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営業一位のライバル同期と両想いになったら、仕事中なのにいつも通りに出来なくて大変です

作者: 春野スミレ
掲載日:2026/04/22

 澪はいつもより少しだけ早く会社に着いた。


 始業前のフロアはまだ静かで、コピー機の低い駆動音と、どこかで淹れられたコーヒーの香りだけがゆるく漂っている。バッグをデスクの脇に置き、ノートパソコンを開く。立ち上がりかけの黒い画面に、自分の顔がぼんやり映った。

 

 いつも通り。

 今日は、ちゃんとそうするつもりで来たのに。


 神谷の顔をみた瞬間もう駄目だった。


 神谷は澪の同期で、何かとムカつく存在だった。

 営業成績はトップで、いつも澪の上をいく。さらには無駄に顔がよくて、それも癪に障った。


 けれど数日前、心が見える御守をもらってから、彼の本音が見えてしまい少しずつその関係が変わっていった。

 すれ違いもあったが、昨晩ようやく両思いとなったのだ。


 カタ、と斜め前の席で椅子が引かれる音がして、澪の指先が止まる。

 視線を上げるつもりはなかったのに、ほんの一瞬だけそちらを見てしまう。

 神谷はもう席についていて、いつも通りの落ち着いた顔でノートパソコンを開いていた。ネイビーのスーツに、きっちり締められたネクタイ。髪も乱れなく整っていて、何事もなかったみたいに朝のメールを確認している。


「……なんなの」


 小さく漏れた声は、自分にしか聞こえない。

 こっちは昨日のことを思い出すだけであたふたしてしまうのに、なんであいつはそんな顔ができるんだろう。


 両思いになった後、会社ではいつも通りにしてって言ったのは自分だけど、だからって本当に普通にできるのはちょっと腹が立つ。


 ちょっとくらい、困ればいいのに。


 そんなことを思ってしまってから、澪は自分で自分に眉を寄せた。

 パソコンの立ち上がりを待ちながら、慌てて意識を画面に戻す。今日中に返さなければいけないメールはいくつかあるし、大阪案件だってこのあとまた動くはずだ。変に意識している場合じゃない。


 そう思った矢先、隣から明るい声が飛んできた。


「朝比奈さん、おはようございます」


 顔を上げると、隣の席の後輩がにこにこしながら立っていた。朝から妙に機嫌がいい。


「おはよう」


 澪が返すと、後輩はそのままデスクの端にそっと身を乗り出してくる。


「朝比奈さん、昨日なんで帰っちゃったんですか〜?」


「……え?」


 あまりにも無邪気な一言に、澪は一瞬で固まった。


「二軒目、来ると思ってたのに」

「しかも神谷さんもいなくなってましたよね?」


 その言葉がまっすぐ耳に入って、心臓がどくんと嫌なくらい大きく鳴る。

 昨夜のことが、一気に蘇った。


 店先から離れていく神谷の背中を思わず追いかけたこと。

 バーで飲み直した後、公園のベンチに腰掛け、低い声で告げられた、「ずっと好きだった」という言葉。

 それから、あのキス。


「朝比奈さん?」


 後輩の声に引き戻されて、澪ははっと瞬きをした。


「あ、いや……ちょっと疲れてて」

「飲みすぎたし」


 どうにかそう返すと、後輩は「えー」と不満そうに唇を尖らせる。


「珍しいですね」

「朝比奈さん、いつも最後までいるタイプじゃないですか」


「昨日はちょっと、ほんとに無理だったの」


 言いながら、自分の声がどこかぎこちないのがわかった。

 後輩はそこに気づいているのかいないのか、さらに目をきらっとさせる。


「でも、神谷さんも帰ってたんですよね」

「なんかあったんですか?」


「何もないわよ」


 思ったより早く返してしまって、澪は内心でしまったと思った。

 後輩の眉がぴくりと上がる。


「今の、ちょっと怪しいです」


「怪しくない」

「ほんとに、ただ疲れてただけ」


「ふーん?」


 全然納得していない顔だ。

 澪は逃げるようにマウスへ手を伸ばし、開きかけたメールの画面へ視線を戻した。けれど、文字なんてひとつも頭に入ってこない。


「朝比奈さん」


「なに」


「私はお二人のこと推してますから!」


 後輩が目を輝かせてガッツポーズをしている。

 そういえば前にもそんな事言われたような。


 そのタイミングで、ふいに視界の端で人影が動いた。

 斜め前の席から、神谷が立ち上がる気配がする。

 澪の呼吸が、一瞬だけ止まった。


 神谷は椅子を引いて立ち上がると、こちらへ向かってくるでもなく、澪のデスクの少し後ろにある共有棚へ書類を取りに行っただけだった。

 けれど、その途中でふっと足を止める。


「朝から何の尋問してるの」


 あくまで軽い調子の声だった。

 後輩がぱっと振り向く。


「あ、神谷さん」

「別に尋問じゃないですよ。ただ昨日、朝比奈さん途中で帰っちゃったから気になって」


「へえ」


 神谷は手にしたクリアファイルを軽く叩きながら、澪の方をちらりと見る。

 その視線が一瞬だけ合って、澪は反射的に目を逸らした。


「疲れてたんじゃない?」

「昨日、けっこう飲んでたし」


「そうですか?」


 後輩はまだ首をかしげていたが、自席に戻りパソコンを開き出した。

 その様子を見ていると、後ろから部長の声が飛んできた。

 三人そろってそちらを振り向く。

 部長はこちらへ歩いてきながら、小さく手を上げる。


「朝から元気だな、お前たち」

「悪いが、ちょっと予定変更だ」


 その一言で、澪の頭が半分仕事に切り替わる。

 部長は神谷と澪を順に見て、続けた。


「大阪の件、今日の午後に簡単な社内共有を入れたい」

「関係部署にも先に温度感合わせときたくてな。役員の耳にも入るから、資料はちゃんと整えたい」


 澪は椅子から少し身体を起こした。


「今日ですか?」


「そう。急で悪い」

「神谷、朝比奈。悪いけど資料、急ぎで作ってくれないか」


「了解です」

「共有の骨子、前回の報告ベースで組めばいけると思います」


 神谷はほとんど間を置かずに答えた。

 その声の落ち着き方が、さっきまでの動揺を少しだけ遠ざけてくれる。


「助かる」


 部長は今度は澪を見る。


「朝比奈、現場側の懸念と導入後の運用イメージ、そのへん厚めに入れたい。頼めるか?」


「はい、大丈夫です」


「よし。じゃあ午前中である程度形にしてくれ」

「細かいところはあとで詰める」


 部長が満足そうに頷いて離れていく。

 その背中を見送りながら、後輩が小さく「うわ、大変そう」と呟いた。


「朝比奈さん、頑張ってください」


「うん」


 短く返しながら、澪は深く息を吐いた。

 正直良かったと内心思う。

 仕事に集中すれば神谷のことを考えすぎずに済む。


 神谷は既に自分の席へ戻り、手早くノートパソコンを閉じて必要な資料のファイルをまとめている。


「じゃあ、会議室行こう」


 いつも通りの淡々とした声。


「うん」


 澪も頷いて、開いていたメール画面を閉じ手必要なものをまとめる。


 二人でフロアを出る。

 始業直後の廊下はまだ人通りが少なく、足音だけがやけに静かに響いた。


 澪は歩きながら、頭の中で必要な項目を並べていく。

 先程までの雑念が自然と消えていった。


 会議室の前で神谷が立ち止まり、カードキーをかざす。

 電子音が鳴ってドアが開いた。


「どうぞ」


「ありがと」


 澪は先に中へ入り、テーブルの手前にノートパソコンを置いた。

 神谷もその向かいに資料を広げる。


 澪はノートパソコンを立ち上げながら、手帳を横に開いた。現場責任者とのやり取りの中で拾っていた言葉や、前回までの会議で相手が引っかかっていたポイントを、頭の中で並べる。


「共有だから、長くても三十分くらいだよね」


 先に口を開くと、向かいに座った神谷が頷いた。


「うん。最初に大阪案件の全体像をざっくり入れて、そのあと現場側の懸念と導入後の運用イメージ」

「最後にスケジュールと、今後の社内の動きが見えれば十分だと思う」


「じゃあ私は現場側の懸念と、導入初期の運用フローまとめる」


「助かる。俺は全体の骨子と数字側作る」


 神谷はノートパソコンを開いたまま、手元の資料をぱらぱらとめくっていた。完全に仕事モードに入っている。

 澪もそれを横目に見ながら、自分のファイルを開く。


 社内共有用の資料は、先方に見せた提案資料とは違う。

 社内の関係部署に「何が決まって、何を準備すべきか」を分かりやすく伝える必要がある。言い方を少し変えるだけで、伝わり方はかなり変わる。


 数分のあいだ、会議室にはキーボードを打つ音だけが静かに響いた。

 神谷が先に一枚目を整え終えたらしく、少しだけ椅子を引く音がする。


「今、どこまでできた?」


「導入初期の運用イメージまで」

「でも、ここの文言ちょっと迷ってて」


 澪がそう答えると、神谷は「見せて」と短く言って立ち上がった。

 そのままテーブルを回り込み、澪の隣へ来る。

 澪はノートパソコンを少しだけ神谷の方へ傾けた。

 神谷はそのまま隣に立って、画面へ視線を落とす。


 距離が、近い。

 ふわりと、ほのかに整髪料の匂いがした。

 それだけで、さっきまで仕事に向いていた意識がほんの少しだけ揺らぐ。


「ここ、“負担を抑えながら”より、“既存運用への影響を最小限にしながら”の方が社内には伝わりやすいかも」


 神谷の指先が、画面の一文を示す。

 声はいつも通り落ち着いていて、仕事の話しかしていない。

 それなのに、顔が近いだけで妙に意識してしまう自分が腹立たしい。


「……うん、それで直す」


 どうにか返して、澪は手元のペンを握り直した。

 その瞬間、指先が少し滑る。


「あ」


 乾いた音を立てて、ペンがテーブルの下へ転がった。

 しまった、と思った時には遅い。

 澪が慌てて身を屈めるのと、神谷が同時に「大丈夫」と手を伸ばすのが重なった。

 二人の手がほとんど同時にそこへ伸びる。


「……っ」


 指先が神谷の手に触れた。 

 たったそれだけなのに、澪の肩がぴくりと揺れる。

 神谷も一瞬だけ動きを止めたが、すぐに何でもなかったみたいにペンを拾い上げた。


「はい」


 顔を上げると、すぐ目の前に神谷がいた。

 しゃがみ込んだ姿勢のまま、少しだけ困ったように笑っている。

 思っていたよりずっと近くて、澪は息を詰めた。


「……ありがと」


 どうにか受け取ると、神谷はそのまま澪の顔を見た。

 数秒にも満たない短い沈黙。

 なのに、やけに長く感じる。


「朝比奈」


「な、何」


 神谷は少しだけ口元を緩めた。


「今日はポンコツですね?」


 澪はかっと顔が熱くなるのを感じた。


「……誰のせいよ」


 思わず低く返すと、神谷がわずかに眉を上げる。


「俺?」


 絶対わかってるくせに、そんな顔をする。

 その余裕が腹立たしい。

 澪がじとりと睨むと、神谷は喉の奥で小さく笑った。

 それから立ち上がって、何事もなかったようにテーブルの向こうへ戻っていく。


「でも、朝比奈がそういう感じだとちょっと安心する」


「……え?」


「完璧に見えるのに、こう言うのには弱いところとか」

「かわいい」


「……っ!やめてよ」


 しれっと言われて、澪は言葉に詰まる。

 むかつく。こういうさらりとした所が。


 神谷はもうノートパソコンに視線を戻していた。

 その横顔は、またきちんと仕事の顔に戻っている。


「で、そこの文言直したら次いける?」


「……いける」


「よし。じゃあ俺、スケジュールのページ先に作る」


「私は導入初期の補足、もう一段整理する」


「お願いします」


 短く言って、神谷はキーボードを打ち始めた。

 澪も手元のペンを握り直し、深く息を吐く。


 私も切り替えないと。


 会議室にはまた、規則正しいタイピングの音が静かに響き始めた。

 最後の一枚を整え終えたところで、澪は小さく息を吐いた。


「……こんな感じかな」


 そう言って澪は自分のノートパソコンを回してみせる。


「うん、いいと思う」


 神谷は頷いて 、保存したファイルを閉じた。


「じゃあ、一回部長に見せよう」


「うん」


 二人でノートパソコンを持って会議室を出る。

 部屋にはいると、部長はモニターから目を外してすぐにこちらへ身体を向けた。


「できたか」


 資料を広げて神谷が全体の流れを簡単に説明し、澪が現場側の見せ方を補足する。

 部長は資料をざっと追いながら何度か頷いた。


「いいな」

「このまま午後いけるだろう」


 その一言に、澪はようやく肩の力を抜いた。


「細かい直しは直前でもいい。とりあえず昼入っておいてくれ」


「了解です」


 部長にそう返して席を離れると、神谷が隣で小さく息を吐いた。


「思ったより早く通ったね」


「うん」

「とりあえず、よかった」


 さっきまで仕事に集中していた反動なのか、少しだけ空腹を思い出す。

 時計を見ると、もう昼休みに入っていた。


「一回、昼にする?」


 神谷が何でもない顔で言う。


「そうだね」

「時間ないし、コンビニでいいかな」


「俺もそれでいい」


 二人でそのままビル下のコンビニへ向かう。

 昼どきの店内はそれなりに混んでいたが、社内に持ち帰ってさっと食べるつもりの会社員ばかりで、回転は早かった。


 澪はおにぎりと小さなサラダ、それからカップスープを手に取る。

 神谷はサンドイッチとブラックコーヒー、それに適当に惣菜パンをひとつ追加していた。


「朝比奈、それで足りるの?」


「足りるよ」


「ほんとに?」


 そんなやり取りをしながら会計を済ませ、二人は社内の休憩スペースへ戻った。

 窓際の小さなテーブルがひとつ空いていて、向かい合うように座る。


 午前中の慌ただしさがようやく少しだけ遠のいて、休憩スペースには電子レンジの音や、誰かが紙コップを置く小さな音だけが響いていた。

 澪はスープの蓋を開けながら、小さく息を吐く。


「なんか、午前だけで一日分くらい働いた気がする」


「まだプレゼンこれからだけどね」


 神谷がサンドイッチの袋を開けながら言う。


「朝比奈が集中できてなさそうで終わらないかと思った」


 不意にそう言われて、澪の手が止まる。


「そんなこと……!」


 反射的に返すと、神谷は少しだけ笑った。


「なくないよね?」


 図星を突かれて、澪は言葉に詰まった。

 言い返したいのに、思い当たる節しかないのが悔しい。


「……逆になんでそんなに普通に出来るのよ」


 気づけば、口をついて出ていた。

 神谷はサンドイッチを持ったまま、少しだけ肩をすくめる。


「普通にしてって言われたし」


「それはそうだけど」


 そこまで返したところで、神谷が何でもない顔のまま続けた。


「俺だって内心めっちゃ浮かれてるけど?」


 澪はぴたりと動きを止めた。


「……っ」


 顔が一気に熱くなる。

 何か言い返したいのに、うまく言葉にならない。


 神谷はそれ以上何も言わなかった。

 ただ、少しだけ口元を緩めて、それから手元のサンドイッチに視線を落とす。


 澪は視線を逸らしたまま、小さく息を吐いた。

 こういうところが、ずるい。

 しばらくして、観念したようにおにぎりの袋を開く。


 向かいでは神谷が、もう何事もなかったみたいに昼食を食べていた。

 それが少しだけ癪で、でも同時に妙に落ち着くのもまた腹立たしかった。


 短い昼休憩は、不思議と居心地が良くて、澪はスープをひと口飲みながら小さく目を伏せる。


 午後から社内共有。

 まだ忙しい一日は終わらない。

 けれど、その前のわずかな休憩時間は、思っていたより少しだけ穏やかだった。


***


 休憩を終えてフロアへ戻ると、午後の空気は午前中より少しだけ慌ただしかった。


 行き交う人の足取りも、電話の声も、どこか忙しない。澪は自席でノートパソコンを開き、さっき整えた資料をもう一度だけ見直した。大きく直すところはない。確認すべきポイントだけを素早く拾っていく。


 斜め前では、神谷も同じように最終確認をしていた。

 昼休みにあんなことを言ったくせに、今はまた涼しい顔でキーボードを打っている。その横顔を見ていると、さっき一瞬だけ緩んだ気持ちが、また別の意味でざわつきそうになる。


 だめだ。今は本番前。

 澪は小さく息を吐いて、画面へ視線を戻した。

 ほどなくして、部長が顔を上げる。


「そろそろ行くぞ」


 そのひと言で、空気がぴんと締まる。

 神谷が立ち上がり、資料を手に取る。澪もノートパソコンを閉じて、その後に続いた。


 社内共有の会議室には、導入支援の担当、管理部、それに営業企画のメンバーまで数人集まっていた。大きな会議ではない。けれど、ここで温度感を揃えておくことが、この先の動きをかなり楽にする。

 部長が簡単に前置きをしてから、二人に目配せする。


「じゃあ、説明よろしく」


 神谷が軽く頷いて、先に口を開いた。


「大阪案件の進行共有です。正式受注が決まりましたので、まず全体像と、現時点で社内で押さえておきたい点を簡単に整理します」


 落ち着いた声が、会議室の空気を自然に引き取っていく。

 神谷が最初の一枚で全体の流れを整え、そのあと澪が現場側の補足を引き継ぐ。


「先方が特に重視していたのは、導入初期に現場の運用負荷が増えすぎないことです。ですので今回は、既存フローへの影響を最小限にしながら立ち上げる設計を前提にしています」


 言葉は驚くほどなめらかに出てきた。

 午前中の慌ただしさが嘘みたいに、今は頭が静かだった。

 神谷が次のページを映し、澪が補足を重ねる。


 誰がどこまで準備すべきか。初期対応の導線はどうするか。現場責任者が懸念していた点は何で、それにどう答えるのか。

 飛び交う質問を丁寧に拾っていく。


 説明を終える頃には、参加していたメンバーたちもそれぞれにメモを取っていた。

 最後に部長が周囲を見回す。


「今の時点で大枠はこんな感じだ。何か確認しておきたいことあるか?」


 営業企画の男性が「いや、かなりイメージ湧きました」と答える。

 導入支援の担当も続けた。


「この見せ方だと動きやすいですね。現場側の懸念が整理されてるので助かります」


 その言葉に、澪は小さく息を吐いた。

 隣では神谷も、ほんのわずかに肩の力を抜いているように見えた。


「やっぱりこの二人、わかりやすいですね」


 誰かが何気なくそう言って、会議室に小さな笑いが広がる。部長まで満足そうに頷いた。


「まあ、そこはうちのワンツーだからな」


 その言葉に、澪はほんの少しだけ目を伏せる。

 真っ直ぐに褒められると、ちょっとだけくすぐったい。


 会議が終わり、資料を閉じる音が重なる。

 参加者たちが「お疲れさまでした」と立ち上がる中、澪もノートパソコンを閉じて席を立った。


「朝比奈」


 隣で神谷が、小さな声で呼ぶ。


「ん?」


「うまくいったな」

「お疲れ」


 短いひと言。それだけなのに、胸の奥が不意にあたたかくなる。


「……神谷がいてくれたから」


 神谷は少しだけ目を見開くと、柔らかく笑った。


「珍しく素直」


「たまにはね」


「へえ」


 その返しがもういつも通りで、澪は少しだけ頬を緩める。

 午後の共有は、想像以上にうまくいった。

 少なくともこの時点では、今日の山場はひとつ越えた気がしていた。


 だからその数時間後に、もうひとつ大きな仕事が落ちてくるなんて、この時の澪はまだ思っていなかった。


***


 午後の社内共有を終えたあとは、思っていたよりも穏やかに時間が流れた。


 気がつけば、窓の外の光はやわらかく傾き始めている。  時計を見ると、もう五時が近かった。

 澪は画面から一度だけ視線を外して、小さく肩を回した。

 今日中に片づけるべき細かな作業は、あと少し。このままいけば、定時を少し過ぎるくらいで上がれるかもしれない。

 その時、隣から後輩が顔を出した。


「朝比奈さん、もう終わりそうですか?」


「たぶんね」


「よかったです。今日ずっとバタバタしてたから、さすがに大変そうだなって思ってました」


 そう言って後輩が笑った、そのタイミングで部長の内線が鳴る。

 フロアに響く電子音に、何人かが反射的に顔を上げた。 部長は受話器を取ると、最初はいつもの調子で相槌を打っていたが、途中でほんの少しだけ表情を引き締めた。


「……はい」

「ええ、今日中ですね」

「わかりました。こちらで対応します」


 その一言で、澪は嫌な予感がした。

 受話器を置いた部長が、フロアをひとつ見回す。

 そしてまっすぐ神谷と澪を見た。


「神谷、朝比奈」


 二人はほぼ同時に顔を上げた。


「悪い、もうひと仕事だ」


 二人の間に緊張が走る。

 部長は手元のメモを見ながら続けた。


「大阪側から追加で補足資料がほしいって連絡が入った。明日の朝、先方役員含めてもう一度内部確認するらしい」


「今日中ですか?」


 神谷が聞くと、部長は短く頷いた。


「できれば今日中に大阪へ返したい」

「悪いが、対応できるか」


「大丈夫です」


 神谷が即答する。

 澪も間を置かずに続いた。


「私もいけます」


「助かる」


 部長はそこで一度腕時計を見て、少しだけ眉を寄せる。


「悪い、俺はこのあと外で予定がある」

「最終確認は君たちに任せるから、そのまま大阪へ送ってくれ」


「わかりました」


「頼んだ」


 部長はそれだけ言い残して、急ぎ足で荷物をまとめ始めた。  ほどなくして「お先に」とフロアを出ていく背中を見送りながら、澪は小さく息を吐く。


 長い一日はまだ終わらないのか。


「うわ、追加来たんですね……」


 後輩が気の毒そうに呟く。


「そうみたい」


「朝比奈さん、ほんと今日は最後まで大変ですね」


 そう言われて、澪は小さく笑った。


「しょうがないね」

「大事な案件だから」


「さすがです……」

「じゃあ私、先に上がります。お疲れさまです」


「お疲れさま」


 後輩が帰り支度をして離れていく。フロアではほかの社員たちも少しずつ帰宅準備を始めていた。

 話し声が減っていき、照明だけが変わらず明るい。

 神谷が斜め前の席からこちらを見る。


「朝比奈」


「うん」


「さっきの資料ベースにまとめていこう」

「分担はさっきと同じで大丈夫そう?」


「そうだね、そうしよう」


 短く頷くと、澪はノートパソコンを開き直し、必要なファイルを並べる。キーボードを叩く音が静かに響き始めた。


 ひとり、またひとりと人が帰っていく。

 そのたびにフロアは静かになり、澪の意識も自然と目の前の仕事へ深く沈んでいった。


 昼間は絶え間なく聞こえていた電話の音も、もうほとんど鳴らない。キーボードを打つ音と、複合機の小さな駆動音だけが、ときどき遠くで重なるくらいだった。


 どれくらい経っただろう。

 手元の時計を見ると、もう定時をだいぶ過ぎている。  周りを見渡せば、残っている人もかなり少なくなっていた。営業部の島でまだ明かりがついているのは、もう澪と神谷の、二人だけだ。


 短いやり取りを挟みながら、二人はそれぞれのパソコンを打ち続けた。


「朝比奈、補足できたら送って」

「最後こっちでつなげる」


「わかった」


 澪は最後の文言を整えてファイルを送り、そのまま先方への送付文面を作り始めた。

 宛先、件名、本文。必要なことだけを簡潔にまとめる。

 数分後、神谷が口を開く。


「朝比奈、最終版いける」


 神谷の声に、澪は椅子を引いて立ち上がった。  彼のデスクの横へ行き、画面を覗き込む。

 さっきまで別々に作っていた要素が、きれいに一つの流れになっていた。補足ページも自然につながっている。


「……うん、いいと思う」


「送付文面もできてる。件名これで大丈夫?」


 神谷が画面を少しスクロールする。澪は本文を上から下まで追った。


「大丈夫」

「このまま送れるね」


「じゃあ、送るよ」


「お願い」


 神谷の指がマウスを動かし、送信ボタンを押す。画面の右下に、送信完了の小さな表示が出た。

 それを見た瞬間、澪はようやく深く息を吐いた。


「……終わった」


 朝からずっと張っていた糸が、そこでやっと少しだけ緩む。


「おつかれ」


「神谷も」


 それだけ返すと、神谷はノートパソコンを閉じながら立ち上がった。


「ちょっとトイレ行ってくる」


「うん」


 神谷がフロアの外へ出ていく。澪はその背中を見送ってから、自分の席に戻り、開いていたパソコンを閉じた。


 静かだった。

 仕事が終わったあとのオフィスは、さっきまでと同じ場所のはずなのに、急に広く感じる。

 遠くで警備の人の足音がして、どこかの部署の照明がひとつ落ちた。


 もう今日はこれで終わり。

 そう思った途端、身体の重さを一気に自覚する。

 思っていた以上に疲れていたらしい。


 数分後、神谷が戻ってくる。

 その手には、自販機の紙カップが二つあった。


「……え」


 思わず顔を上げると、神谷は何でもない顔で澪のデスクに片方を置いた。


「おつかれ」


 置かれたのは、ミルク多めのカフェラテだった。

 自分が普段よく飲んでいるものだと気づいて、澪は少しだけ目を見開く。


「ありがと」


「どういたしまして」


 神谷は自分のブラックコーヒーを持ったまま、澪のデスクの横に軽く寄りかかった。

 澪は紙カップを両手で持ち、ひと口だけ飲む。

 少し甘くて温かいカフェラテが、仕事で疲れた身体に染み渡る。


「生き返る……」


 小さく呟くと、神谷がふっと笑う。


「よかった」


 その声がやさしくて、澪はなんとなく視線を落とした。

 さっきまでちゃんと張っていたはずの気持ちが、また少しずつゆるんでいく。

 神谷はそんな澪を見て、少しだけ目を細めた。


「今日めっちゃ忙しかったしね」


 そう言いながら、手を伸ばす。

 何か言う前に、ぽす、ぽす、と軽く頭を叩くみたいに撫でられて、澪は固まった。


「……会社なんだけど」


 やっとそれだけ言うと、神谷は何でもない顔でフロアを見回す。


「もう誰もいない」


 その声音が落ち着きすぎていて、余計に心臓に悪い。

 反射的に周囲を見れば、営業部の島に残っている人影はなく、少し離れた席の明かりも落ちていた。遠くで警備の人が歩く気配がするくらいで、昼間までのざわめきはもうない。


「……だからって」


「だめ?」


 神谷が少しだけ首をかしげる。

 その言い方がずるくて、澪は思わず顔を上げる。


「……だめじゃ、ないけど」


 小さく返してから、しまったと思った。

 神谷の目が少しだけ細くなる。


「煽ってる自覚ある?」

「そんな可愛い顔で言うなんてさ」


「っ……、そんなつもりじゃ」


 言い返した途端、また顔が熱くなる。

 神谷はそんな澪を見て、少しだけ困ったみたいに笑った。


「……それ以上そういう顔されると、普通にキスしたくなる」


 澪は一瞬、息を止めた。

 思っていたよりずっと低い声で言われて、胸の奥が一気に熱くなる。


「だ、だめだよ」


 慌ててそう言うと、神谷は眉を上げる。


「じゃあ、どこでならいいの?」


 その返しがあまりにも自然で、澪はもうまともに顔を見ていられなかった。

 視線を逸らしたまま、小さく答える。


「……会社出たら、ね」


 数秒の沈黙。

 そのあと、神谷が低く笑った。


「了解」


 それだけで、また心臓がうるさくなる。

 神谷は澪の頭に最後にもう一度だけ、ぽす、と触れてから身体を離した。


「じゃ、帰ろうか」


「……うん」


 澪はまだ熱い頬を隠すように紙カップを持ち直して立ち上がる。

 二人で並んでオフィスを出る足取りは、朝よりずっと軽かった。

番外編2 神谷のお家にお泊り回も投稿予定です!激甘キュンなやつができそうなのでぜひ読んでください〜

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