俺の逃避行
鏡の世界から青い瞳で俺を見つめる少女がいた。震える手を上げると、心地よい肌触りと共に、栗色の髪が指に絡まる。
違う、俺の髪はこんなに長く綺麗ではない。鏡の少女と血を流し倒れる『俺』を交互に見渡す。
衝動的に髪を両手で握りしめ、引っ張ってみると当然頭皮に激痛が走った。
これって、俺が人形に……違う。違う違う違う! これは何かの悪い夢だ。
「うあああぁぁ!ああああ!」
悪夢を振り払うように、髪を毟り取ろうと腕を振り回す。
くっそ、すごく痛い。やっぱりこれは夢ではないのだろうか。
「君、ちょっと落ち着きなさい。お兄さんたちは君を助けに来たんだよ。もう大丈夫。大丈夫だからね」
何が大丈夫なものか。俺が、俺が刺されて血が出て、死にそうなんだぞ。それに、俺の体が人形になってるし訳が分からない。
とにかく『俺』から離れてはいけないという謎の危機感から、警官の腕から逃れようと暴れるが、どうにも体が思うように動かない。まるで初めて体を動かすような感覚だ。少し暴れただけなのに疲れてしまい、手足から力が抜けていく。
「可哀想に。怖い目にあったんだね」
俺が大人しくなったのを、落ち着いたと勘違いした警官が、優しく背中をポンポンと撫でる。
「ぁぁ……ぁぅ……」
違うのだと、言葉を発しようとしたが、なぜか俺の喉はうまく機能せず、嗚咽のような小さな呻きしか出てこなかった。
◇◇◇
救助隊員に引き渡された俺は毛布を羽織らされ、かたかたと震えていた。はたから見たら恐怖に震えの少女に見えるのかもしれない。この体は異常なまでに寒さに弱く、四月の、それも深夜の冷たさに体温を奪われるばかりだった。
体温調節だけでなはい。校舎から出る際に救助隊員に付き添われながら歩こうとしたのだが、二歩目で膝から崩れ落ちてしまった。その時打ち付けた鼻先がいまだ痛む。大きな動作は出来るのだが、『歩く』等の技術を必要とする動作がぎこちないのだ。
なので救助隊員に抱えられて外に出ることになってしまった。今、こうやって救助隊員の裾を掴んで、自身を支えながら立っているのさえしんどい。声も出ることには出るのだが、『喋る』ということができない。今のところ『あいうえお』と、母音は発音できるのだが、か行から無理だ。舌がうまく回らず、結局『あいうえお』になってしまう。
指先も思うように動かないし、文字を書いて意志を伝えるのも難しそうだ。
視力も悪く、数メートル先は靄がかかったように霞んで見える。周囲の状況を把握したくとも、俺の肩に手をまわして支えてくれる救助隊員しか見えない。
「安心して休んでいいんだよ。ほら座った方が楽になるよ」
救助隊員はそう勧めるが、俺は首を振って否定する。このまま腰を落としてしまったら、二度と動けないではないかと不安なのだ。それ程、今動かしている体は不安定で、違和感と危機感しか感じない。いつ、糸が切れたように動かなくなっても不思議ではないと思えてしまう。
しばらくすると、俺が来た方角から数名の慌ただしい足音が聞こえた。振り返ると、担架に乗せられて運ばれる『俺』が見えた。
「……ぁぁ」
無事を確かめるため駆け寄ろうと足を向けるが、俺より早く駆けつける影があった。
「ちょっと、ここは立ち入り禁止ですよ!」
「うるさい! 私はこの子の母親よ!」
警官に羽交い絞めにされ、大声を上げているのは紛れもなく俺の母さんだった。この隙にとばかりに、『俺』を乗せた担架は母さんの脇を通り抜けて、救急車へと運ばれる。
しかし、相変わらず猪突猛進で男勝りな人だ。男の警官三人がかりでも押さえつけきれていない。それに、
「放せやゴラァ! 私は警察で、母親なんだから問題ないでしょ!」
そう、警察手帳片手に暴れるこの人は警察なのだ。けたたましいサイレンを鳴らし、発進する救急車を睨み付け罵声を浴びせている人物が警察であることに、日本の未来が危ぶまれる。
俺は父親を幼いころに亡くしており、それから一家の大黒柱となって家計を支えてきたのは母さんだった。
俺が道に外れたときは鉄拳制裁の名のもとに、ボロ雑巾のように蹴たぐり回し叱ってくれた母さん。酔いつぶれて家のガラス壊して回った母さん。家に押し入った強盗を、逆に半殺しにして過剰防衛で連行された母さん。家族水入らずのキャンプで、何故か無人島をチョイスして、俺を巻き込んだサバイバルを楽しんでいた母さん。
ろくな思い出がなかった。よく警官でいられるよなこの人。
「あなた、現場にいたんでしょ!」
俺がトラウマをフラッシュバックさせていると、体を強く揺さぶられた。いつの間にか母さんが警官を振り切り、俺の前に立ち両肩を掴んでいる。俺を真っ直ぐ見つめる瞳は、涙が、父さんが亡くって以来見たことがなかった涙が溢れていた。
「お願い! 何でもいいから犯人について教えて! あの子がいないとダメなの……私のたった一人の家族なの! 絶対に許さない! あの子を刺した奴を見つけて、腸をかき回して殺してやる!」
「……いぃっ!」
痛い痛い痛い痛い!
母さんの両手が万力のように締め付け、俺の肩を砕きにかかっている。俺ならともかく、こんな小さな子供に何てことしてるんだこの馬鹿は!
「何をやってるんですか! 離れなさい! この子は事件のショックでまともに言葉も喋れないんですよ!」
救助隊員が俺から母さんを引き離し、警察が俺を守るように間に割って入る。
「邪魔だあぁぁあ! 私は警察で今事情聴取しているだけでしょうが!」
「この子は精神的ショックでそれどころではないんですってば! 君、危ないから少し下がっていなさい!」
救助隊員も加わり、6人相手に乱闘を繰り広げる母さん。
なんか、もう、本当にうちの母がご迷惑をおかけして申し訳ありません。
俺はここで自分の身の振り方について考えてみる。
このままいけば俺は病院で精密検査を行われるだろう。その際、この体が人形と判明した場合、俺は一体どのような扱いを受けるのだろうか。
その先を想像して、俺は身震いする。絶対とは言い切れないが、悪い方に転ぶ確率が高いのではないだろうか。ありえないだろうが、病院で実験動物のようにされるかもしれない。慣れない体と事件のせいで心が弱りきり、全てから逃げ出したい衝動にかられる。
合理的ではない、幼稚な心理が俺の体を付け動かす。
注意が母さんに集中している今なら、ここから逃げきれそうだ。
俺は、確かめるように二歩、三歩と歩き出し近くの茂みに潜り込む。そこから手足で這いながら移動し、遅刻した時に利用する壁の穴から公道へと脱出する。
よし、体の動かし方を掴めてきた。
俺は羽織った毛布を口元に引き寄せ、前を見据える。視力も回復し、街灯に照らされたアスファルトの先までよく見える。
逃げる時には行先なんて決めていなかったが、俺を匿ってくれる奴に心当たりがあった。
恋窪恋次。あいつなら、俺の状況を正しく理解してくれるはずだ。
俺はおぼつかない足取りで、恋次が一人暮らしをしているアパートへと歩き出した。
◇◇◇
普通なら数分の道のりなのだが、今の俺には果てしなく長く感じられた。誰かに見つかればアウトだが、深夜ということもあり誰一人すれ違うことなく恋次の玄関前までたどり着くことができた。しかし、恋次の部屋から明かりは漏れていない。気持ちよく就寝しているのだろうが、遠慮なんてしていられない。
震える手を伸ばして、呼び鈴を連打すること数分。
「あの、今何時だと思って……」
眠気眼をこすりながら恋次が扉を開けて、俺を見下ろして言葉をつまらせる。
「え、あれ? 美術室の人形?」
混乱する恋次の脇を通り抜けて、部屋に入ると手の平サイズから等身大まで様々な少女の人形が所狭しと飾れていた。
そういえばコイツ、こんな趣味があったな。ダメだ。疲れすぎて思考が鈍くなって、何も考えられない。
適当なクッションにダイブすると、睡魔も同時に襲ってきた。恋次に色々事情を説明したかったが、眠気には勝てなかったよ。
「こ、これは夢? 人形を愛する僕の妄念が見せた幻? いや、幻想だろとかまわない。つまり、巻きますか? 巻きませんか? ってことですよね!」
何訳の分からないことを言ってるんだコイツ。
そんなツッコミを最後に、俺の思考は泥のように沈んでいった。