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『ヒノキの消えた夏、あるいは青い絶望』  作者: ミストマン


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第1章:ホワイト・デスの朝、あるいは鼻粘膜の終焉

西暦20XX年。

 かつて「春」と呼ばれた季節は、今や「白死ホワイト・デス」という名の極刑に置き換わっていた。

 東京の街並みは、一見すると美しい雪国のように見える。だが、積もっているのは雪ではない。前作の英雄(自称)、高根沢が過去でスギを根絶やしにした代償として、歴史の修正力が生み出した怪物――「ネオ・ヒノキ」が放つ、高密度・超微細の白い粉塵である。

 この「ネオ・ヒノキ花粉」は、もはや生物学的アレルギーの域を超えていた。粒子サイズはスギ花粉の十分の一。不織布マスクはおろか、最新のN95防護マスクさえも「笑わせるな」と言わんばかりに軽々と透過する。一度吸い込めば肺胞の奥深くに沈着し、人体細胞を内側から「木質化」させるという、植物による人類侵略の急先鋒であった。

「……ぐ、ぬぅ……」

 地下五百メートルに位置する『アンチ・ポレン』本部の自室。高根沢は、鏡に映る己の姿を見て絶望に震えていた。

 彼の鼻は、もはや生物としての形を成していない。前回の任務による過酷なクシャミの反動で鼻中隔が崩壊したため、現在はチタン合金製の「人工鼻腔・クシャミ反動相殺ユニット」がボルトで固定されている。鼻の穴からは二本の太いチューブが伸び、背負ったタンクから高純度の抗ヒスタミンガスを24時間体制で強制噴射し続けていた。

「おはよう、高根沢。……今日の調子はどうだ? 鼻の下の皮膚が木目もくめになってきているぞ」

 部屋に入ってきた及川局長もまた、悲惨な姿だった。彼は全身を完全密閉型のパワードスーツで包み、頭部には水槽のようなヘルメットを被っている。ヘルメットの中は、花粉を中和するための高級洗顔料の泡で満たされており、局長が喋るたびにブクブクと泡が口元で弾ける。

「見ての通りですよ、局長。昨夜は、夢の中で自分が巨大なまな板に加工される光景を見ました。……それに、最近、無性に日光浴がしたくてたまらない。光合成の誘惑に負けそうだ」

 高根沢の声は、人工鼻腔のスピーカーを通じて電子音のように響く。

「無理もない。ネオ・ヒノキの花粉はDNAを書き換える。君が完全に『人面樹』になる前に、この歴史を修正せねばならん」

 及川は、泡まみれの手で操作パネルを叩き、一枚のホログラムを映し出した。そこには、1960年代(昭和40年代)の風景と、分厚い眼鏡をかけた一人の青年が写っていた。

「柳沢博士。当時、東京大学で植物学を専攻していた天才だ。……高根沢、君が前回、昭和25年でヒノキを全滅させたせいで、歴史に巨大な空白が生まれた。その空白を埋めるべく、神の悪戯か、あるいは悪魔の差配か、この柳沢が『失われたヒノキをバイオの力で復活させる』という禁忌の研究に手を染めてしまったのだ」

「俺のせいだと言いたいんですか?」

「事実だ。しかも、調査の結果、柳沢がこの研究に生涯を捧げた動機が判明した。……彼は幼少期、地元の山で『苗木を根こそぎ引き抜き、高級羊羹をくれた謎の男』に出会い、その圧倒的な存在感に魅了されたらしい」

 高根沢は人工鼻腔から激しい警告音を鳴らした。

「……あの時の、源三と一緒にいたガキか!」

「そうだ。彼は君を『鼻の神様』と崇め、神様に喜んでもらうために『枯れない、負けない、どこでも育つ最強の木』を作ろうと決意した。……つまり、ネオ・ヒノキの産みの親は、間接的に君だ」

 重い沈黙が流れる。高根沢の鼻腔ユニットから、シュコーッ、という虚しい排気音が漏れた。自分の過去の「良かれと思ってやった善行(羊羹配布)」が、未来を白く塗り潰す怪物を作ってしまった。これ以上の皮肉があるだろうか。

「任務だ、高根沢。昭和40年、高度経済成長期の日本へ飛べ。そして、柳沢博士の『最強の木』プロジェクトを根底から粉砕しろ。……今回は、前回の失敗を教訓に、装備を大幅に強化した」

 及川がテーブルに置いたのは、黒光りする重厚なアタッシュケースだった。

 中には、以下の三点が鎮座していた。

1. 『とらや』最高級羊羹・大容量特注モデル「重力」:

一本で三キログラムの重量を誇る、極限まで糖度を高めた魔導兵器。昭和の学生の胃袋を確実に破壊し、思考停止に追い込む。

2. 磁気記憶消去ガジェット「ボーズ・デリート」:

見た目は当時のポータブルカセットレコーダーだが、半径十メートルの電子・磁気情報を一瞬で消去する。研究データを物理的に抹殺するための兵器だ。

3. 超高性能・鼻栓型鎮静弾「ノーズ・サイレンサー」:

クシャミが出そうになった瞬間、鼻の穴に超高速でプラグを射出し、物理的に排気をシャットアウトする。ただし、行き場を失ったクシャミのエネルギーは体内を駆け巡り、内臓に甚大なダメージを与える。

「……局長、三番目の装備は、俺を殺しに来てませんか?」

「死ぬのと、ヒノキになるのと、どちらがいい?」

「…………羊羹を持っていきます」

 高根沢は覚悟を決めた。

 タイムマシン『ノーズ・ダイバー・マークII』に乗り込む。前回よりもエンジンの出力が強化され、シートには「クシャミによる姿勢制御喪失防止用」の五点式シートベルトが備え付けられている。

「カウントダウン開始だ。高根沢、忘れるな。昭和40年は万博直前の高揚感に包まれている。人々は未来を信じている。……その希望を、徹底的にへし折ってこい。すべては、我々の鼻の自由のために」

「了解。……行ってきます。……ハ、ハ、ハッ……!」

 機内に充満するネオ・ヒノキ花粉に、高根沢の人工鼻腔が反応する。

「待て! まだ飛ぶな! クシャミが出る! いま出たら時空の壁に激突するぞ!」

「制御不能だ! 射出!」

 及川がレバーを引いた瞬間、高根沢は渾身の、そして機械的なクシャミを放った。

「ハックショォォォォォン!!」

 その衝撃は、物理法則を書き換えるほどのエネルギーへと変換された。ノーズ・ダイバーIIは、クシャミの推進力によって亜光速へと加速。20XX年の「白い地獄」を突き破り、時空のトンネルを猛烈な勢いで逆走し始めた。

 視界が歪む。

 黄色いスギの幻影が、白いヒノキの残像と混ざり合い、万華鏡のように回る。

 高根沢は、意識を失いかけながらも、懐の「三キロの羊羹」を強く抱きしめた。

 次に目を覚ました時。

 鼻をかすめたのは、焦げ臭いガソリンの匂いと、活気に満ちた人々の怒鳴り声。

 そして、まだ品種改良される前の、おとなしい、しかし着実に「敵」としての息吹を蓄えている、古き良き時代の木の匂いだった。

 高根沢は、アスファルトの上に転がりながら、天を仰いだ。

 そこには、アドバルーンが浮かぶ、昭和40年の空が広がっていた。

「……ここが、第二の決戦の地か」

 彼は立ち上がり、人工鼻腔の微調整を行った。

 遠くで、大学生たちが「これからは科学の時代だ!」と議論しているのが聞こえる。

 高根沢は、不敵な(しかし人工パーツで引きつった)笑みを浮かべ、ターゲットである柳沢の研究室がある、赤門の方角へと歩き出した。

 史上最大の「恩返し」という名の、無慈悲な破壊工作が今、始まった。

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