腹が減ってつらいという思いが一番強く沸き起こった。そういう訳で彼は餓えること=恐怖と理解しているのである。なお、丑光が枯れ井戸に落ちた当時に流行っていたゲームに井戸と縁あるキャラクターが登場したので、それにちなんで彼は学校でしばらく「枯れ井戸魔人」とあだ名された。
コンコン
「おい丑光ちょっといいか」
親しき仲にも礼儀を示し、丑光の部屋をちゃんとノックするこの男は丑光の兄の馬男である。馬男は20歳の青年で未だにお年玉を貰っていると前にどこかで紹介したかもしれない。
「あ、兄さんかい どうぞ」
「おいおい丑光、お前が一日お楽しみなのを邪魔すると悪いと思って兄ちゃんが回覧板を次に回しといたからな」
「ありがとう兄さん、兄さんはやはり出来る日本男児だね。兄さんみたいに誠実な人で世の中が満たされればきっと汚職の無いクリーンな社会が形成されるのに、と僕は汚職関連のニュースを見る度に思うよ」
「いやいや、お前は本当に兄ちゃんを高く買ってくれるね」
「兄さん、こいつは掛け値無しの評価さ。僕はさっきまで義妹を愛でるアニメを見ていて妹もいいねって思っていたんだけど、兄さん程良い兄さんが一人いればそんな贅沢なことを考える気にならなくなったよ。それで兄さん、何の用だい」
「いやちょっとお前に話があってね。でもそれよりお前はすっかり腹が減ってるだろうと思って弁当を買ってきてるよ。下で一緒に食おうぜ。兄ちゃんの用はそれからだ」
馬男はとても弟想いのシャイで気さくな良い奴で周りからとても好かれる人物であった。私も馬男のような人物は大好きである。
今日は両親の帰りが遅いため、晩飯は馬男が弁当を買ってくることになっていた。馬男の買ってきた弁当は丑光が大好きなトンカツ弁当であった。何を隠そう幼き頃に丑光が枯れ井戸から救出されて最初に食ったのもまたトンカツであった。丑光にとってトンカツは特別な思い出がある食べ物であった。
「ああ、美味しかったな。コイツは空きっ腹にすこぶるご機嫌だね。兄さんありがとう。ご馳走様」
「お前は相変わらず美味そうに食うよな」
「ははっ、そりゃあ本当に美味いからさ。美味いって想いは演出するでもなく隠すでもなく気づけば表情に出ているものさ。さぁ兄さんもお茶を一杯飲みなよ」
丑光は馬男の湯飲みにお茶を注ぐ。
「それでだ、丑光。腹も出来た所で本題だよ。兄ちゃんの話を聞いてくれるな」
「他でもない兄さんの言う事さ、犯罪行為のお誘いでもない限りは何でも聞こうじゃないか。ささ、遠慮無く言いなよ」
「実はな兄ちゃん……」
馬男はここで二秒程黙る。今まで飄々とした態度であった丑光もここで言葉に詰まる兄を見てただ事じゃないとわかり唾をごくりと飲み込んで馬男の次の言葉を待つ。
「実は兄ちゃんな、守りたい人が出来たんだ。結婚するんだよ」
「へっ……」
丑光は思わず手にしていた箸を落としてしまう。
「母さんと父さんにはまだ言ってない。弟のお前に一番に言いたかったんだ」
「はぁ……・こいつは寝耳に水だな。満腹で眠たかったのにばっちり目が覚めちまったよ……」
丑光は兄の急すぎる告白に驚いてしまっている。馬男と丑光は5つも歳が離れているのに二人はとても仲が良く、小さいからいつも一緒に遊んでいた。丑光にとって馬男は兄であり何でも話せる頼れる友人でもあった。丑光は結婚するという事について、とにかく人生の大きな一歩を踏み出すことで、一つ大人になるという行為なんだという具合に漠然としか理解していなかった。自分が子供の時からずっと一緒だった馬男が結婚して大人になり、遠い存在になってしまうということに丑光はどうしようもなく寂しさを感じた。しかし、それと同時にもうひとつ確かに浮かんだ感情を彼はゆっくりと口にした。
「おめでとう。兄さん」
兄に対する寂しさと祝福の想い、そして少し遅れてこみ上げて来る先程のトンカツの美味さへの感動、それぞれ異なる3つの想いが入り混じり丑光の目から涙を流れさせた。
「ありがとう。丑光」