王子の妃
―――――――ふう。
新緑の香りを含んだ風が柔らかく頬を撫ぜる。
美しく整えられた緑の絨毯から、すっと伸びたシランの木は、二階に設えられたテラスのすぐ側で色濃く茂り、枝葉に遊ぶ数羽の小鳥が、軽やかな鳴き声をあげていた。
頭上から注ぐ日差しは穏やかで、なんとも言えない眠気を誘う。
今、この国は一年のうちでもっとも過ごしやすい季節を迎えていた。
肌を焼かないようにと侍女が差し出した傘を断り、暖かな日の光を受けながら、テラスにもうけられたテーブルで、祖国から持ち込んだ書物を片手にお茶を楽しんでいた私は、シランの木陰から、寄り添うようにして姿を現した二人を見て、深いため息を零した。
白と淡いピンクのフリルがついた傘をさし、その少女趣味な傘とは裏腹に、体にぴったりとそった妖艶なドレスを身に纏った女性は、確かヴァーズ伯爵夫人だったか。夫である伯爵との不仲が囁かれて久しく、近頃では離縁も秒読みではと言われていたように記憶している。
未婚の頃はもとより、今でも社交界の花であるその美貌に、しっとりとした笑顔を浮かべて、隣を歩く男性に熱い眼差しを送っている。
夫人のレースの手袋に包まれた指先を、恭しく掌にのせ、彼女をエスコートしているのは、これまた人目を引く華やかな男性だ。
西国で産出される希少な宝石にも勝る緑の瞳に、豊穣の女神も羨む黄金色の豊かな髪を持ち、丈は高く、鍛えられた強靭な肉体を誇りながら、立ち居振る舞いはどこまでも優美。
この国の第一王子であり、誰もが認める次代の王であり、そして――――――私の夫でもあるシルヴェストル様、その人だった。
密やかな笑い声が耳に届く度に、棘が刺さったように、ちくちくと痛みを訴える胸。この棘を吐き出せたらどんなにか幸せだろう。
けれど、薄く開いた唇から零れるのは棘ではなく、ため息ばかり。
「姫様」
眼下の二人に気付いた侍女が、気遣わしげに声をかける。
その声に気付いたのか、くだんの二人がこちらを振り仰いだ。
さっと傘をさげて優雅に膝を折る夫人と、目を見開いて私を見詰める夫。
その表情に一縷の望みをかけるも、願いは虚しく散る。
夫はすぐになんでもないような笑顔になって、夫人の手をとっているのとは逆の腕を上げて振ってみせた。
夫は女性との逢瀬を私に隠そうともしない。
彼の側近や、この国の重鎮や、王もまた、そんな彼の振る舞いを容認していた。
私を気遣ってくれるのは故国からついてきてくれた侍女のマーシャただ一人………。
曇りのない笑顔に胸がずくりと疼く。
何故、そんな風に笑えるの?
貴方の隣に立つのは私ではなかったの?
輝くような夫の笑顔。
何よりも愛しいと思ったその顔を、他の人の手を取ったまま見せないで!
どろどろとした黒いものが胸に積もり、うねって私を苛む。
どうか、どうか、その手を払って、この手を取って。でないと私は………醜い感情に支配された、醜悪な生き物に成り果ててしまう。
狂ってしまえばいっそ楽なのかもしれない。けれど私は国を背負ってシルヴェストル様に嫁した身だ。己の浅ましい想いで、自国の民を危険にさらすわけにはいかない。
泣き喚き、ひどい言葉を紡いでしまいそうな唇をぐっと噛み締めると、私は軽く頭を下げて応えた。
暗い私の胸の内を知ってか知らずか、二人は私に背を向けると、また、より添って歩き出す。もう、私に会った事など忘れてしまったかのように……。
心地よい陽気に誘われてテラスでお茶などと、洒落込んだのがいけなかったのだ。あんな光景を見せられるぐらいなら、いつものように城の奥につくられた、自室に篭っていればよかった。
二人の姿をこれ以上目に入れないようにと、カップに入った琥珀色の液体をじっと見詰める。ぽつんと一滴雫が垂れて、美しい紋様がその表面に浮き上がった。
「惨めなものだな。ルシアンナ」
低くしわがれた声に、弾かれたように顔を上げる。
形だけとはいえ、第一王子の妃である私に、このように声をかける人物を私は一人しか知らない。
「オーベール様………」
呟いて、さっと立ち上がる。小柄な私とたいして変わらない目線。夫と同じ色をした瞳が冷たく私を見つめる。
「まだ、シルヴェストルを想っているのか。自分の姿を鏡でよく見てはどうだ? お前があの男に釣り合うわけがなかろう。さっさと諦めろ。馬鹿が」
王家に名を連ねるオーベール様。彼は、まだ私がシルヴェストルの婚約者であった頃から、何かと私に辛くあたった。しかし、婚姻を結びこの国に来てから、彼の辛辣さはひどく度を増したように思う。
「お前がお飾りの王太子妃である事など、端女まで知っておること。いや、このマクミラン国の全ての民に知れ渡っておるだろう」
低いしわがれた笑い声を立てながら、オーベール様は、嘗め回すように私の体に視線を走らせる。
シルヴェストル様と血のつながりがありながら、輝く明星のような彼とは全く違うオーベール様。内面を現したかのような暗い色の髪に、低い背丈。その艶のない声で名を呼ばれるだけで、ぞっとしてしまう。
俯いたまま応えずにいる私を、シルヴェストル様との唯一の類似点である緑の瞳で不躾に眺めながら、オーベール様はふんっと鼻をならした。
「シルヴェストルの事は諦めて、さっさと己に見合った男の元へ嫁せ。お前から申し立てればシルヴェストルは諸手を上げて願いを叶えるであろうよ。よもや引き止めて貰える……などと愚かなことは、いくらお前でも思っておらぬだろう?」
容赦のないオーベール様の言葉に目頭が熱くなる。涙を零さぬように、私は、ぐっとドレスを握り締めた。ボリュームのある布地は、震える手をオーベール様から隠してくれるはずだ。
「シルヴェストル様はお優しい方です。わっ、私の願いならば叶えてくださるでしょう。けれど、私はそのような事をお願い申し上げるつもりは毛頭ありません」
嗚咽を抑えた掠れた声で、吐き出すようにして告げれば、オーベール様は面白くなさそうに眉を潜めた。じっと睨みつけるように私を見て、口を開きかけた彼は、しかし、何も言葉を発することなく、くるりと踵を返す。
その背中が扉の向こうに消えたのを見届けてから、私は椅子に身を下ろした。
力の入れすぎで、ふるふると小刻みに揺れる指先を叱咤して、そっとカップを持ち上げて口をつける。すっかり冷め切ったお茶が、喉を通って、波立つ心を静めるように体の中へと染み込んでいった。
「姫様………」
マーシャが、困惑したような声をかけるが、私は応えない。
とても疲れた。
何故、こんな事になってしまったのだろう。
私はゆるゆると頭を振って、冷めたお茶を喉に流し込んだ。
我が国ホロックスとシルヴェストル様の国マクミランは国境を接する隣国だ。
私とシルヴェストル様の婚姻は、私が産まれ落ちたその日のうちに、決められた。
幼い頃から、シルヴェストル様と結婚するのだと周囲から聞かされて育った私は、彼との婚姻を当然の事のように思っていた。
幼い頃、シルヴェストル様は、国境を越えて度々ホロックスにいらしてくれた。
美しい花や絹、珍しい小鳥や、シルヴェストル様が手ずから織られたという野の花の首飾り。彼は顔をあわせるたびに様々な品を贈ってくれた。私を見つめる彼の瞳はいつも優しくて、素敵な王子様が出てくる絵本から抜け出たようなシルヴェストル様に、私は夢中になった。彼と結婚できる日を、まだかまだかと待ちわびて、彼に似合う淑女になるために、苦手な刺繍や歌も精一杯励んだ。
シルヴェストル様も憎からず思って下さっている。そう思っていたのに………。
この国にやってきてからというもの、シルヴェストル様は常に私と距離を置かれるようになった。
話しかければ変わらずに優しい笑顔を向けてくださるし、庭園の花が見頃を迎えれば、散策に誘って下さる。新緑が美しいからと、遠乗りに連れていって頂いた事もある。
邪険にされているわけではない。けれど、私は気付いてしまった。彼の優しさは義務からきているのだと。
思えば彼が私を見詰める瞳はいつも穏やかで、私はそれを、私のことを好いて下さっているからだと思っていた。今思えば思い上がりも甚だしい。
彼の目が穏やかなのは、私という個人に対して何の感情も持っていないからだ。マクミラン国の王太子として、隣国の姫である私を丁重に持て成しているに過ぎない。
そう、気付いたとき、私はそれでもいいと思った。彼の心が私にはなくとも、長くともにあればいつかは私を見てくださるかもしれないと。けれど、そのいつかは永遠にやってこないのではないだろうかと、不安でたまらない。彼の周りには、常に才色兼備の女性達が取り巻いている。大輪の花のように煌びやかな彼女達に比べて、自分は貧相で、やせっぽちで、取り立てた才もない。匂いたつような妖艶な美女を見慣れた彼が、どうして私のような小さな花に目を向けて下さるというのか。
その日の食事はまともに喉を通らなかった。大好物のホロ鳥のソテーが香ばしい香りを漂わせていても、ハビウム草を煮込んで丁寧に出汁をとったスープが温かな湯気を立てていても、全ての色があせて見えて、口に含んだ料理はまるで砂をかんでいるようだった。
味気ない独りきりの食事を済ませ、ハランの花が浮かべられた湯につかり、マーシャに髪を梳ってもらう。
三度の食事も、毎日使う湯も、とても贅沢な事だと知っている。滑るような肌触りの絹の寝巻きは王侯貴族しか着用できないものだ。私の生活は、この上なく恵まれている。この上、夫の愛を欲しがるのは傲慢なのだろう。
けど、贅沢な暮らしと、夫の愛。どちらか片方しか得られないのだとしたら、私は後者が欲しかった。
「姫様………。近頃、あまりお笑いになりませんね」
香油をつけた櫛で、私の髪をすきながら、マーシャは控えめに声をかけた。
「以前の姫様とは、まるで別人のようで………マーシャは心配です。どうか姫様、姫様の心のうちをマーシャにお話下さいませ」
幼い頃からずっと側にいたマーシャは、私にとって、侍女という枠を超えて、姉のような、時には母のような存在であった。
親族もいない異国にただ独りつき従って来てくれた。マーシャとて心細いはずなのに、自分の事は後回しで、いつも私のことを気にかけてくれる。
「そんな事はないわ。私は私よ。心配しないでマーシャ。何も心配することなんてないのよ」
でも、いつまでもマーシャに頼ってばかりでは駄目。私はもう、形だけとはいえシルヴェストル様の妻であり、立派なレディーなのだから。
「そう……でございますか?……」
鏡にうつるマーシャの横顔がどこか寂しそうに見えた。
明かりの落とされた部屋で、私は寝台に横になって、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
薄い月の明かりが、シランの木の葉を照らし、ぼんやりとその形を浮かび上がらせている。
ふいに、昼間見た光景が目の奥に甦って、私はぎゅっと瞼を閉じた。
シルヴェストル様の笑顔、ヴァーズ伯爵夫人のコ惑的な体のライン。寄り添う二人………。いくら、堅く目を閉じてみても、瞼に焼きついた光景は消えることなく私を苦しめる。
耐え切れなくて、水でも飲もうかと、体を起こした時だった。
カチリ
と、遠くで音がした。
毎夜毎夜、聞いてきた音。シルヴェストル様のお部屋の扉が開かれた音だ。
思わず息を殺して耳を済ませていると、パタンというドアが閉まる音についで静かに室内を歩く足音が聞こえる。
私は、そっと寝台からすべりおりると、ゆっくり、ゆっくりと、音を立てぬように部屋を移動し、シルヴェストル様のお部屋と、この部屋を隔てる壁へと近づいた。
白い壁にそっと手を押し当てる。
冷たい壁のざらりとした感触に、ほう………。とため息を落とした。
すぐ隣にいらっしゃるというのに、誰よりも遠い。
祖国にいた頃は、シルヴェストル様が自国にいらっしゃっても、こんなに遠く感じたことはなかったのに………。
つっと、視線が手をついた壁の、窓際に設けられたドアノブへと向いた。
あのノブが、くるりと回転する時を待ち続けて、もう幾度夜を数えたのだろうか。
シルヴェストル様がこの扉を越えて、私の元へいらした事は、まだ一度もない。
壁に手をついたまま、私は扉の前へと移動する。
指を伸ばして触れた金のドアノブは、私とシルヴェストル様の仲を表したかのようにひやりと冷たかった。
私が、このノブに触れるのは婚礼の夜以来の事だ。
あの日、宴席を中座して、花嫁の支度を整えた私は、寝台のうえでまんじりともせずにシルヴェストル様の訪れを待っていた。
ドキドキと胸の鼓動がうるさくて、隣の部屋の扉が開かれる音が聞こえたときは、心臓が飛び出るかと思ったほどだ。
けれど、ずるずると引きずるような足音がした後、ボスンという大きな物音が聞こえ、それきり隣室は静まり返ってしまった。
目を凝らして、ドアノブが回るのを待ち構えていたけれど、一向に扉が開かれる様子がない。
どうしよう、と私は枕を抱きしめて大いに迷った。花嫁から花婿の部屋へ夜の営みを果たしに入るなど、聞いた事もない。けれど、ひきずるよなあの足音が気に掛かった。
もしやシルヴェストル様は酒に酔われて倒れ込んでしまわれたのではないか。いや、酒によっただけなら、まだいい。ひょっとしたらお具合がよろしくないのかもしれない。
静かな隣の部屋に不安はどんどんと募っていき、私はついに、ドアノブへと手をかけてしまった。
暗い室内で、月明かりを頼りに大きな寝台に近寄ると、思ったとおり、シルヴェストル様は苦しげな表情で横たわっておられた。
そっと声をかけ、赤い頬に指先を添える。
熱い。
あまりの熱さにびっくりして、熱をはかるために、するすると滑らかな肌に指先を這わせ、額に掌を乗せる。
と、私の手の冷たさに驚いたのか、シルヴェストル様はびくっと体を揺らして目を開けた。
「姫……どうなさいました?」
驚いた顔でシルヴェストル様は私をみる。
かあ、と頬に熱が上がった。
「シルヴェストル様の様子が気になって。お熱がおありになるのではないのですか?」
「熱? いえ、ありませんが」
ふるふると首をふったシルヴェストル様は、ふっと何か思いついたように私の手に自分のそれを重ねた。
「ああ、やはり。私が熱いのではなくて、姫の手が冷たいのですよ。こんなに冷えて。眠れませんでしたか?」
シルヴェストル様は、大きな掌ですっぽりと私の手を包み込んだ。
暗い部屋の中でも、宝石のように輝く緑の瞳はいつも通り泣きたくなるほど優しく私を見詰めていて………私は言うべきではない言葉を発してしまったのだ。
シルヴェストル様は私など、必要となさっていないと思い知らされることになった言葉を。
けれど、その時の私は、どうしてもシルヴェストル様のお側から離れたくなくて、この温かい手を放したくなくて、もっと、その緑の瞳で私を見て欲しくて………。
「あ、あのっ! 朝まで……お、お側にいさせていただいても………よろしいでしょうか?」
言葉を紡ぐのがこんなに難しいと思ったことは今までなかった。
震える声で夜着を握り締めて、なんとか声を絞り出した私に、シルヴェストル様は、ふっと目を眇めて笑みを零された。
「いいよ。おいで」
上掛けをめくると、自身の体を滑り込ませ、ぽんぽんと隣に開けられた場所を叩いてみせる。
大好きな輝くような笑顔。
なんて思い切った事をしてしまったのだろう。
顔が熱い。頭がくらくらする。
「どうぞ」
動かない私に、シルヴェストル様は小首を傾げて促した。
柔らかいその声に誘われるように、私はよろけながら隣にその身を横たえた。
この先のことはおぼろげにしか知らない。
マーシャも誰も教えてくれなくて、書物の端々からかすかに読み取れる程度の知識しかなかった私は、ぎゅっと目を瞑ってその時を待った。
さらり、と繊細な指先が額の髪を払う感触がする。
「さあ、もうお休み」
――――――――え
思いもかけない言葉に、ぱちりと目を開くと、シルヴェストル様の唇が、額に落ちるところだった。
ちゅっと、音をたてて、額に口付けると、シルヴェストル様は、目を丸くしている私に、いつも通りの優しい笑顔を浮かべた。
「私も今日はさすがに疲れました。ゆっくり休みましょう。明日も忙しいですからね」
覚悟を決めていたのに、私はその言葉に、拍子抜けしてしまう。
でも、確かに明日は諸侯との顔合わせが待ち構えていて忙しいし、今日は馬車でのパレードと宴でとても疲れた。
私の体を気遣って下さっているのだと、その時の私は愚かにもシルヴェストル様の言葉を深く考えもせずに受け入れてしまったのだ。
長い睫の影が頬に落ちる。
すうと、寝息を立て始めたシルヴェストル様の隣で、私もまた瞼を閉じたのだった。
翌日の夜。私はシルヴェストル様が起こしになるのを待った。
けれど、あのドアノブが回る事はなかった。
その翌日の夜も。そのまた次の日の夜も。待って、待って、やがて待つことに疲れてしまって、もう待つのはやめた今でも、隣室の扉が開く音がすると、つい耳をそばだててしまう。
シルヴェストル様にあるのは王族としての義務だけ。
私のこの想いは、不要なもの………。
冷たいドアノブを握り締めて、私はぴたり扉に体を添わせた。
あれ以来、私からシルヴェストル様の元を訪れたこともない。怖かった。また優しく拒絶されるのが。
でも………望みがないというのなら、笑ってごまかさないで、きっぱりと告げて欲しい。
時に優しさは何よりも残酷な刃となって人を傷つけるものだ。
私は、ぎゅっノブを握る指に力をこめた。
ガチッ
―――――回らない。
ガチッガチッ
ぐっと力を込めて手首を捻るが、金のドアノブはほんの少し傾いただけでそれ以上の回転を拒む。
まさか………鍵をおかけになったのだろうか。
顔から血の気がさあっとひいた。
そこまで疎まれていたなんて。
私はふらふらと、幽鬼のような足取りで窓際に置かれた椅子の元へ近寄ると、ずるずるとそれを引きずって再び扉の前へと戻った。
椅子の背に爪を食い込ませて掴むと、渾身の力を腕に込めて振り上げる。
「シルヴェストル様のばかああああああ」
ドアノブめがけて振り上げた椅子は、しかし、その寸前に開かれた扉のせいで狙いを外し、床へと激突した。
メキョバキッ
椅子の足が折れる音。
椅子は床に最初に激突した一本の足を除いて無傷の姿で私の手の中にある。
さすがは王家御用達の高級品。頑丈だ。
「………ひ、ひめ?」
はあはあ、と息を吐きながら顔をあげる。
シルヴェストル様側の扉についているドアノブを握りながら、めいっぱい上体を反らして、椅子の一撃を辛くもお除けになったシルヴェストル様が、青ざめた顔で私を見ていた。
「これは、いったい」
信じられないといった顔で、壊れた椅子と、私を見比べるシルヴェストル様。
「ひっ、ひどいですわ。鍵をおかけになるなんて!! そ、そんなに私が邪魔ですか!?」
もう怖いだとか、悲しいなんて感情は胸の片隅で縮こまっていた。
今、私の胸をしめるのは、ただただ、激しい怒りのみである。
「い、いえ。これには、その、わけがありまして」
「どういうわけがあるっていうんですの! 私がここまでお慕いしているのに、毎日毎日別の女性をお連れになって………。一万歩譲って、私をそう見れないのは仕方ないとしても、夜を共にするのは王族としての勤めではありませんか!?」
胸の中に押し殺してきた、渦巻く思いを、吐き出す。
私はぎりりと椅子を握り締めてシルヴェストル様の顔を見上げた。
「え……………?」
こんな時でも美しいお顔が憎らしい。
首の後ろに手をやりながら、シルヴェストル様は困ったように私をみつめる。
そして――――――
何事かを考え込んでいらしたシルヴェストル様が、やや間をおいて口を開きかけたときだった。
「姫様ああああああ!! 今度は何事でございますか!?」
マーシャの雄叫びが廊下から響いてきた。
椅子は頑丈でも、どうやら防音対策はそれほどよくないらしい。
これは新婚夫婦の部屋としては由々しき問題よね。
ばたんと派手な音を立てて扉を開いて駆け込んできたマーシャは、私たちを、正確には私と、壊れた椅子を認めるやいなや、がくりと肩を落とした。
「近頃、随分と大人しいご様子でしたから、何か企んでおられると思っておりましたら。貴方様は何をしておいでなのですか!」
「夫婦の在り方の確認かしら?」
うーんと、腕を組んで、小首を傾げると、私に聞くだけ無駄だと悟ったのか、マーシャは説明を求めてシルヴェストル様に顔を向けた。
「いや、私も何がなんだが。ドアノブを回そうとする音が聞こえたから、姫が私に何かご用がおありなのかと思って、鍵を外して扉を開けたら……椅子が……」
「振り下ろされて」と、ひくっと頬を引き攣らせながら、シルヴェストル様は折れた椅子の足に視線を向ける。
咄嗟にシルヴェストル様が身を引いてくださらなければ、彼の腹なり足なりを直撃していたかもしれない。反射神経もいいなんて、やっぱりシルヴェストル様は素敵。キャッ。
「何が、キャッ。ですか!!」
地の底を這うような低い声に私はさっとシルヴェストル様の後ろに隠れた。
ぎゅっとその服の端をにぎって、そっと顔をだせば、頭に角を生やしたマーシャがずかずかと部屋を横切ってやってくる。
王族の部屋に許しもなく立ち入るのはマーシャぐらいよね。
「私が我が王から、どのようなお役目をいいつかっているかご存知ですいらっしゃいますわね。姫様」
じわじわとシルヴェストル様の周りを回りながら、私はマーシャから逃げた。
「えーと、「お前が馬鹿なことをしでかさないかのお目付け役だ! マーシャ、姫を止めるためならば、王族に対する礼は忘れてよい」だったからしら?」
お父様の声を真似ればシルヴェストル様が「ぷっ」と噴き出した。
「似てる………父王の真似がお上手ですね。姫」
くすくすと笑うシルヴェストル様。褒められて私は、頬を両手で包み込んで喜んだ。
「シルヴェストル様! 姫様を甘やかさないでくださいませ!」
ちっ。話が逸れると思ったのにそうは問屋が卸さないらしい。
しつこく説教をしようと追ってくるマーシャを止めたのは、
ガシャンッ!
というテラスの窓ガラスが割れる音だった。
一体なんなの?
明らかに、外側から割られたガラスを見て呆然とする私とマーシャ。
そんな私達を、シルヴェストル様は、素早く背に隠すと、壊れた椅子を握り締めた。
凛々しいシルヴェストル様も素敵。
うっとりとシルヴェストル様の勇姿を眺めていると、キキィと音を立てて窓が開かれた。
途端にシルヴェストル様は椅子を握っていた手を放す。
「オーベール………おまえ、どうして」
え? オーベール? また出たの、あの邪魔者。
相手がオーベールなら怖くはない。
私はシルヴェストル様の背から飛び出すと、ピシっとオーベールに指を突きつけかけて息をのんだ。
オーベールが怒っている。それも私に対してじゃなくて、ぎらぎらと怒りに燃えるその瞳の行く先はシルヴェストル様?
「シル兄! 何故、ルシアンナの寝室にいる! まさか、ついにルシアンナに手を!? 見損なったぞ! ええい、くそっ。そこになおれ! おれが成敗してくれる」
腰に下げた剣をすらりと抜くオーベール様。
「ちょっと、まってくれないか。オーベール。私が姫に手をだすわけがないだろう」
ゴーンと頭上に鐘が落ちてきたかと思った。
なんてひどい言いようだろう。だすわけがない………だなんて。
「お前こそ、どうしてここにいるんだ」
「それはっ、すごい音が聞こえて心配になって」
「お前の部屋は、一番東の端だろう。そこまで聞こえるとは思えないが」
「ぐっ」と呻いて言葉に詰まるオーベール様。
「まあいい。さあ、早く剣をしまいなさい。私は誓って姫に何もしていないし、するつもりもないよ」
呆れたようなシルヴェストル様の声に、私は素早く指を唾でぬらして目尻につけた。
こんなことなら目薬を夜着に忍ばせておくんだった。
「シルヴェストル様、ひどいですわ! 私がどんなに貴方を慕っているか存知でしょうに。私にナニもする気がなくて、なぜ私を娶ったのです!」
「え……………?」
シルヴェストル様しばし絶句した。
そして――――――
「いや、姫。貴方まだ10歳でしょう?」
呆然とした顔で、ぽつりとそう零された。
背後から、突き刺さるような視線が送られてくる。
けれど、私はめげずにシルヴェストル様のお顔を見上げた。
「確かに私は10歳です。でもだから何だとおっしゃるのです。どんなに幼かろうが嫁いだ相手と子をなすのが王家に生まれた娘の義務と心得ております」
私はふんっと胸をはる。
シルヴェストル様は、はああと深いため息をついて、額に手をあてた。
「……………月のものもまだなのにどうやって?」
もうっ! 冷静なつっこみが腹立たしいわ!
「それは、月のものはまだですけど、愛があれば何とかなると思うの」
「そればっかりはならないよ」
「なりません」
「なるか! 馬鹿!」
なによ、オーベールまで。
即座に三者三様に否定されて、私はむくれて頬をふくらませた。
ぷくっと膨らんだ頬を見て、シルヴェストル様は、やれやれ、と呟いて優しく(でもどこか疲れたように)微笑んだ。
「5年は清い結婚生活をと誓約書にサインもしております。貴方に何かしたら廃太子にされてしまいますよ」
廃太子。何だかちょっと退廃的で淫靡な響きね………。夫である王と王弟の間で揺れる美しい王妃も捨てがたいけど、それもありかも! とぶつぶつと呟きながら、夢を膨らませる私の後ろから、にょきっと白いお仕着せに包まれた腕が伸びる。
「姫様。出して下さいませ」
え? 何をかしら?
つっと冷たい汗が背中を流れる。
「近頃お読みになっていた書物をです」
「えーっと?」
この時、つい、ちらりと寝台に視線を向けてしまったのが運のつきだった。
目ざとく私の視線に気付き、ドシドシと荒い足音を立てて寝台に近寄るとマーシャはがばっと掛布をはぎ、次いで枕を持ち上げる。枕の下から出てきたのは―――――『シンデレラ』
有名な、異国の恋物語の題名が書かれたその書物のカバーを見てマーシャは一瞬眉を潜めたが、すぐにページをめくり始めた。
「ちょっ、マーシャ。それは単なるシンデレラの絵本で!」
駆け寄って制止しようとするが、ひょいと本を頭上に持ち上げられては、どうしようもない。
「あの人は結婚してから変わってしまった。かつて私に向けられる視線はどこまでも優しかったというのに。もうあの人にとって私は要らない人間なのだろうか。どうか今一度、その美しい緑の瞳を私に向けて欲しい。そうでないと私は……私は………。ああ、王弟が今日も舐めるような嫌らしい目で私の体を見つめる。私は一体どうしたら―――――」
ご丁寧にも朗読して、ぴしっと一瞬だけ動きを止めたマーシャは、ページを飛ばして更に中身を検分する。
「王弟のピー(自主規制)がピーち、私のピーにピーピーた、ピピピピーをピーで―――(中略)――「あなたっ!」ついに王と心が通じ合った私は涙を流して、王のピピーをピピッとピーでピッーに………」
卑猥な言葉の連発に、シルヴェストル様は目を丸くして、マーシャの持つ書物を見詰め、オーベール様は、あら、鼻血を噴いてるわ。
「やっぱり………。姫様! 発禁になった官能小説「王妃の日記」じゃありませんか! 姫様ときたら、昔からお読みになった本に影響を受けておられましたけど、またなんという本をお読みになったのですか………。」
カバーを入れ替えてあるのに、よく題名が分かったわね。
「夫に愛してもらえない美しい妻と、王座と王妃の体を狙う王弟。ほら、なんとなく境遇がかぶってるでしょ。だからつい、感情移入しちゃって」
「いや、被ってないから」
間髪いれずに入る突っ込み。やっぱり私とシルヴェストル様の相性はばっちりなんじゃないかしら。
「もしや、王弟の役は俺か………」
鼻を押さえながらがくりとうな垂れるオーベール。伊達に小さな頃から私のごっこ遊びに付き合っているわけじゃないわね。読みが鋭いわ。
「俺、王弟じゃないし………王座なんていらないし………そもそも、シル兄もまだ王じゃないし………」
相変わらず細かい男ね。
「この本は没収だね。まだ姫には早いよ。ゆっくり大人におなり。焦らなくても待ってるから」
優しく微笑んで私の頭に手を置くシルヴェストル様。
大好きな大好きな笑顔にぽやんと心をほだされかける。
と、バシンと音がして頭の上の手が払われた。
無粋なと横を見れば、ふるふると震えるオーベール様が目に入る。
「待ってないだろっ! とっかえひっかえ女を変えやがって!」
そうよね。危うくだまされるところだったわ。
「いや………えーと、それは、さすがに5年もただ待つだけなのは辛いというか。オーベールももう少ししたら分かるよ」
シルヴェストル様は、ははっ、と乾いた笑いをもらして、明後日の方向を見詰める。
「ルシアンナ! こんなピー(自主規制)やめとけよ! お前とシル兄の婚姻が清い結婚だなんて、みんな知ってるんだ。俺に乗り換えても何も問題はない。第一俺ならお前と釣り合いがとれる。シル兄なんがっ…、お前が成人するごろにっはっ…もう30のオヤジなんだっ…ぞっ!」
しわがれた声で叫ぶオーベール。叫びすぎたのか、最後は掠れてなんて言っているのか聞き取れやしない。
「ちょっと、その声なんとからないの」
「しがたねーだろ! 変声期なんだがらっ!」
「あら、風邪かと思ってたわ」
一歳年上の幼馴染は、身長が伸びないかわりに、随分と早く声変わりを迎えたらしい。
「今日は、ほら、もう遅い。寝ようか。子供は早く寝ないとね」
笑顔で私たちの頭をなでるシルヴェストル様。早くこの場を切り上げてしまいたいらしいのが見え見えだわ。
「うるさいっ! 撫でるなシル兄!」
「シルヴェストル様。今晩はシルヴェストル様のお部屋で一緒に寝てもいいですか? だって、窓が割れてこの部屋では寒くて眠れませんもの」
「なっ、ルシアンナ! やめろ! 嫁にいけない体にされるぞ!」
「もう、いってるもん」
「いや、廃太子は困る……というか、手は出さないから。10歳はいくら私でも無理だから……」
「姫様! 他にも隠してらっしゃる書物はございませんの!?」
こうして、騒がしい夜は過ぎていった。
それにしても、そんな誓約書があるなんて知らなかったわ。15歳までなんて、長すぎるわよねえ。近いうちに鍵師を呼ばなくちゃ。
※※シルヴェストルが鍵をつけた理由※※
「シルヴェストル様!」
小鳥のような可愛らしい声に、顔を庭へと向けると、薄桃色のドレスを身に纏ったルシアンナ姫が、腕いっぱいにバリイの花束を抱えて手を振っている姿目に入る。
「随分なつかれてんなあ」
遊戯盤の相手をしていた侯爵家の三男坊である悪友、ロンは、駒を持った手を止めて、酒の入ったグラスを傾けた。
「かわいいだろう? 婚礼の宴のあった夜なんてさ、眠れなくて私のベッドに潜り込んできたんだよ。やっぱり国を離れて寂しいんだろうね。天使のような寝顔だったよ。ここだけの話、オーベールよりも可愛いとさえ思うんだ。小さな頃から見てきたからかな? 実の妹みたいに思えてね……」
晴れ渡る空のような明るい笑顔で、子犬のように元気よく駆けて来るルシアンナを見詰めていると、自然と笑みが浮かぶ。
お茶の入ったカップを持ち上げて口をつけながら、ルシアンナが来るのを待った。
「ふうん、その妹に突っ込まなきゃならんわけか」
ブフッ。
口に含んだお茶を盛大に噴出した。
「うわっ、何やってんだよ。きたねえなあ」
「なっ、なんてっ、ことを……ゲホッ」
噴出す原因となった発言をした悪友は眉を潜めて、茶で濡れた焼き菓子を見る。
「俺は何もおかしなこと言ってないだろ。王族ってのも因果な職業だねえ」
「あー、おれ王子に産まれなくて良かった」等と、呟きながらロンは、濡れた自分の菓子と無傷の私の菓子を入れ替えた。
口元を拭う、私の胸に、走ったせいで息を弾ませたルシアンナが飛び込む。
ぱっと顔を上げて、私に見せた笑顔のなんとあどけない。
この子に………突っ込む?
私はずんと落ち込んだ。
無理だ。
いや、今OKならむしろ人として駄目だろう。
5年後を想像すればいいんだ。5年後、すらりと背が伸び、女らしい肢体に成長したルシアンナを想像してみる。
やはり無理だ。
こんなに可愛い妹同然の相手と寝れるものか。
おしめをしている時から見てきたんだぞ!
さあっと顔から血の気が引くのが分かった。
まずい。まずいぞ。
すりすりと何の疑いも抱かずに胸に頬擦りするルシアンナ。私の事を信じきっている笑顔にちくりと胸が痛む。
今まで、近くに居過ぎたのだ。今からでも何とかすれば間に合うかもしれない………。
手始めに私は、自室とルシアンナの部屋をつなぐ扉に鍵をつけた。
心細くて眠れぬ夜には抱きしめて添い寝してやりたい。やりたいが、このままでは、私はルシアンナを抱けなくなってしまう。
私は心を鬼にして、ルシアンナと距離を置く事を決めたのだった。
え? 登場時とラストでオーベールの言葉遣いが全然違う? 気のせいじゃないですかね………。