小説における物語の機能について考える
物語の作品上の機能についてずっと考えている。物語というのは、小説作品という形式を考える場合、どうしても必要なものではない。エンタメであれば必須であるが、筋のない、優れた小説は沢山ある。
何故小説というものには物語の機能が必要とされるのだろうか? (この場合、ドストエフスキーや漱石をイメージしている) …もちろん、読者を楽しませるため、では答えにならない。「そういうものだから」も答えにならない。
…ドストエフスキーの小説を想起してみる。罪と罰、悪霊、カラマーゾフの兄弟はドストエフスキーの五大作品の中でも成功作だと思うが、これらの作品は同じ特徴を持っている。(よく考えれば白痴もそうだ。未成年は読んでいない)
これらの作品ではまず何らかの事件が起こり、それが解消される。それは普通の事ではある。問題は、例えば、「罪と罰」などにおける主人公の自意識は、殺人行為という外化した現象として現れてしまうという事だ。この現象をめぐって、「他者」が現れる。つまり、殺人行為に至るまでは主人公の青年の内的描写で作品は成立するが、それが現実に外的なものとして現れてからは、他者がその行為を巡り、運動する。この時、主人公自身も、自分の犯した行為に大して、苦しめられたり、その意味を考えたりする。
人間の主観や自意識というものは元々、外側の行為に大して批評的に働くものである。例えば、僕が何かの意見を言う時、それはこの世の沢山の物事、過去の作品、自分の体験などを踏まえて、自分の意見を言う。これは批評的な行為である。しかしこれは行為ではない。…ただ、この僕の意見が世界に持ちだされて、それが他人が詮議するものとなった時、それは、批評が現実的な行為となったとみなしても良いだろう。この場合、現実的行為と僕が呼んでいるものは、主観的なものが外に押し出され、それを他者が審議し、相談し、否定したり肯定したりする…そのような現象だという事がわかる。
さて、罪と罰という作品を思い起こすと、最後はラスコーリニコフは自白して終わる。これは僕の考えでは、最初、個人の内面的自意識、モノローグだった、ラスコーリニコフ自身の存在、行為が、社会によって定義され、一つの意味を与えられるという事だ。つまり、罪と罰という作品では、非常に多様な自意識を持った個人が、殺人行為を行い、それは他者の関係性を呼びこむ。主人公は他者との関係の網目をたどり(特にソーニャ、ポルフィーリィ)、最終的にはもっとも巨大な他者である、社会による裁きを受ける事となる。社会による個人の判定とは、「法」に代表される。カラマーゾフの兄弟のラストが「法定」である事を思い起こしていただきたい。
人間の内面とは元々、自由なものである。普通、人は歌を歌う事から始める。つまり、モノローグ的な「詩」である。まずは世界に対する有様を把握し、過去の物事、歴史などを洞察し、それを理解する事から人は成長を始める。そもそもこういう点から物事をスタートしない人は多いが、そうした人は、批評的な観点を欠いている。つまりは、先に提出されたものを受け止め、それを昇華する過程で進歩があるのだが、そもそも過去を消化する気がない人間はひとりよがりな意見に終始する。もっとも、こういう意見も、ひとりよがりでありたい人にはありがたく受け入れられる。
人間の自意識は過去や出来事を見て、それを理解しようとする。その内に、自分の意見を持つようになる。やがて、それは、過去の誰彼を踏まえた、ある個性的な意見へと成長していく。個性とは過去の土壌から吸い上げられたもの…それによって構成された「私」というある統合体の事だ。「私」が独自な存在である事は、現在があらゆる過去を含むという点から可能な話だ。私は、過去を吸い上げ、一つにまとめ、それに対して個性的な見解を持ち出す。そこに個性があるが、それがまた世界に還されると、今度はそれは世界の中の事実となる。つまり、世界の中の無数の事実から、自らの意見を作り出したものは、その意見を発語し、表明する事により、その意見自体もまた、世界の中の無数の事実の一つになる。そういう円環がある。
この一つの意見、あるいはその人そのもの…は世界の中でさまざまに審議を受ける事だろう。「つまらない」「くだらない」「優れている」「よかった」…などなど。世界はこの意見を一つのふるいにかける。ここに「劇」の原型がある。こうして、この意見やその人は、世界の中で、審議にかけられ、やがてある決定的な意味を与えられる。社会が、そこに一つの意味を見出す。
もちろん、世界が常に正しい意味を見出す事など到底考えられそうにない。だから、ドストエフスキーやシェイクスピアの作品も、ニヒリズムの作家から見れば夢想的な、嘘くさい話に見えるのもやむない。実際、ドストエフスキーの「悪霊」はソ連では出版禁止になった。ソ連という国家の一個人、作品などに対する判定は、正しかったとは思えない。
この場合、問題を解決する方法はソ連という国家の外部の共同体が、「ソ連」という国家を判定する判定基準として正しくなければならない…という事になる。(ハムレットのラストは外国の王がつける事になっている。これは国内のあまりの混乱に対しては、その国以外の秩序でなければ解決できないという事なのだろう) ただ、これは話がややこしくなるので元に戻す。
さて、こうして見ると、ドストエフスキーやシェイクスピアもある理想的観点を取っているように見える。これは実際考えてみると、彼らがいかに大天才だったとしても、ソ連とか北朝鮮のような抑圧された社会ではああいう大芸術は作れなかっただろうと想像できる。つまり、彼らが社会を、個人を判定する基準として通用するものだと信じていたのは、彼ら自身、曲がりなりにも彼らが完全に排除されない世界にいたからだーーーと言えるかもしれない。(ドストエフスキーは死刑になって死にかかったが)
さて、物語の構成について哲学的に考えてみたが、一度整理してこの文章は終わる事にする。
まず、物語とはモノローグ的にスタートする。文学的に言えば、詩とか、内的な、主観的な一人称の文章だ。客観的な世界はまだ出てこない。客観的な世界を安々と描く今の若手作家がエンタメに流れるのは、そもそも彼らに書くべき事がないからだと思う。彼らは思想的な希薄さを物語の筋や、確定された「リアリズム」の思想で代用する。そもそも彼らに独自な意見、個性はほとんど存在しない(と思える)ので、既存の文学理論を当てはめる事で代用される。
さて、こうしてスタートした内的告白はそれ自体では物語にならない。それは客観物となって、世界の中を遊泳し、ある判定を受けなければならない。近代小説を作ったセルバンテス、現代の文学の最初となった(と思っている)ドストエフスキーの二人がいずれも、実生活では恐ろしくひどい目にあったという事では偶然ではないように思える。非常に優れた才能、大きな自意識を持つ個人は世界の中を通行し、自らの無力や非力を痛感すると共に、自分自身の巨大な力をも感じた…。彼らが世界の中を動いて、「痛い目」にあったという事は、彼らの物語性の根底に関わっている。
物語性とは、まず内的な告白としてスタートするが、それが客観的となって、次のステージに入る事になる。内的な告白を持つ独創的な個人は、社会の中である判定を受ける。それは賞賛かもしれず否定かもしれない。しかし、いずれにせよ、この個人は判定を受ける。その中で明確に現れるのが、「他者」である。「他者」は通常、主人公に対して、敵であったり、仲間であったりする。このように、世界全体が彼をどのように判定するかという事の、小さな模型として他者は運動する。しかしあくまで中心となるのは主人公だ。主人公にはまず個性がなければならず、その次に個性は他者との関わりの中で、客観的に浮き彫りにされる。
最期のパートでは、主人公は世界に判定される事となる。夏目漱石の「それから」でも、主人公の不倫行為は、社会からの判定を受ける事になる。秘めていたものが明るみに出る事で物語は終わる。罪と罰の最期もそうで、カラマーゾフの兄弟はもっとはっきりそうなっている。法定とは意味を一義的に確定する場で、ここで、人間の意味が確定される。人間の意味とは自意識の自由さから元々確定できないものであるが、それが他者を通じて最後に世界によって判定されるという事…その道筋として物語は存在する。今はそのように考えている。
今書いた事は物語というものに対するメモみたいなものだ。この文章はこれで終わりにする。ちなみに、村上春樹の小説が創りだすいわゆる、村上ワールドというのは構成的には非常によくできていると思う。ただ、それが過去の文豪に比べてどこかこじんまりとしているのは、村上が依拠し、そこからスタートして、そこに還ってくる場所が、八十年代的風俗、またはアメリカから輸入された表面的な文化に留まっているからだと思う。結局、村上春樹の主人公は女と「寝た」り、友達とビールを呑んだり、休日に本を読んだりしている他ない。村上ワールドはそこから出てそこに帰ってくる。それはある観点からすればいい気なもので、本格的な深淵を欠いている。村上春樹作品が非常に心地よくもどこか現実性がかけているのはそこに問題があるように思う。もっとも、他の作家は村上春樹以上に、今の社会に隷属的で、隷属的である事はリアリズムの名の元に正当化されるので、彼らはどこまでもペンを滑らせていける。
ただこんな事を言いながらも一体なにが隷属的で、何が隷属的でないのかという事は僕自身、よくわかっていない。今の技術ある若手作家が随分楽しそうに作品を積み上げているのを横目で見つつ、「ああはなりたくはない」と思いながらも、自分が何を課題としているかはまだはっきりとわかっていない。これに関してはまだ探求、研究が必要に感じている。