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ベルリンの夜、炎の予兆

 頂上に立つ者の特権は、景色を楽しむことではない。眼下に広がる世界すべてが、自分の「所有物」になったことを確認する、その支配の快感にある。


 一九三三年、一月三十日。月曜日。ベルリンの空は、雲ひとつない冬晴れだった。午前十一時。私はカイザーホーフ・ホテルの一室で、窓の向こうの大統領官邸を凝視していた。そこには、最後の抵抗を続ける八五歳の老元帥ヒンデンブルクと、その取り巻きたちがいる。彼らは今頃、苦渋の決断を下し、私を呼び出すための受話器に手を伸ばしているはずだ。


 部屋には、ゲーリング、ゲッベルス、そしてレームたちが、死刑判決を待つ囚人のように張り詰めた顔で座っていた。電話が鳴った。乾いたベルの音が、静寂を引き裂いた。ゲーリングが受話器を取り、短く頷き、そして私を見た。その顔が、喜びで崩壊するように歪んだ。


「総統……。お呼び出しです」


 私はゆっくりと立ち上がった。心臓の鼓動は早鐘を打っていたが、私の足取りは、かつてないほど冷静で、重厚だった。 鏡の前で、モーニングコートの襟を正した。かつてウィーンの浮浪者収容所で、古着を漁っていた男が、今、一国の宰相として王宮へ向かうのだ。


「行こう。ドイツが待っている」


 正午過ぎ。大統領官邸。半年前には門前払いされたその部屋に、私は「勝者」として立っていた。ヒンデンブルク大統領は、椅子に深く腰掛け、不機嫌そうに私を見上げていた。彼の横には、誇らしげな顔をしたフランツ・フォン・パペンが立っていた。パペンは、私に目配せをした。『約束通り、君を首相にしてやったぞ。私の言うことを聞くんだぞ』という、浅はかな優越感が顔に張り付いていた。


 私は、ヒンデンブルクの前に進み出た。そして、これまで誰にも見せたことのないような、深々とした、礼儀正しいお辞儀をした。傲慢な独裁者ではなく、老英雄を敬う忠実な下僕の演技だ。


「アドルフ・ヒトラー氏。私は君をドイツ国首相に任命する」老人の声は、諦めと疲労を含んでいた。 「君は、議会多数派と協力し、憲法を遵守し、ドイツに秩序をもたらすと誓うか?」


 私は右手を挙げた。 「誓います、閣下。神のご加護があらんことを」


 嘘だ。私は神になど誓わない。私が誓うのは、私自身の野望に対してのみだ。憲法? そんな紙切れは、私が権力を握った瞬間に破り捨てる。秩序? 私がもたらすのは、お前たちが想像もできないような、血と鉄による新しい秩序だ。


 任命式が終わり、廊下に出た瞬間、パペンが私に近寄ってきて囁いた。 「ヒトラー首相、おめでとう。だが忘れないでくれたまえ。内閣の閣僚一一人のうち、ナチ党は君とゲーリングとフリックの三人だけだ。残りの八人は我々保守派だ。君は包囲されているんだよ」


 私はニッコリと微笑み、彼の手を握り返した。「ええ、よくわかっていますよ、パペン副首相。あなたの『ご指導』に期待しています」


 私は心の中で舌を出した。哀れな男だ。彼は数の計算しかできていない。内閣の人数など関係ない。私が「首相」という権限と、「警察」を握るゲーリング、そして「街頭」を支配する突撃隊を持っていれば、残りのお飾り大臣など、いつでも首を刎ねることができるのだ。


 午後一時。官邸を出た私を待っていたのは、数千人の群衆の歓声だった。「ハイル・ヒトラー!」「ハイル・ヒトラー!」 私は車の上で手を振った。 だが、これはまだ序章に過ぎない。 本番は、夜だ。ゲッベルスが用意した、史上最大のスペクタクルが待っている。


 日が落ち、ベルリンが闇に包まれた頃、街の空気は煙と熱気で満たされた。午後七時。ブランデンブルク門の向こう側から、赤い光の川が流れ込んできた。


 松明行進ファッケルツーク


 二万五千人の突撃隊(SA)と親衛隊(SS)。  彼らは全員、燃え盛る松明を手に持ち、軍靴の音を響かせて行進を始めた。炎、炎、炎。ベルリンの夜が、昼間のように赤く照らし出された。軍楽隊が奏でる行進曲と、喉が張り裂けんばかりの「ハイル・ヒトラー」の合唱が、ビルの窓ガラスを震わせた。


 私は、首相官邸のバルコニーに立ち、その光景を見下ろしていた。美しい。あまりにも美しい。 それは単なるパレードではなかった。古いワイマール共和国という死体を焼き払い、その灰の中から私の帝国が誕生するための、巨大な葬列であり、祝祭だった。揺らめく炎が、私の網膜に焼き付く。この炎は、やがてドイツ全土に広がり、本を焼き、シナゴーグを焼き、そして世界中を焼き尽くすことになるだろう。


 すぐ隣の大統領官邸の窓辺では、ヒンデンブルクが呆然とこの行進を見ていた。彼は杖でリズムを取りながら、こう呟いたという。 「……ルデンドルフよ、ずいぶんたくさんのロシア兵捕虜を連れてきたものだな」老人は、もう現実と過去の区別がついていなかった。彼にとって、この整列した男たちは、かつての帝国の兵士に見えたのだ。彼が見ているのは「過去の夢」。私が見ているのは「未来の悪夢」。


 バルコニーの下を通過する隊員たちが、私を見上げて絶叫する。彼らの顔は、炎の照り返しで赤く染まり、悪魔のような興奮に満ちていた。私は右手を高く掲げ、彼らに応えた。


 その時、私の背後で、一人の男が声をかけてきた。フランス大使のアンドレ・フランソワ=ポンセだ。彼はこの異様な光景に圧倒され、恐怖の色を浮かべて私に言った。 「……これは、ヴェルサイユ条約の終わりですな」


 私は振り返り、冷酷な笑みを浮かべて答えた。 「いいえ、大使。これは『すべての終わり』の始まりですよ」


 夜が更けても、行進は止まらなかった。深夜まで続く太鼓の音と、焦げ臭い松明の匂い。 ベルリン市民たちは、窓から身を乗り出し、この歴史的瞬間を目撃していた。ある者は熱狂し、ある者は雨戸を閉めて震えていた。 有名なユダヤ人画家、マックス・リーバーマンは、ブランデンブルク門のそばの自宅で、この行進を見てこう吐き捨てたという。『私は、吐き気を催すほどには、たくさん食べることができない』


 正しい感想だ。賢い者は、この光の向こうにある「闇」の深さを直感していただろう。


 私は深夜、官邸の執務室に戻った。 そこはまだ、前の主の気配が残っていた。私は椅子に座り、机の上の広大なスペースを撫でた。ここが、私のアトリエだ。ここから、私は命令書という筆で、六千万人の運命を描き換えるのだ。


 ゲーリングが入ってきた。 「総統、警察は制圧しました。ラジオ局もゲッベルスが押さえました。  明日から、反対派の狩り出しを始めますか?」


「焦るな、ヘルマン」私は窓の外、まだ消えない炎の残光を見ながら言った。 「まだ選挙が残っている。  三月にもう一度選挙を行い、今度こそ過半数を取る。そして『全権委任法』を通し、合法的に議会を殺すのだ」


「そのためには、何か大きな『きっかけ』が必要ですね」


「ああ。国民が恐怖し、私に『独裁権』を差し出したくなるような……巨大な事件がな」


 私は、夜空を見上げた。  松明の炎だけでは足りない。もっと巨大な、国会議事堂ライヒスタークそのものを包み込むような紅蓮の炎が、必要かもしれない。


 一九三三年、一月三十日。祭りは終わった。明日からは、掃除の時間だ。私は万年筆を手に取った。最初に出す命令はなんだ?  突撃隊の公認か、それともユダヤ人商店のボイコットか。いや、まずは新しい選挙の準備だ。これが、ドイツ最後の選挙になるだろう。


(……さあ、踊れ、炎よ。私の影を、もっと長く、もっと黒く伸ばしてくれ)


 ベルリンの夜は、かつてないほど明るく、そしてかつてないほど暗かった。

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