陰謀
エジプト遠征を翌日に控えたこの日、カンビュセラはペルセポリス大宮殿の地下にあるアフラムの部屋にいた。
部屋と言っても、ここは鍵を掛けていないだけの地下牢。
真昼でも数本の蝋燭の灯しか頼れる明かりの無い空間である。
当初は普通の宮殿内の部屋を用意していたのだが、アフラムは「仇の施しは受けない」と頑としてこれを受けなかった。
カンビュセラは自らの施しを断るアフラムの態度に怒りを見せるどころか、逆に好奇心を掻き立てられたらしく上機嫌になり、罪人の如く地下牢を彼の部屋に宛がることにした。
アフラムは石造りの床の上に横になっている。
カンビュセラがここへ来て、鉄格子を挟んでアフラムをしばらく見ていると、突然口を開く。
「ずっと横になっていては面白くありませんわ。昨日までは毎日のように妾に挑んできていましたのに。今日はまだですわよ。それとも、流石に限界ですか?」
尊大な態度で豪華な椅子に座って、まるで見世物でも見物しているかのようにしているカンビュセラに、アフラムは精一杯の殺気を籠めた眼差しを送る。
「うるせぇ。お前を殺すために、余計な体力は使わないようにしてんだよ」
今にも消えてしまいそうな弱々しい声。
それも無理はない。この数日間、アフラムは水以外何も口にしていないのだ。
空腹に耐えるのに必死で、カンビュセラの相手をしているどころではなかった。
「この状況でまだそんな戯言を言えるとは、妾の玩具として上出来です。このままあなたがどこまで頑張れるか見てみたいものですが、それはまたの機会に取っておきましょう」
そう言うとカンビュセラは鉄格子の中にパンを放り込んだ。
「あなたには明日のエジプト遠征に同行して、道中の妾の暇潰しをしてもらいますわ。しかし、足手まといになられては困りますからねえ。少しは食べて体力も戻してもらいます」
「けッ!誰がお前の思い通りになるか!」
パンを目にした瞬間、身体が空腹に耐え切れなくなって腹の虫が何度も悲鳴を上げるも、アフラムは両腕で腹を抱えて必死に堪えようとする。
それを眺めてカンビュセラは楽しそうに笑っているも、あまり長々と見ると流石に飽きてきたようだ。
「根性だけは立派ですわね。ですが、あなたのしている事は矛盾ばかりですわ。妾を殺すためにここまで来たというのに、そんな弱り切った身体で妾に挑んで勝てると思っているのですか?あなたが妾を本当に殺したいと思っているのなら、どんな恥も忍んで生にすがると思いますけど」
「なッ!何をッ!」
「違いますか?」
「・・・くそ!」
アフラムはパンを手に取ると、まるで獣のようにかぶり付いた。
世界最大の帝国の宮殿にあるパンだけあって、その味はアフラムが今まで食べてきたものとは比較にならないくらいの上等なものだった。
久しぶりの食糧にアフラムの目には思わず涙がこみ上げてくる。
その様を見てカンビュセラはクスリと笑った。
「あなたもそうして素直でいると、中々に可愛げもあるのですけどねえ」
「悪かったな。素直じゃなくて」
アフラムの言葉にカンビュセラは一瞬驚いた。
いつもの彼であれば、どんなに悪い口調でも謝るような言葉は決して言わなかったはずだ。
これは本人は無自覚だろうが、アフラムの心がカンビュセラに向かいつつある兆候に違いない。
空腹に耐えかねていたところに食糧を恵んでくれた相手には、たとえそれが誰だとしても多少は心も緩むというものだ。
そうカンビュセラは思った。
アフラムがパンを食べ終えた頃になって、カンビュセラが徐に口を開く。
「妾に家族を殺された時、どう思いました?」
「は?殺したお前がそれを聞くのかよ」
「妾の問いに答えなさい。それとも、またお仕置きを受けたいのですか?」
「チッ。そりゃ、すげー悲しくて、悔しかったよ。だからこうして、お前を殺しに来たんじゃねえか」
嫌々そうにしながらも答えるアフラム。
「理解できませんね。しょせんは取るに足らない地蟲。どれだけ死んだとしても、気にすることはないでしょう」
「な!お前、本当に人を何だと思ってやがるんだ!」
我慢ならずにアフラムは鉄格子を両手で掴んで、顔を打ち付ける。
そして食い入るようにカンビュセラを睨む。
「何って虫ですわ」
さらりと言い放つ。
これには流石のアフラムも呆れ返った。
「お前・・・」
怒鳴る気力も消え失せてしまう。
エジプト遠征を近日に控え、王都は各地から集まった兵士で慌ただしくしている。
その王都の、とある貴族の邸。
そこの薄暗い室内では、小さな声で会話がなされていた。
「カンビュセラはもうじきエジプトへ向かう。我々が帝国を掌握するなら、この好機を置いて他にないでしょう」
「そうですな。いよいよ殿下があの女王に成り代わり、ペルシアを正しい方向へと導く時です」
「うむ。私も遂に諸君等の苦労に報いることができるのだな」
殿下と呼ばれた若い青年が、目を閉じて感慨深そうに言う。
「殿下が即位された暁には、あの憎きカンビュセラめが廃止したナウル祝祭の再興をお願いいたしますぞ」
そう言ったのは、カンビュセラのナウル祝祭廃止に唯一反対した神官のガウマタだった。
「無論だ。約束は守る。それに他の者にもペルシアの要職の地位を与える」
彼等はカンビュセラの専横を打ち倒して新政権を発足しようと目論む一派。
しかし、彼等は新政権を打ち立てるという目的については共通しているものの、その理由についてはバラバラだった。
国を憂いての者もいれば、私利私欲のためにこのクーデター一派に与している者も多い。
「いいか。我々が立たねば、帝国はあの女の私物と化し、民は偽りの平和の中で飼い殺しにされ続けることになる。それを打破するためにも我等に失敗は許されない。その事を肝に銘じてくれ」
殿下と呼ばれる青年は、まるで自分自身に言い聞かせるように告げる。
青年の言葉に反応して、皆は「はい!」と気を引き締めて返事をした。
数日後、王都ペルセポリスに集結した10万ものペルシア兵は、諸王の王カンビュセラ指揮の下、エジプトに向けて出立する。
軍隊が進みやすいように整備された「王の道」を通るこの大軍勢は、正に世界をも呑み込むぐらいの迫力を見せた。
カンビュセラは、この大軍勢のほぼ中間辺りにいる。
2頭の馬に引かれた戦車の上に乗って、その赤い長髪を風になびかせていた。
そしてその後ろには手枷を嵌められて、枷の先と戦車を繋ぐ鎖によってぐいぐい引っ張られながら歩かされているアフラムの姿がある。
カンビュセラは不意に後ろに振り向いてアフラムの顔を見た。
「きびきび歩きなさい!それとも、もう疲れたのかしら?戦闘民族ワルフラン族も大したことありませんわね」
「な!馬鹿にするんじゃねえ!このぐらいどうってことねえよ!」
アフラムは精一杯強がり、力に限りカンビュセラを睨み付けた。
「そうですか。まあ、精々頑張って下さい!」
その血気盛んな顔を見て、楽しそうにカンビュセラは顔を戻して前を見る。
カンビュセラがエジプト遠征に出て、王都ペルセポリスの統治を任されたのはカンビュセラの弟のスメルディスだった。
スメルディスは実績・人望共に豊かで、カンビュセラの優秀な部下1人となっている。
しかし、その彼の下に神官のガウマタが訪れた。
「殿下、カンビュセラは王都を去りました。今こそ我等が兵を挙げる好機です!」
このスメルディスこそガウマタ等が新政権の王にしようとしている殿下と呼ばれていた青年である。
カンビュセラのいない今、街の統治を任されたスメルディスの行動を阻むものは何もない。
しかし、ガウマタと違ってスメルディスは慎重であった。
「いや。まだだ。姉上がもっと遠くへと離れるまで待つのだ。それに我等には用意せねばならんことが山ほどある」
「そうですな。神官の中にはナウル祝祭廃止を初め、カンビュセラの専横に怒りを燃やす者は大勢います。密告を避けるために同志は必要最低限に留めていますが、殿下が玉座を手になされた暁には帝国中の神官が殿下を正統な王と認めることでしょう」
「期待しよう。お前たち神官の支持さえあれば、民衆も私が王になることを認めるだろう」
この広大な帝国の支配者になるには、最終的にはカンビュセラを倒さねばならない。
しかし、真っ向から挑んでもカンビュセラに勝てないことは弟のスメルディスはよく理解していた。
彼自身も強力な魔法を使える実力者だが、カンビュセラと比べると遠く及ばない。
だからこそ、スメルディスは万全の態勢でカンビュセラを迎え撃てるように準備をしておきたかった。
エジプト遠征のために大勢の兵士が各地から集まったこともあって、少し前まで王都はとても騒がしい状態が続いていた。
その間であれば、スメルディス直属の傭兵集団をペルセポリスに呼び集めても、武器を運び込んでも、誰1人として気に留める者などいない。
これによってスメルディスは何の問題もなくクーデターに必要となるものを王都に取り揃えることができたのだ。あと必要になるのは、一斉蜂起後に王都を速やかに掌握できるよう集めた傭兵達に作戦を徹底して叩き込むこととクーデターを円滑に運ぶために必要な同志を集めること。
カンビュセラがいない今なら、積極的に仲間を募っても多少なら密告の心配もない。
クーデターと言っても、何も王都の中で市街戦をやる必要はない。
王都の主要施設を武力で抑え、反対者を一斉に確保するだけ。
ペルセポリスの統治を任されたスメルディスになら別に難しい話ではない。本当に問題になるのは、その後だ。クーデターの報を聞きつけて引き返してきたカンビュセラをどう倒すか。
このクーデターが成功するかどうかはカンビュセラ1人の出方1つで大きく左右される。
「姉上が本気を出せば、このペルセポリスごと我等を焼き払うことなど朝飯前。そんな暴挙に出るほど愚かとは思えんが。とにかく何をするか分からん女だ。出来る限りの準備をしておこう」