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合法的な終焉

 法律とは、権力者が弱者を縛るための鎖ではない。真の芸術家にとって、法律とは、世界を思い通りに再構築するための「魔法の杖」である。ただし、その杖を振るうためには、古い世界を一度、灰にしなければならない。


 一九三三年、二月。私はドイツ国首相の椅子に座っていたが、その座り心地は最悪だった。パペン副首相をはじめとする保守派の閣僚たちは、私を「飾りの首相」として扱い、私の命令をいちいち大統領に報告していた。議会では相変わらず野党が騒ぎ、法律一つ通すのにも妥協が必要だった。私は檻の中の猛獣だった。鍵はかかっていないが、鉄格子が邪魔で外に出られない。ゲーリングが、プロイセン州内相として警察権力を掌握し、共産党員への弾圧を始めていたが、まだ手ぬるい。もっと巨大な、国民全員が恐怖で思考停止に陥るような「ショック」が必要だった。神は、そんな私の渇望に応えるように、業火をプレゼントしてくれた。


 二月二十七日、午後九時過ぎ。私はゲッベルスの家で夕食を共にしていた。電話が鳴った。受話器を取ったゲッベルスの顔色が、見る見るうちに蒼白になり、次いで紅潮した。 「総統! 国会議事堂ライヒスタークが燃えています!」


 私は、その言葉の意味を理解した瞬間、膝を叩いて立ち上がった。「やったか!」とは言わなかった。だが、心の中では喝采を叫んでいた。誰が火をつけたかなど、どうでもいい。重要なのは、民主主義の殿堂が燃えているという事実だ。


 私はメルセデスを飛ばし、現場へ向かった。ベルリンの夜空は、不吉なオレンジ色に染まっていた。巨大な石造りのドームから、黒煙と炎が噴き出し、ガラスが爆ぜる音が響き渡っていた。現場では、ゲーリングが興奮して走り回っていた。 「総統! これは共産党の蜂起です! オランダ人の共産主義者を逮捕しました!」


 私は燃え盛る議事堂を見上げ、周囲に聞こえるように叫んだ。「これは、神からの合図だ!  ボリシェヴィキ(共産主義者)どもは、我々を焼き殺そうとしているのだ! 今こそ、容赦ない鉄槌を下さねばならん!」


 翌日、二月二十八日。まだ煙の(くすぶ)る瓦礫の上で、私はヒンデンブルク大統領に一枚の書類を突きつけた。『国民と国家を保護するための大統領令』。それは、言論、集会、結社の自由、通信の秘密、そして人身保護(令状なしの逮捕禁止)といった、ワイマール憲法が保障する基本的人権を「一時的に」すべて停止するものだった。


 ヒンデンブルクは、老眼鏡をかけ、震える手でその書類を読んだ。


「……ヒトラー君、これはやりすぎではないかね?」

「閣下! 昨夜の炎をご覧にならなかったのですか!  共産党は内戦を仕掛けてきています。ドイツを守るためには、非常手段が必要です!」


 「共産主義」という言葉を聞くと、老元帥の思考は停止する。彼は条件反射のようにサインをした。その瞬間、ドイツ国民はすべての自由を失った。だが、国民は反対しなかった。むしろ安堵した。「これで共産党のテロから守ってもらえる」と信じたのだ。


 三月五日。国会議員選挙。私はこの非常事態宣言下で、最後の選挙を行った。警察と突撃隊が投票所を監視し、野党のポスターは破り捨てられ、共産党員は次々と収容所へ送られた。結果は、ナチ党、四三・九%。……足りない。これだけの恐怖を与えても、まだ過半数に届かなかったのだ。ドイツ人の民主主義への執着は、予想以上にしぶとい。だが、連立を組む国家人民党(八%)を合わせれば、辛うじて過半数は確保した。


 しかし、私の目的は「過半数」ではない。「三分の二」だ。憲法を改正し、議会を無力化し、政府が勝手に法律を作れるようにするためには、国会議員の三分の二以上の賛成が必要なのだ。


 三月二十三日。焼失した国会議事堂の代わりに、クロル・オペラハウスが臨時国会の会場となった。議題はただ一つ。『全権委任法(民族および国家の危難を除去するための法律)』。内容はシンプルだ。

第一条:国の法律は、国会の議決を経ずに、政府(内閣)が制定できる。  

第二条:政府が制定した法律は、憲法に違反してもよい。


 これは法律ではない。「議会制民主主義の自殺届」だ。これが通れば、私はもはや誰の許可も得ずに、好きな法律を作り、好きなように国を動かせる。


 会場の空気は、異様だった。議場の外、そして廊下には、武装した突撃隊(SA)がびっしりと並び、ドスの効いた声で合唱していた。「法案を通せ! さもなくば火と血だ!」 「我々は全権を要求する!」


 議員たちは、その野獣の群れの間を縫って、青ざめた顔で入場してきた。すでに共産党議員(八一名)は全員逮捕されるか逃亡しており、議席は空だ。社会民主党(SPD)も多くの議員が拘束されている。鍵を握るのは、カトリック系の中央党だ。彼らが賛成に回らなければ、三分の二には届かない。


 私は演壇に上がった。背後には、巨大なハーケンクロイツの旗。 私は、議員たちを見下ろし、穏やかに、しかし脅迫を含んだ声で語りかけた。


「ドイツは今、病んでいる。治療には、迅速な決断が必要だ。この法案は、私がドイツを救うために必要なメスだ。諸君自身の良心に問いたい。平和か、それとも戦争か。私に権限を与えるか、それとも外で待つ突撃隊と対話するか!」


 脅迫だ。完全なる恫喝だ。 だが、中央党の党首カースは、恐怖と保身から取引に応じた。「教会の権利を守るなら賛成する」と。愚かな。一度権力を渡した相手が、約束を守るはずがないのに。


 その時、一人の男が立ち上がった。社会民主党の党首、オットー・ヴェルス。彼はすでに服に毒薬を忍ばせていたという。死を覚悟した男だけが持つ静かな威厳で、彼は私に向かって叫んだ。


「君たちは、我々の命を奪うことはできるかもしれない。だが、我々の名誉を奪うことはできない!いかなる全権委任法も、不滅である人権思想を破壊することはできないのだ!」


 会場が静まり返った。最後の、本当の意味での最後の「自由の叫び」だった。私はその言葉を聞いて、血管が切れそうなほどの怒りを覚えると同時に、冷酷なサディズムが湧き上がるのを感じた。


 私は再び演壇に駆け上がり、マイクを握りしめた。予定になかった即興の反論。


「遅い! 遅すぎる!  君たちは一四年間、ドイツを統治し、失敗し続けたではないか! 名誉だと? ドイツを泥にまみれさせた君たちが、何を寝言を言っているんだ! 私は君たちの票など求めていない! ドイツは君たちを必要としていないのだ!」


 嵐のような拍手と、突撃隊の罵声がかき消した。ヴェルスは力なく席に座り込んだ。勝負はついた。


 投票が始まった。名前を呼ばれた議員が、一人ずつ起立する。「賛成」「賛成」「賛成」……。中央党が賛成に回った瞬間、ワイマール共和国の息の根は止まった。


 結果。  賛成、四四四票。  反対、九四票(社会民主党のみ)。


 圧倒的多数で、全権委任法は可決された。議長席のゲーリングが高らかに可決を宣言した時、議員たちは総立ちになり、国家国歌「ドイツ、すべてのものの上にあれ」を熱唱した。


 私は、演壇からその光景を見下ろしていた。笑いはなかった。あるのは、奇妙な虚脱感と、冷たい満足感だけだった。


 終わった。いや、始まったのだ。今日この瞬間をもって、議会は死んだ。憲法は死んだ。大統領も事実上の剥製になった。これからは、私の言葉が法律になる。私が「右」と言えば、司法も軍隊も国民も、すべて右を向く。


 パペンが近づいてきて、引きつった笑顔で握手を求めてきた。 「おめでとう、首相。これで強力な政治ができますな」私は彼の手を握り返さなかった。ただ冷ややかな一瞥をくれ、側近たちの方へ歩き出した。用済みだ、貴族気取りのピエロよ。お前たちの「枠」は、もうとっくに溶けてなくなったのだ。


 オペラハウスを出ると、夜風が冷たかった。群衆の歓声が聞こえる。彼らは祝っている。自分たちの首に鎖がかけられたことを。自由という重荷から解放されたことを。


 私は夜空を見上げた。  一九三三年三月二十三日。  第三帝国の建設許可証は、合法的に発行された。


 私は、ポケットから万年筆を取り出し、指先で回した。この小さなペン先一つで、これからは何百万人を動かし、何百万人を殺すことができる。震えるほどの興奮。


 だが、まだ掃除が終わっていない。私の足元には、まだ私を「総統」とは呼ばない古い仲間たちがいる。突撃隊のレーム。彼は「第二革命」を叫び、私の邪魔をし始めている。 次の章は、身内の血を流すことになるだろう。長いナイフを研ぐ音が、私の耳にはもう聞こえていた。


 さようなら、民主主義。  ようこそ、私の時代ハイル・ヒトラー

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