サルトゥスの森1
フォルティスの外れアエテール大聖堂付近に広がる大森林がある。
サルトゥスの森と名付けられた森、そして其処にかつて存在したヘンの村があった。
神柱が降臨したとされる、その地は最早見る影もなく取り壊され。
森を切り開かれた草原には虫の鳴く音だけが鳴り響いている。
月の光が降り注ぐ深夜、何処かへと歩き続ける一つの人影があった。
外套を深く被った男は、縺れるような足取りで泥水を跳ねると空を見上げ。
月明かりに照らされるその肌は、蝋のように罅割れ血の気を失っている。
「“復活者”」
「死は叶わなかったようだな、ダム・ドゥルケ」
「“ヘレル・ベン・シャヘル”は私を殺せなかった。
とても優しい子……」
風によって舞い上がった外套の下から皮膚表面が蝋化した肉体が覗く。
男は不死族、吸血鬼族、その容貌の異質さから、どれとも異なる種族にみえた。
目の虹彩は白く染まり、眼孔の黒だけが浮き上がっている。
「来たようね」
「そのようだ」
薄暈けた光を纏う女が二人の前に姿を現す。エル・バト・ラヴァンの姿があった。
ラヴァンはその場に居る男の姿を見て少し驚いた表情を作り。
男に向かって語りかけた。
「南さん……生きてたんだ?」
「“彼”はもう死んだ」
南は一旦事象の地平面へと落とされ、情報の全てを転写された。
彼は異次元空間内で重力波の干渉による現象界への介入法を見つけ出し。
再びこの世界へと舞い戻ってきたのだ。
「いいよ、今度はその量子情報ごと粉々にしてあげる」
「このゲームをクリアするまでは諦めないよ」
「熱狂的だね。
でも、その台詞を聞くのはこれで十三回目」
ラヴァンの言葉に南の体が揺れると、その表情は緊迫したものに変わる。
異次元空間内で考えつつも避けようとしていた事実から逃れるように目を背ける。
「人間の意志が介入すれば確率的に未来は変わる筈だ」
「――ぷ、ぷふっ、あはっは、あははははっ!」
南の言葉にラヴァンが堪らないとばかりに吹き出すと腹を抱えて笑い出す。
「七回目の南さんが言ってたね。“不確定性原理”って言うんでしょ?
波動関数が何々で――」
「世界の運命は人間の手で変えていけるんだ」
「シュレディンガーの猫ちゃんの横に人間が立ったらどうなると思う?」
ラヴァンの言葉に南が反応するが言葉を返す事はない。
シュレディンガー実験は外系の引力を無視している事は余り知られていない。
何故なら僅かな引力の変化でも質量の小さな素粒子は影響を受けてしまう。
そして質量から生じる引力はどれだけ離れても0になる事はない。
素粒子の動きを予測するには全宇宙の運動質量を予め知る必要がある。
不確定性原理は、人類の観測機器ではその引力の影響を確定できないとする。
即ち運命を否定する“理論”には成り得ないのだ。
「人間の信じる“意識”も宇宙の公転運動から生み出された“幻想”に過ぎない」
「……」
「永劫回帰の宇宙の中で何度も同じ事を繰り返す。神の玩具。
まるでゲームのNPCみたい、“ここは フォルティスの まちです”なんてね。
あははははっ!」
「俺達は……」
「“泥人形じゃない”……でしょ☆
あはっ――あははははは!」
自分の言葉をラヴァンに先んじて予測され、南の言葉が詰まる。
無限に続くサイクリック宇宙は初期変数が同じである故に同じ運動を繰り返す。
さながら乱数シードが固定され同じ乱数しか出ないゲームのように。
宇宙が加速度的に膨張するのは質量の散逸による空間拡張の影響である。
重力の効果が弱まる事で広がって見えているだけに過ぎない。
何れ巨大なブラックホールによって質量は一点に収束し100穣年程で終結する。
しかし異次元に貼りついた彼女達“情報生命体”はその終焉すら回避できる。
「お前達は一体……悪魔なのか?」
「貴方達の主観なんてわからない。
まぁ、全ての根源である異次元を“低次元”って呼ぶ。
神経の図太さだけは尊敬出来るけど……」
南はバグエネミーの名前が16進数である事を割り出し、解析を終えていた。
その固有能力も、名称に近しい物であり研究を進めていたのだ。
「さて……攻撃の準備は終わったかな?」
南の手の平に用意されていた完全真球の回転を横目に見ながらラヴァンが呟く。
場の最小角を持たない完全な真球は抵抗を受けない。
その物理的な矛盾を回避する為に円周率は割り切れないようになっている。
これを重力波によって回転させる事により、運動量を無限に蓄積する事が出来る。
南が現実世界の“バグ”を突き、編み出した念動力の最終形態。
それが《念動終極波》――の筈であった。
「この世界はこの惑星だけで完結している。
精々利用できるのは、この惑星の自転運動程度。
だから数百年間蓄積する必要があった、という所かな?」
「神は賽を振らないのなら、俺は運命を受け入れよう。
例え人類の魂が宇宙の公転運動から生まれた。
電子雲の瞬きだったとしても……」
「ふーん、それで?」
「例え俺達が哀れな“泥人形”だとしても……」
ラヴァンは男の掌の上にある“何か”が月明かりに照らされているのを見た。
それは球形のようで透明で回転しているようにも見える。
周囲の景色が球体に沿って歪み始めると、一点に向かう集中線となった。
「この運命を超克してみせる」
放たれた念動波がラヴァンの肉体を包み込み。
男を中心点に現れた巨大な球体に包まれた森がプラズマ光を発し回転した。
▼
《念動終極波》
光が収束すると男の被った外套から顔が露になった。
真空膜に包み込む事で外環境への被害を抑制、回転エネルギーが球内で踊る。
この威力を実現するには、幾百年にも及ぶ研究を必要とした。
――しかしそれすらも想定の内にある。
《災厄の大渦》
「……ここまで力量差があるのか……」
「無傷!?」
南の諦念した言葉と共に球状に消滅した爆心地からラヴァンが姿を現す。
ドゥルケは信じがたい物を見た様子で言葉をあげるとラヴァンが彼女を横目に見た。
「まだ居たんだ? 貴女を消すとシャヘルが悲しむから……。
成るだけなら、どこかへ行って欲しいかな」
「一つだけ質問を良いかしら。
貴女は何故こんな事をするの?」
「わからない? 私の立場になって考えてみてよ」
始まっては終わり行く宇宙、何時までも同じ事が繰り返される輪廻世界。
同じ反応しか示さない其処に住む泥人形達。
この場にドゥルケが存在するのはシャヘルが彼女に影響を与えた結果である。
即ちシャヘルとラヴァン七人の情報生命体の内、この二名だけが記憶を持ち。
宇宙を変える変数として働きかける事を可能とする。
「太陽の光、私の掌、地面に落ちた影。
貴女達は異次元の世界から降注ぐ光に投影された“影”に過ぎない」
「……」
「この宇宙で知的生命体と呼べるのは“神の家”の扉を潜れる者だけ」
円盤に記録された映像のように繰り返される人類の営み。
そのような物にラヴァンが興味を持てる筈もなく、ただ同じ存在だけを愛した。
「地面に這い蹲って“影”にキスできる人なんて居ないでしょう?
あははははは!」
「くっ!」
《煉獄の炎》
身構えるドゥルケが襲い掛かるよりも早く指を翻すと彼女の体が炎が覆う。
煉獄の炎は彼女の肉体を灰にするまで、けして消える事はなく燃え続ける。
南は念動力を用いてドゥルケの肉体のみを転移させ辛うじてドゥルケを救出した。
「あれ? 意外だね。ドゥルケさん死にたがってたのに可哀想」
「ふ……“意外”か」
ラヴァンの言葉に不自然さを感じた南がほくそえむと、ラヴァンの表情が変わる。
「何が可笑しい」
「未来を知っているのなら、“意外”なんて言葉は出ないんじゃないかな?
つまり君の言う運命には穴があるんだ。そうだろ……?」
「……もう貴方と話す事はない《運命のダイス》を振りなさい」
「いや、俺は“振らない”……おっと、これも想定外だったかな?」
《恨みの一撃》
全てを言い切るまでもなく南の肉体は粉砕されると、蝋化した肉体が砕ける。
草原に血の滲んだ肉片が撒き散らされると《魂の幽閉》が発動する事無く消滅した。
南自身は異次元空間から重力波を用いて遠隔操作しているだけに過ぎない。
ある意味、情報生命体として進化の途上にあると言える。
「貴方が顔に汗を流して小麦を得る土に返るときまで。
貴方はそこから取られた土に――塵にすぎない貴方は塵に返る」
ラヴァンが手を下ろすと弾ける様に音を立て指輪が砕け散った。
攻撃を受けた際の生命力減算時に、割り込み処理を行い無効化する指輪。
南の攻撃の無効化には成功したが、耐久値を削りきられ破壊されてしまったようだ。
「前より丈夫に作ったのにな……」
《白い貌》は特定のアバターの姿を真似る“5AC959AC”の能力の一つだ。
ラヴァンは最後の指輪が破壊される前に元の少女の姿に戻る。
やがて指輪が閃光を放ち消えていくと少女は空を見上げた。
強力なプレイヤーのほとんどはこれで殲滅した事になる。
幾度も繰り返してきたサイクリック宇宙での帰結点、ここまでは予定通りの展開。
これからシャヘルとの楽しい生活が始まる。
そう思うと少女の心も晴れやかになった。
(今回は少し苦戦したかな?
でも、シャヘルを巻き込まずに済んでよかった)
この宇宙の運命の穴、それは確かに存在する。人類の持つ“利他性”である。
本能的に利益を求める利己的な生物は運命を覆す事は出来ない。
鉛筆に止まった天道虫は天上を目指して昇る、逆にすればまたそこを昇る。
利益を最大化することしか出来ない昆虫に運命を変える事は不可能。
社会的昆虫もまた、利益を最大化するだけのプログラムに過ぎないのだ。
ラヴァンは南がドゥルケを庇った結果が、蓋然的な変数になると予測する。
(ドゥルケをどうにかしないと……)
ラヴァンはその場で転移門を開くと、一旦フォルティスへと帰還した。
既に日は落ち薄暗くなった裏道を歩き、ウィンクルム商店の前で立ち止まる。
少女は扉から漏れ出る蝋燭の光に気付くと、鍵を開け静かに扉を開いた。
「ヘルるん?」
店内ではシャヘルが椅子に座り卓子の上に上半身を擡げ眠りに着いていた。
卓の上にはケーキが置かれ、実に絵心のない二人の姿が描かれている。
ラヴァンはそれを見て涙が零れそうになると、シャヘルの頬にキスをした。
「――大好きだよ」
少女は椅子に座り、彼女の眠りに着く姿を見守りながら、蝋燭の炎を眺めていた。




