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『ヒノキの消えた夏、あるいは青い絶望』  作者: ミストマン


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2/2

第2章:本郷の修羅、あるいは甘味の特異点

昭和40年、春。

 東京オリンピックの熱狂が冷めやらぬ首都には、高度経済成長という名の「ガソリンと排気ガスの狂騒曲」が鳴り響いていた。

 本郷、東京大学。赤門をくぐる高根沢の足取りは重い。彼の顔面中央に鎮座するチタン合金製「人工鼻腔・クシャミ反動相殺ユニット」からは、蒸気機関車のようなシュコーッという排気音が漏れ、行き交う学生たちの視線を釘付けにしていた。

「……なんだ、あの男。鼻から煙を出しているぞ」

「新しい公害の研究員か? それとも万博のパビリオンから逃げ出したロボットか?」

 そんな囁きを、高根沢は人工鼻腔に内蔵された高性能ノイズキャンセラーで遮断した。彼にとって、この時代の空気はあまりにも「無防備」に過ぎた。現代(20XX年)のような殺人的なホワイト・デス(ネオ・ヒノキ花粉)はまだ存在しない。だが、だからこそ、ここにある「静かなるスギとヒノキ」たちが、未来で牙を剥く準備を整えているのだと思うと、鼻の奥のシリコン粘膜が怒りで震えた。

 彼は懐の「3キロの巨大羊羹・重力」の重みを確かめた。通常の羊羹の密度を物理限界まで高めたそれは、もはや甘味というよりは「糖分でできた鉄塊」に近い。

「目的地は、理学部二号館。柳沢の研究室だ」

 研究室の扉を開けた瞬間、高根沢の人工鼻腔がけたたましい警告音を鳴らした。

「ピーッ! ピーッ! 未知のバイオ濃度を感知! 鼻粘膜の防御シールド、最大出力!」

「……誰だい、君は。実験中なんだ。ノックぐらいしてくれよ」

 白衣を纏い、厚底の瓶底眼鏡を光らせた青年――柳沢博士が、顕微鏡から目を離さずに言った。壁には、かつて昭和25年に高根沢が目撃した「苗木を引っこ抜く男」の姿が、宗教画のような緻密さでスケッチされ、金縁の額に入れられて飾られていた。その下には、前作で高根沢が配り歩いた羊羹の「包み紙」が、聖遺物のように鎮座している。

「柳沢……。お前が、あの時のガキか」

 高根沢の声が、スピーカーを通じて電子的に響く。柳沢は弾かれたように顔を上げた。

「その声……その、鼻から溢れ出す圧倒的な『アレルギーへの憎悪』。間違いない。あなたは、あの時、僕に羊羹をくれた『鼻の神様』だ!」

 柳沢は椅子を蹴倒して駆け寄ると、高根沢のタクティカル・アンダーウェアの裾に縋り付いた。

「神様! 見てください! あなたに貰ったあの羊羹の糖分が、僕の脳細胞を異常発達させたんです。僕は決意した。神様が嫌っていた『弱いスギ』なんて捨てて、神様が思わずクシャミを漏らすほど美しい、最強の木を作ると!」

「……逆だ。柳沢、お前は何も分かっていない」

 高根沢は、重厚なアタッシュケースを机に叩きつけた。

「俺は、お前のその『最強の木』のせいで、鼻を改造する羽目になったんだ。見ろ、この人工鼻腔を。俺はもう、自分の鼻でラーメンの湯気を感じることすらできない。俺がここに来たのは、お前の研究を物理的に『なかったこと』にするためだ」

 高根沢はケースを開け、3キロの羊羹「重力」を柳沢の目の前に突き出した。

「これを食って、糖尿病の瀬戸際まで追い込まれろ。そして、植物の研究などという不毛な道は捨て、大人しく公務員にでもなるんだ」

 だが、柳沢の目は狂気の色を帯びて輝いた。

「おおお……! これが、神の国の、さらなる高みにある羊羹……! 素晴らしい密度だ。この黒光りする表面……これこそ、僕が目指す『ネオ・ヒノキ』の理想的な樹皮の質感だ! ありがとうございます神様! 新たなインスピレーションが湧いてきました!」

「なにっ!?」

 逆効果だった。高根沢が持ち込んだオーパーツ級の甘味が、柳沢の狂信的な科学心にさらなるガソリンを注いでしまった。柳沢は羊羹を拝むように受け取ると、その場で齧り付き、血糖値を爆発的に上昇させながら計算尺を猛烈な勢いで動かし始めた。

「そうだ……この糖鎖構造を、ヒノキの細胞壁に組み込めば……花粉の飛散距離は従来の百倍、生存期間は永久……! ついに、一年中花粉を出し続ける『終わらない春』が完成するぞ!」

「やめろ! このマッド・ボタニストめ!」

 高根沢は、腰から磁気記憶消去ガジェット「ボーズ・デリート」を引き抜いた。

「この時代の未熟な磁気テープなど、一瞬でスクラップにしてやる!」

 スイッチを入れようとした、その時だった。

 研究室の窓から、春の風がふわりと入り込み、柳沢が実験用に栽培していた「プロト・ネオ・ヒノキ」の苗木を揺らした。

 微かな、本当に微かな白い粉が、高根沢のセンサーに触れた。

「……ッ!!」

 人工鼻腔が、最大レベルの警戒態勢レッド・アラートに突入した。

「警告! 警告! 内部気圧が臨界点に到達! クシャミ排出まで、あと3秒!」

(くそっ……! ここでクシャミをすれば、歴史の特異点が爆発する! だが、止まらん! 出る、出るぞ……!)

 高根沢は震える手で、禁断の装備「ノーズ・サイレンサー」を起動した。人工鼻腔の排気孔に、チタン製のプラグが超高速で叩き込まれ、物理的に密封される。

「ゴ、ゴフッ……!!」

 逃げ場を失ったクシャミのエネルギーが、高根沢の体内を駆け巡った。彼の眼球が血走り、パワードスーツの各所から「パシュッ!」と過負荷を逃がすための冷却水が噴き出す。それは、一人の人間の中で核融合が起きたかのような凄まじい内圧だった。

「……ハ、ハッ……ハクッ……ッ!!」

 高根沢の体が、内部からの振動でガタガタと震える。その振動が、手元にあった「ボーズ・デリート」に伝わり、予期せぬ誤作動を引き起こした。

 ジジジジッ!!

 強力な磁気嵐が、柳沢の研究室を包み込む。柳沢が書き溜めていた計算式、実験ノート、そして彼が愛用していた当時の最先端計算機が、磁気の奔流によって物理的に歪み、火花を散らした。

「あああ! 僕のデータが! 僕の情熱の結晶が、神様のバイブレーションで消えていくぅぅぅ!!」

 柳沢が悲鳴を上げる。高根沢は、クシャミを体内に封じ込めた衝撃で、口から一筋の白い煙を吐き出しながら崩れ落ちた。内臓がシェイクされたような感覚だったが、目的は達成したはずだ。

「……ハァ、ハァ……。やったぞ、柳沢。これで……お前の研究は……灰になった」

 高根沢は、朦朧とする意識の中で勝利を確信した。データは消えた。柳沢もショックで立ち直れないはずだ。

 しかし。

 柳沢は、真っ白になった実験ノートを見つめながら、不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。

「……そうか。分かりましたよ、神様。あなたは僕に、『木』という固定観念を捨てろとおっしゃっているんですね。木は、切られたら終わりだ。磁気にも弱い。だが……」

 柳沢は、研究室の隅に生えていた、ありふれた『雑草』――ブタクサを手に取った。

「雑草は、踏まれても立ち上がる。データの記録など必要ない。僕の脳に刻まれた、あの羊羹の漆黒の輝きを……このブタクサの遺伝子に直接叩き込めばいいんだ! 植物学など、もう古い! これからは、ゲノムを自在に操る『超・雑草学』の時代だ!!」

「……え?」

「見ていてください神様! 僕は木よりも低く、しかし木よりも凶悪な、日本中のアスファルトを突き破って咲き誇る、自意識を持った『最強の草』を作ってみせます! 名前は……そう、ブタクサ・デラックス!!」

 高根沢の人工鼻腔から、絶望のピピピピ……という電子音が鳴り響いた。

 彼は気づいてしまった。柳沢博士の「木」への情熱をへし折った結果、より繁殖力が強く、より駆除が困難な「雑草」への進化の扉を開いてしまったことに。

「やめろ……。柳沢、頼むから大人しく盆栽でも趣味にしてくれ……!!」

 高根沢の懇願も虚しく、柳沢は3キロの羊羹を狂ったように貪り食いながら、新しい研究テーマを黒板に殴り書き始めた。その背後には、未来で高根沢を襲うことになる「青い花粉」の悪夢が、確実な輪郭を持って形成されつつあった。

 高根沢は、内臓の痛みに耐えながら、『ノーズ・ダイバーII』への帰還シークエンスを開始した。

 ハッチが閉まる間際、彼は昭和40年の空を見た。

 そこには、まだ純粋なタンポポやレンゲが咲いている。だが、その足元で、柳沢の狂気に感染したブタクサが、不気味に葉を震わせたような気がした。

「……局長。現代に戻ったら、俺に『除草剤』を点滴してください……」

 高根沢を乗せたタイムマシンは、再び次元の狭間へと消えていった。

 第3章、物語はいよいよ「青い絶望」が支配する最終決戦へと突入する。

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