第三十一話 頑なな僕の意志は嗅覚から折れていく
根岸夫人の言いつけで、メイドの土上が追加の具材を乗せた大きな荷車を庭まで押して来た。追加の具材の詳しい種類はわからないが、とにかく大きなエビ、大きな貝、大きな肉などがあった。上下二段に分かれた荷台の下段には水を汲んだバケツと消火器も乗っていた。
「うわぁ、こいつは豪華だなぁ。これじゃ僕達の持ってきた食材がまるで犬の餌だね」追加の具材に目を向けてから口内の水分が溢れるのを止められないままに丑光が言った。
「美味そうなのは良いけども、この貝や肉はでかすぎてコイツじゃ焼けないぜ」相棒の七輪を親しげにコイツ呼ばわりするのは我らがミニスカ侍こしのりである。
「でしたら奥様、いっそのことバーベキューセットを出してはいかがでしょうか」アウトドアもいける優秀なメイド土上がそう言う。
「そうですね。せっかくだしその用意もして、こしのりさん達には晩御飯も食べて頂きましょう」
「はい、奥様。それではすぐに準備に取り掛かります」
土上はすぐにバーベキューの準備を始めた。
「奥さん、僕は益々この家が好きになりましたよ。財布を届けるという親切を怠らなくて本当に良かったと思っています」ちょっと前にケーキを鱈腹食っておきながら、もう次を受け入れる準備が整った丑光は目を輝かせながらそう言った。
「え~と、ターゲットの部屋はあれだな。お誂え向きに窓が少し開いてやがる。さぁこの香ばしい風をとくと吸い込むが良い」丑光が認定した団扇扇ぎの名手こしのりは根岸少年の部屋窓向けておいしい風を送り込んだ。奇しくも先日指先から微風を放つという能力に目覚めた彼が、団扇を用いることで風を操っているのはなんとも運命的ではないか。
こしのりが風を送り込んで程なくして窓から人の顔が見えた。さすがこしのり、見事風を操り根岸少年の嗅覚への干渉に成功したようである。
「なんだ、この上手そうな匂いは。ああ、さっきのスカート野郎だ」
「ワンワン!」根岸少年の愛犬ドミニオンも良い匂いに誘われ窓に手をかけて顔を出した。
「やや、あそこに見えるは噂の引きこもり少年だね。ちょっと遠くてしっかり顔が見えないな。さぁ彼を引っ張り出すまであとちょっとだ。こしのり、もっと風を送ってやりたまえよ」
「へへ、言われるまでもねぇ」
こしのりは腕のしなりを利かせてパタパタと扇ぐ。
「わわ、なんて香ばしい匂いなんだ。こんなのを鼻にもらえば口の硬い犯人も忽ち口を割ってしまうぜ。それにしてもなんだあの丸くて小さいバーベキューセットは」根岸少年は七輪を知らなかった。
「ワンワン!」ドミニオンはご機嫌に尾を振りご馳走が食いたくてたまらない顔をしている。
「なんだ、お前。庭に出たいのか」
根岸少年は部屋の扉を開けてやった。するとすぐにドミニオンは部屋を出て、おいしい匂いの出所目掛けて駆けていった。
仕事が速いのに定評のある土上は、こしのりの七輪の横に既にバーベキュー道具をセットしてエビやら貝やらを焼き始めている。
「ああ!あれは、俺の好きなグルメベスト10が一つ、オマールエビ!」根岸少年はオマールエビが大好き。ベスト10の残り九つについては縁があればどこかで公開しよう。
彼がオマールエビに反応して唾をごくりと飲んだ時、網でオマールエビを焼く土上と目が合った。土上はわかりやすく顔全体では笑わないものの、彼には目でのみにやりと笑ったように見えた。まるで目で合図を出して誘ってでもいるようだ。根岸少年は視力1.5で二階からでも土上のことが良く見えていた。空腹から彼の腹が鳴った。
窓の下に立った彼の母が「さあ、あなたも降りて来て一緒に頂きましょう」と言った。
「お~い根岸く~ん、早く降りてきなよ。でないとこの『南小の給食荒らし』が網の上を荒らしちゃうよ」そう言った丑光は、小学校時代に自分のクラスはもちろん、他のクラスまで渡り歩いて給食の残りを喰らっていたことで『南小の給食荒らし』の名を取った。生徒間でどう思われていたかは知らないが、給食センターの方々は丑光の活躍で残飯が出ないのをありがたく思っていた。
「何を言ってるんだ、あのスカートは。ていうか誰だ」根岸少年が言う。さあ下に降りたものかどうか、彼は少しの間悩んだ。なんせスカートを穿いた見知らぬ奴が二人いたからだ。彼が考えを巡らすその間にもこしのりは開いた窓目掛けてどんどんおいしい風を送り届けていた。