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破産の瀬戸際

 昇る太陽は誰からも愛されるが、沈みかけた太陽ほど惨めなものはない。人々は、それが完全に沈む前に背を向け、次の光源を探し始めるからだ。


 一九三二年、十一月六日。この年二度目の国会議員選挙。結果は、私たちの顔面に冷や水を浴びせるものだった。


 ナチ党、一九六議席。七月の選挙から三四議席の減少。得票数は二百万票も減っていた。第一党の地位こそ死守したが、これまで「勝つこと」だけを燃料にして走ってきた我々のエンジンにとって、この「後退」は致命的だった。


 「ヒトラー神話の崩壊」「ナチスの潮流は止まった」新聞は鬼の首を取ったように書き立てた。国民は、終わらない選挙と、解決しない不況に疲れ果てていた。彼らの熱狂は冷め、「やっぱりヒトラーでもダメなのか」という諦めが広がり始めていた。


 だが、真の地獄は、票数ではなく「金庫」の中にあった。


 党本部の金庫は、空っぽだった。蜘蛛の巣さえ張っていない、完全な真空状態だ。度重なる選挙戦。飛行機のチャーター代。数十万人の突撃隊員の維持費。すべてが借金で賄われていた。勝利すれば寄付が集まると見込んでの自転車操業だったが、敗北によってその車輪は外れた。


 電話が鳴り止まない。印刷所からの請求、家賃の催促、そして突撃隊員からの悲鳴。 「総統、隊員たちはスープ一杯で一日を過ごしています」 「ブーツに穴が空き、雪が染み込んで凍傷になる者が続出しています」


 ベルリンの街頭では、かつて威風堂々と行進していた突撃隊員たちが、空き缶を持って通行人に小銭を恵んでもらう姿が見られた。「ナチスに恵んでください。ドイツを救うために」その姿は、革命軍というよりは、巨大な乞食集団だった。


 ゲッベルスは、日記にこう記している。『一九三二年十二月八日。ひどい鬱だ。金がない。誰も金を貸してくれない。党は崩壊寸前だ。総統も部屋に引きこもり、自殺すると喚いている』


 そう、私は追い詰められていた。カイザーホーフ・ホテルのスイートルームで、私は拳銃を机の上に置き、何時間もそれを眺めていた。もし党が解散になれば、私はただの「借金まみれの元伍長」に戻る。いや、刑務所行きか、あるいは路地裏で野垂れ死ぬかだ。


 そんな弱り切った私の喉元に、シュライヒャー首相が毒入りの肉を投げ込んできた。党内ナンバー2、グレゴール・シュトラッサーの引き抜き工作だ。


 十二月五日。シュトラッサーが私の部屋に怒鳴り込んできた。彼は大柄な体を揺らし、現実主義者としての正論を私にぶつけた。


「アドルフ! もう限界だ! 党は破産寸前だぞ!シュライヒャー首相は、私に副首相のポストを用意してくれている。ナチ党から数人の閣僚を出して連立を組めば、借金もチャラにしてくれると言っているんだ!」


「断る」私は即答した。「私が求めているのは首相の座だ。副首相などという餌に食いつくつもりはない」


「いつまで夢を見ているんだ!」シュトラッサーは机を叩いた。「選挙には負けたんだ! これ以上突っ張れば、党は分裂し、内戦になる!  君は『全か無か(All or Nothing)』と言うが、このままでは『無(Nothing)』になるだけだ!」


 彼の言葉は正しかった。常識的に考えれば、ここで手を打ち、政権の一部に入り込むのが賢明な判断だ。だが、私は政治家ではない。芸術家だ。未完成の作品を、他人の手で修正されて世に出すくらいなら、キャンバスごと燃やしたほうがマシだ。


「グレゴール……」  私は立ち上がり、彼の目を見据えた。「君は、私を裏切るのか?」


「裏切りじゃない! 党を救いたいんだ!」


「いいや、裏切りだ。君は敵と内通し、私の背中を刺そうとしている」


 シュトラッサーは顔を歪め、そして言った。「……ついていけない。君のその破滅的な賭けには、もう付き合いきれない」


 十二月八日、シュトラッサーは全役職を辞任し、イタリアへ旅立った。党内はパニックになった。 「ナチスの頭脳」と呼ばれた男が去ったのだ。「次は誰が逃げるんだ?」という疑心暗鬼が広がった。


 私は、ここで勝負に出た。党の管区指導者ガウライター全員を緊急招集したのだ。彼らは不安そうな顔で集まった。シュトラッサーに同調する者も多かった。


 私は、彼らの前で、演技ではない、魂の叫びをぶつけた。 涙を流し、声を震わせ、自分の脆弱さをさらけ出した。


「私は一人になった! 長年の友も去った!  だが、私は諦めない。もし君たちも去るというなら、今すぐ出て行ってくれ。私は一人で戦い、一人で死ぬ!  だが、もしドイツの未来を信じるなら……私に力を貸してくれ!」


 私は彼ら一人一人の手を握り、目を見て訴えた。論理ではない。情動だ。「総統を見捨てるのか?」という罪悪感を刺激された彼らは、次々と泣き崩れ、私への忠誠を新たに誓った。シュトラッサーの合理性は、私の狂信的なカリスマ性の前に敗北した。党の分裂は、ギリギリで回避された。


 だが、金がない現実は変わらない。我々には、起死回生の「勝利」が必要だった。どんなに小さな勝利でもいい。「ナチスはまだ死んでいない」と証明するための勝利が。


 一九三三年、一月十五日。リッペ自由州の地方選挙。ドイツの地図でも探すのが難しいほどの、人口十数万人の小さな田舎の州だ。普段なら無視するような選挙だが、私はここに「全財産」と「全戦力」を投入することを決めた。


「総統、正気ですか? こんな田舎の選挙に、残りの資金をすべて?」 「そうだ。ここを天下分け目の関ヶ原にするのだ」


 私たちはリッペ州に雪崩れ込んだ。私自身も、十日間で一五回の演説を行った。村の公民館、酒場、広場。  私は農民たちの手を取り、老婆の話を聞き、そして熱弁を振るった。ベルリンのエリートたちが鼻で笑うようなドサ回りを、死に物狂いで行ったのだ。


 結果は、圧勝だった。得票率は四〇%近くに達し、ナチスは息を吹き返した。


 たかが田舎の選挙だ。国政には何の影響もない。だが、この「勝利」という事実は、政治的な意味を大きく変えた。


 ベルリンの狐たち――パペンやヒンデンブルクの側近たちは、こう思ったのだ。『ナチスは死んでいなかった。だが、資金難で弱っているのは事実だ。今だ。今なら、安く買い叩ける。ヒトラーは破産寸前だ。首相というポストを与えれば、彼は尻尾を振って我々の軍門に下るだろう』


 皮肉なことだ。私の「弱さ」こそが、最大の武器になったのだ。もし私が強大で、資金も潤沢だったら、彼らは警戒して権力を渡さなかっただろう。「飼い慣らせる」と思わせたからこそ、扉は開いた。


 一九三三年、一月下旬。リッペでの勝利の手応えと、底をついた金庫の現実を抱え、私はベルリンに戻った。  パペンからの密使が、接触を求めてきていた。


 私は、鏡の中の自分に語りかけた。顔色は悪い。目の下には隈がある。だが、瞳の奥の炎は消えていない。


(……見くびるなよ、貴族たち。瀕死の狼が、一番凶暴だということを教えてやる)


 破産の瀬戸際。そこは、終わりではなく、悪魔との契約を結ぶための祭壇だった。私は、魂を売ってでも、権力を買う準備ができていた。

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