信仰心
女性神官視点です。
恨めしげに虚空を睨んだまま、盗賊の男は息絶えていた。
呼吸が荒い。
体の震えが止まらない。
人間を殺したのは初めてだった。
神官見習いとして修行を積んできた。下級の魔物であれば、冒険者たちの支援という形で討伐したことも何回かある。
しかし刃物を振るい命あるもの、それも人間を殺すなど考えたこともなかった。
「貴女はまだまだ世界というものを知らなすぎます」
「はーい。もう神官長さま、私だってわかってますよ!」
神官長さまの言葉が思い返される。
わかっているつもりだった。
でも、わかっていなかった。
私の「わかっている」は、知識として知っているということ。
神官長さまが伝えたかったのは、現実、体験としての理解。
私は盗賊というものを知っていても、理解していなかった。
人間の欲望の醜さを知っていても、理解していなかった。
人間の愚かさを知っていても、理解していなかった。
体の震えが止まらない。
「女神クシュニディアよ、どうかお救いを……」
両膝を地面につき、頭を下げて女神に祈りをささげる。
救いがほしかった。
この身を汚されたことにも、盗賊を殺したことにも、自身の愚かさゆえにこの状況を招いたことにも、何か、何か意味がほしかった。
そうでなければ救われない。耐えられない。
震えながら女神に祈りをささげる。
不意に、ぺたり、と足音がした。
はっとして顔を上げると、一人の裸の幼子がすぐそばで私のことを見つめていた。
「おねーしゃん、だぇ?」
「おねーしゃん、だぇ?」
幼子は私が答えないことを不思議に思っているのか、小首をかしげるようにして、再び問いを発した。
はじめは盗賊の仲間がいたかと思って心臓が口から飛び出そうになったが、少しずつ治まってきている。
「あ、あ、私……私は、フィルナ……よ。あなたは?」
搾り出すようにして、自分の名を告げる。そうして返すように問いかけた名前に、幼子は不思議な反応を示した。
「ボク? ぼぅや」
「え?」
私の反応が不思議だったのか、幼子は首をかしげる。
「ぼぅや。……おぃ。がき。おまぇ」
「あ……」
わかった。この子は、自分への呼びかけを名前だと思っているのだ。
名前を持っていないのでは?
その疑念にとらわれつつ見つめていると、幼子はきょろきょろと周囲を見渡し、やがて、私が殺した男の死体をじっと見つめ、それから私に振り返った。
「おねーしゃん、やっつけた?」
「え?」
幼子の指差す先に視線をやる。私が背後から刺し殺した男の死体。
「……え、ええ。そうね」
自分の行為が間違っていたとは思わない。しかし、再び体に震えが走るのを止められない。
「ん。ついてく」
「え?」
この幼子は先ほどから何を言ってるのだろう。震える体を抱きしめるようにして、その顔、黒目黒髪の随分と整ったかわいらしい顔つき、を見つめる。
「おかーしゃん、いってた。いつかこいつ、やっつけるひとがくるって。そしたら、そのひとについてけって」
「…………」
ああ。そうか。
私の中で、想像でしかないが、この幼子の身の上がどのようなものであるかが、おぼろげながらも輪郭を結ぶ。
「お、お母さんは?」
「しんじゃった」
「……お父さんは?」
「……おとーしゃん?」
その問いに、幼子はうーん、と首をひねり。
「しらにゃい」
あっさり考えることを放棄した。
やはりそうなのか。
この子は、私と同じようにさらわれてきた女性が、産み落とした子なのではなかろうか。
この子は何歳だろうか。おぼつかないが動き回れるようだし、会話もしっかりしている。
3,4歳だろうと見当をつけた。
それならば、この子の母親であった女性は、いったいどれだけの間、この場所で救いを求めていたのだろうか。
救いを求める日々の中でこの子を産む落とし、育て、最期はどのような思いでこの世を去ったのだろう。
運命を呪ったのだろうか。絶望したのだろうか。男たちへの憎しみだろうか。遺していくわが子への想いだろうか。
そして、その姿は私。ありえたかもしれない私のもうひとつの姿なのだ。
「おねーしゃん」
思考の泥沼の中にはまり込んでいた私を、その声が引き上げてくれた。
「ん、なあに」
「おねーしゃん、ありあとう」
…………ああ、女神よ。感謝いたします。
私の、この愚かさにも、意味があったのですね。
私の心は、魂は今、救われました。




