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第一話 黄昏の現場

黄昏の街が、長い午後を過ぎて冷やかになる。


橘蒼は、スマートフォンに映る未読メッセージの数を無視して、アスファルトの上を滑るように早足で進んだ。西日がビルの谷間を赤く染め、街はすでに一日の幕切れの空気を漂わせている。


どこか祭りの後の静けさ、埃と人恋しさが入り混じった空気が、彼の黒いコートに纏いつく。現場は、繁華街の一角、人気のない宝石店で起こった。


店の入り口には黄色い規制線が張られ、通行人が興味本位で集まっていた。フラッシュが、事件の重大さを小さな祭りに変える。報道陣のざわめきと、警察無線から漏れ聞こえる淡々とした指示の声。


蒼は警備員に警察バッジを見せ、無言でその場を通り抜けた。

店内はすでに、鑑識班が足早に動いていた。床に散らばるガラス片、割れたショーケース。だが不思議と、荒っぽい暴力の気配はない。むしろ、あらゆる痕跡が「何も起きなかった」かのように澄んでいる。


「ああ、橘さん……来てくれたんですね」


腰の低い巡査が、紙コップのコーヒーを掲げて近づいてきた。


「被害者の店主は奥で事情聴取中です。防犯カメラの画像もいま解析してますが――」

「もう手はつけた?」

「はい、外枠と扉までは……でも、中はまだ……」


蒼は一礼してショーケースに近づく。左手で薄く埃をなぞると、指先に残るのは、わずかにざらついた感触。派手な割れ方をしていないガラス、慎重に外された鍵、規格外のセキュリティを易々と潜り抜けた爪痕。蒼はしゃがみ込み、ガラス面にうっすら浮かぶ指紋と手のひらの跡に目を凝らす。


「本当に……これが“例の奇術師”の仕業なんですかね?」


巡査の声は、尊敬と恐れが半分混じっていた。蒼は答えず、小さく息を吸い込む。周辺の観察、物音、鑑識班の手の動き――すべてを一つの連続した映像のように脳内に並べ変える。まるで、舞台の袖から照らされる光のように、何かが鮮やかに浮かび上がる。

やがて蒼は立ち上がり、カウンター裏の暗がりへ抜けた。そこには推理の余地すら与えまいとする、見事な「空白」が用意されていた。


十年前、あの雨の夜に感じたもの。それはまるで、予告なしに始まる“手品”のような予感だった。


店の奥に続く細い廊下に入ると、空調の冷気と消毒液の匂いがからりと肌を撫でる。蒼は足元の微かな絨毯の起伏に気を配り、壁際の装飾――何気ないフレームや観葉植物の配置まで神経を尖らせた。乱れた痕跡はどこにもない。けれど、その完璧さこそが異様だった。


ドアの向こうでは、初老の店主が青ざめた顔で座っていた。机の手前で作業する私服の刑事が振り返り、蒼の一瞥にうなずくだけで口を閉じる。


「失礼します」


蒼は静かに椅子を引き、店主の正面に腰かけた。彼の手は膝の上で祈るように固く握られている。


「——施錠は、確かでしたか?」


声は淡々と、しかし返答を促す響きだけが残る。店主は何度も頷き、苦しげに吐息を漏らす。


「ええ、毎晩必ず自分で閉めてきました。警備会社にも通報はなかったと……。ただ、ガラスは叩き割られたのではなく、そこだけ綺麗に切り抜かれていて、金庫も暗証番号が……」


「その番号を知っている人間は?」


「私と、息子だけのはずです……昨夜、息子は出張で地方におりました。」


わずかに沈黙が落ちる。蒼は壁掛けの時計で時刻を確かめ、無味乾燥な針の進み方に静かな違和感を覚える。


「現場を見せていただけますか?」


店主は硬直したまま座った。蒼は自ら立ち上がり、金庫の置かれていた奥の部屋へ歩く。そこは遊び心のない無機質な小部屋で、床にだけ微細な傷――小さな石英片が一つ、光を跳ね返していた。


足音。部屋の外には、他の刑事や鑑識たちの低い声、何かの器具をしまう音が途切れそうに続く。蒼は懐中電灯を手に、金庫の隙間やダイヤルの縁、床下のモールまで丹念に観察した。


ガラス、埃、鈍い金属のにおい。ふと視線を上げると、天井近くに不自然に揺れる防犯カメラの赤いインジケーターがあった。


主人公は立ち止まり、光の筋が壁に映える様子を無意識に追った。あの奇術師が、ここで何を見たのか。彼はそっと指先で石英片をつまみ上げ、光にかざした。それは夜の中の断片的な閃光のように、記憶の奥底を撫でていく。


その瞬間、背後で無線機のノイズが弾けた。蒼は映像から目を離さず、「再生速度を落としてくれ」と低く指示を出す。カメラが切り替わり、男の動きが一秒ごとに分解されて映し出される。男は白い手袋をした手で空中を払うような仕草を見せ、カメラのどこかへ視線を送る。そこにほんの一瞬、店内照明のわずかな揺れが重なった。


「この人、何者なんですか?」


若い巡査の声音には、子供染みた畏れと興奮がにじんでいる。


蒼は、男の立ち姿――窓ガラスに反射するシルエットの中に、計算され尽くした距離と角度を見抜いた。偶然にしては出来過ぎた動線。トリックを仕込んだ「舞台」を歩くような所作。


「きっと、自分が写っていることを知っているはずだ。」


蒼は呟いた。


「カメラの存在まで踏まえて、あえて動いている。」


同僚が苦笑まじりに声を上げる。


「まるで舞台の主役みたいなやつだな。……それにしても盗られた物は?」


「ダイヤと、金庫の中の証書類。どれも現物は持ち出せないはずだ。だが、ここには肝心な“消え方”が残されている。」


蒼は思考を巡らせながらフロントへ戻った。日が落ち始め、ガラス越しの街路が薄闇に沈んでいく。扉の外からは人波のざわめきとサイレンの尾がかすかに聞こえる。蒼は一度だけ深く息を吐き、空気の質の変化を味わった。


ふいに脳裏をよぎるのは、幼いころ雨の夜に見たあの男の横顔だ。かすれた記憶の中の、奇妙に澄んだ目。首筋にうっすら冷たい感触がまとわりつく。あれから遠く離れたはずの記憶が、事件のたび現実めいて蘇るのだ。


「——全ては仕掛けの一部だとしたら。」


そう心の中で繰り返しながら、蒼は新たな証拠品を鑑識に手渡す。白手袋の影は、すでに冷たく拭われた窓ガラスの奥へ溶けていた。


現場の空気は徐々に熱を失い、関係者たちはそれぞれの役割を消化するように散っていく。蒼はただ一人、ショーケースの指紋と埃の跡を見つめ続けていた。防犯カメラに映った仕草が、まるで何かの合図であるかのように頭の中で繰り返される。


腕時計の針が静かに夜を告げる頃、外に出ると街路の光景は様変わりしていた。事件の気配に引き寄せられた野次馬たちの姿は薄れ、残るのは消化しきれない生温い夜気と、パトロールカーの尾灯だけ。蒼は煙草も吸わず、人気の遠い歩道を歩く。指先に残る銀糸の感触が、現実と幻の境目を曖昧に撫でていた。


ポケットの奥でスマートフォンが震えた。テキストの通知がひとつ。差出人はなぜか伏せ字になっていた。


──「舞台は君の真下に」


名もなければ番号もない。単なる悪戯や脅迫と断じるには、あまりに整い過ぎた無作為。蒼は携帯を閉じて、足を止めた。周囲の店舗はすでに閉じ、帰り支度を急ぐ人影も少ない。


「……監視されている。」


小さく唇に乗せたひとことに、自分でも気が付かぬ震えが混じった。


その時、路地裏の暗がりで、ほんの一瞬だけ白い手袋が揺れるのを蒼は見た。濁った街灯の下、細く長い指先が劇的な身振りで消えていく。蒼が駆け寄ったときには、そこに残っていたのは冷たい風と、何もないアスファルトだけだった。


「次」は、どこで何が始まるのか。蒼の心臓がゆっくり脈を取り戻す。事件はまだ、全てが舞台に用意された序曲にすぎない──そんな確信だけが、静かに胸の奥で膨らみ始めていた。


警察署へ戻ると、オフィスの空気はどこか火傷したような残り香をまとっていた。パーテーション越しに飛び交う声、パソコンのキーボードを叩く音、コーヒーのしみついた匂い――蒼はそのすべてを通り抜けて自分のデスクに沈み込む。デスクの上では事件ファイルが無数の証拠写真で汚され、それぞれの表情が蒼の意識を煽り立てる。


隣の席の同僚、松本がヘッドフォンを片耳だけ外して低く呟く。


「新しい手口か? どこか妙に落ち着いてるよなお前」


「単に疲れているだけだよ」


蒼は表情を崩さずに答えた。背筋に残った奇術師の痕跡が、皮膚の裏側にまで沁み込んで離れない。ファイルをめくる手が不意に止まり、コートのポケットをまさぐる。銀糸の小袋。机の隅に静かに置いた。


松本が身を乗り出す。


「現場で拾ったやつ?」


「ただの糸だ。でも、決定的な違和感がにじんでいる」


松本は肩をすくめて笑い、手元の書類に視線を戻した。


「まるで手品みたいな現場だもんな。奇術師だなんて名付けたの、お前じゃないか」


「名付けてやることで、距離を取っているだけだ」


「そういうもんか?」


蒼は返事をせず、事件写真を並べ替えた。宝石の映りこみ、ガラスの質感、影となった人影――どれもが「偶然」という名前をした必然のようだった。蒼はスマートフォンを取り出し、例のメールを見返す。“舞台は君の真下に”。胸の奥で何かが重く沈む。


彼は一度だけ目を閉じ、十年前の心象風景を探った。雨の夜の高架下、不意に差し出された手の白さ、あの掌に封じられた光の粒。それは現実と幻想の際で瞬く、“もう一つの出口”の予感だった。


「イグジット・スルー・ザ・ミラー」


見慣れないフレーズが、薄い紙の上で静かに光を帯びていた。蒼は封筒を手のひらに転がす。鏡の中の出口──それは意味を持たない言葉遊びか、誰かの暗号か。


「この言葉……お父さんは何か言っていましたか?」


娘は首を振った。


「ただ『絶対に開けるな』とだけ。父は昔から、妙な迷信やジョークを大事にしていました。けれど、あの日の声は――本気で怯えていた。」


蒼はしばし沈黙し、封筒の重さだけを感じていた。鬼火のように浮かび上がる白い手袋、銀色の糸。そしてもうひとつ、いつか見たことのある誰かの背中。そのすべてが、この封筒の裏側で手をつないでいる気がした。


「預かります」と静かに応じ、デスクまで戻る。誰にも気づかれぬよう、封はそのまま保管庫の奥へ滑り込ませる。理詰めの仕事の隙間から、この奇妙な言葉の断片がひたひたと染み出してくるのを蒼は拭いきれなかった。


深夜、また独りになって机に向かう。銀糸の光と「イグジット・スルー・ザ・ミラー」という静かな命題。蒼は改めて事件の構図をノートに書き出していく。無数の点が、雪崩のように線となり、中心に“鏡”の文字が浮かぶ。だが、その全貌はなお微動だにしない。


外で雨が降り出した。ガラス窓に乱反射する街灯の光が、広がった鏡面のように蒼の目を射た。


ふいに、窓に映った自分の背後に、静かに立つ何者かの幻影がちらつく。蒼はほんの一瞬だけ、椅子ごと振り向いた。しかしそこにいたのは、淡く冷たい夜の闇だけだった。


背中を伝う感触に身を強ばらせながら、蒼はゆっくりと窓辺に歩み寄る。向かいのビルのガラス、濡れた路面、夜の街を映し込むあらゆる面――そこには必ず自分の影と、夜の奥底へ沈んでいく虚像の列があった。


照明を落とすと、オフィスは外灯の光で静かな青に染まる。デスクの上の封筒が銀色に霞み、消えかけたイニシャルのように、イグジット・スルー・ザ・ミラーという文字が浮き上がる。


蒼は鼻先で息を吸い込み、記憶の奥底に潜ろうとする。十年前、土砂降りの中、家路を急いだ夜道。古びた街並みにいきなり現れた仮面の男。その男は白手袋のまま、幼い蒼の前にしゃがみ込み、どこか幼稚な手品を仕掛けてみせた。それはただのコインマジック――コートの袖から銀貨が現れ、また消えるだけの、つまらない魔法。


だが、彼の手には明らかに異物感があった。指の動き、背筋の伸び方、何もかもが“舞台の上”のような孤独さを孕んでいた。ふと思い出す、男の優しげな声――


「鏡の向こうに、出口があるとしたら、どちらに進む?」


あの夜の記憶を指先で確かめるように、蒼は冷たいガラスに手を重ねる。外の雨脚は強まるばかりだ。オフィスの時計が二時を告げる音にも気づかず、蒼は静かに眼を閉じるしかなかった。


「……声が、聞こえる。」


鼓膜の内側で低い残響が、小さな波紋を広げる。奇術師の姿も名も、すべてはまだ輪郭をなさない。しかし、蒼の中で"次の一手"が、どこかで既に決められていたような錯覚だけが強まっていった。


ガラスにふれた手をそっと離すと、蒼の指先はわずかに震えていた。夜気が波のように押し寄せ、脳裏に少しずつ霧が晴れていく。仄暗い街の気配、机上に広がる証拠の断片、そして「イグジット・スルー・ザ・ミラー」と書かれた紙片の冷たい質感。


視界の隅で電話の着信ランプが点滅を始める。無言で受話器を取る。静かなパルスが彼の耳元を包み、その向こうから囁くようなノイズと、淡い声が届く。


「……君はもう、次の舞台の中央にいるよ。」


反射的に立ち上がった蒼の姿が、窓の奥の鏡面にゆっくり重なった。


――出口はどこに? 鏡の向こうを見つめる自分の、その奥へ。


雨が窓を打つ音だけが、夜の街に吸い込まれていった。


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