表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/49

密室の狐たち

 政治とは、演説と拍手喝采だと思っていた。だが、それは表層のエンターテインメントに過ぎない。権力の深淵において、政治とは「呼吸」だ。  誰の耳元で囁き、誰の足をいつ踏み、誰の背中にいつナイフを突き立てるか。その呼吸を読み違えた者が、音もなく窒息して死んでいく。


 一九三二年、秋。ベルリン。ヒンデンブルク大統領に拒絶された私は、戦術を転換していた。表玄関が閉ざされているなら、裏口を探せばいい。そしてその裏口には、腹を空かせた狡猾な狐たちが、互いに噛みつき合っていた。


 一匹目の狐は、クルト・フォン・シュライヒャー将軍。軍服を着た政治屋。机上の策士。彼はヒンデンブルクの最側近であり、軍部という最強の実力組織を握っていた。彼は「ナチスを手懐け、自分の道具として使う」という妄想に取り憑かれていた。


 二匹目の狐は、フランツ・フォン・パペン男爵。シュライヒャーの操り人形として首相になった、優雅な貴族。彼は国民からの人気は皆無で、議会の支持もゼロ。ただ「ヒンデンブルクのお気に入り」という一点だけで権力の座に座っていた。


 一九三二年、九月十二日。国会議事堂。私は、国会議長であるゲーリングに、一つの演出を命じていた。議場に入ってきたパペン首相は、優雅に「議会解散命令書」という赤い鞄を持っていた。彼はナチスが提出した「内閣不信任案」が可決される前に、議会を解散して逃げ切るつもりだった。


 だが、議長席のゲーリングは、演壇に進もうとするパペンを完全に無視した。パペンが「議長! 発言を求める!」と叫んでも、ゲーリングはわざとらしく他の方を向き、不信任案の投票を強行した。結果は、賛成五一二、反対四二。前代未聞の圧倒的多数による不信任。パペン内閣は、国民の前で公開処刑されたのだ。


 パペンは顔を真っ赤にして退場した。そして、その背中を見て、影で笑っていたのがシュライヒャーだ。彼はパペンを見限っていた。「人気のないパペンでは国が持たない。次は俺がやる」と。十一月、シュライヒャーの策謀により、パペンは首相を辞任させられた。


 ここから、狐たちの殺し合いが始まった。職を追われたパペンは、自分を裏切ったシュライヒャーを激しく憎んだ。「あの軍人風情が、私を利用して捨てたのか」復讐心。それが、閉ざされていた扉をこじ開ける鍵となった。


 一九三三年、一月四日。ケルンにある銀行家、クルト・フォン・シュレーダー男爵の邸宅。夜闇に紛れて、私はその豪邸の裏口から入った。暖炉の火が燃える応接室で私を待っていたのは、復讐に燃える貴族、パペンだった。


 かつて私を「野蛮人」と見下していた男が、今は媚びへつらうような笑みを浮かべて握手を求めてきた。「ヒトラーさん、シュライヒャーの専横には目に余るものがありますな」 「同感です、パペンさん。彼は軍隊を私物化し、あなたのような愛国者を蔑ろにしている」


 共通のシュライヒャーが、私たちを結びつけた。パペンは身を乗り出し、驚くべき提案をした。


「ヒトラーさん、手を組みませんか。私が大統領を説得します。あなたを『首相』にするように。その代わり、内閣の重要ポストは私の仲間(保守派)で固めさせてもらいます。私は『副首相』として、あなたの補佐役を務めましょう」


 私は、喉元まで出かかった高笑いを噛み殺した。なんて愚かな男だ。彼はこう考えているのだ。 『ヒトラーを首相という飾りに据えて、実権は我々エリートが握る。ナチスの大衆動員力だけ利用して、ヒトラー自身は我々がコントロールすればいい』 彼は私を「雇える」と思っている。猛獣使い気取りだ。自分が餌になるかもしれないとは微塵も思っていない。


「……素晴らしい提案です、パペンさん」 私は殊勝な顔で頷いた。「私は首相の肩書きさえあればいい。政治の難しいことは、あなたのような経験豊富な方に任せたい」


 パペンは満足げに頷いた。これで復讐ができる。シュライヒャーを引きずり下ろし、自分がキングメーカーになれると確信したのだ。


 一方、首相の座に就いていたシュライヒャー将軍も、焦っていた。彼はナチスを内部崩壊させようと画策していた。  ナチ党内のナンバー2、グレゴール・シュトラッサー。私と意見が対立していた彼に、シュライヒャーは「副首相のポスト」をちらつかせ、買収しようとしたのだ。「ヒトラーを捨てて、私と組まないか? 君がナチスを割って出れば、まともな政党になれる」


 一九三二年十二月、党分裂の危機。シュトラッサーは揺らいだ。党内には動揺が走った。「ヒトラーの『全か無か(首相か野党か)』という強硬路線にはついていけない。妥協して与党入りすべきだ」という声が上がった。


 私は、直ちにベルリンのホテルに全幹部を招集した。私は泣いた。文字通り、涙を流して演説した。演技ではない。裏切りへの恐怖と、怒りが私を極限状態に追い込んでいた。


「グレゴールは私を裏切った! 敵と内通し、この運動を売り渡そうとした!  諸君! 私は一人になっても戦う!  もし私が間違っていると思うなら、今ここで私を撃て! だが、もし私を信じるなら、最後までついてこい!」


 感情の爆発。理屈を超えたヒステリー。だが、それが党員たちの罪悪感を刺激した。「総統を泣かせるな!」「裏切り者を許すな!」シュトラッサーは孤立し、辞任に追い込まれた。シュライヒャーの「ナチス分断工作」は、私の涙の前に敗れ去ったのだ。


 策に溺れたシュライヒャー。 復讐に狂ったパペン。そして、二人の争いに疲れ果て、判断力を失いつつある老王ヒンデンブルク。


 一九三三年、一月。舞台は整った。シュライヒャー内閣は、支持基盤を失い、死に体となっていた。パペンは大統領の息子オスカーを抱き込み、ヒンデンブルクの枕元でこう囁き続けていた。「シュライヒャーは危険です。彼は内戦を起こそうとしています」「ヒトラーなら大丈夫です。私が手綱を握っていますから」 「ヒトラーを首相にしても、内閣の九割は我々保守派です。彼は包囲されています」


 ヒンデンブルクの「壁」は、外からではなく、内側からのシロアリによって食い荒らされ、空洞になっていた。老人は、毎日のように繰り返される側近たちの囁きに根負けした。「……わかった。パペン、君がそこまで言うなら、あのオーストリア人にやらせてみよう。ただし、君がしっかり見張るのだぞ」


 一月二十八日、シュライヒャー辞任。 一月二十九日、パペンとの最終合意。


 私は、カイザーホーフ・ホテルの自室で、窓の外を見ていた。通りを挟んだ向こう側に、大統領官邸がある。  半年前、門前払いされたあの屈辱の場所。


 ゲーリングが、興奮で顔をテカらせながら入ってきた。「総統! 決まりました! 明日の正午、任命式です!」 「……パペンは何と言っている?」 「彼はご機嫌です。『私はヒトラーを雇った』と吹聴しています」


 私は静かに笑った。雇った? 違うな。お前たちは、鍵を開けたのだ。自分たちが安全な檻の中にいるつもりで、虎の檻の鍵を開け、虎を自分の寝室に招き入れたのだ。


「明日は忙しくなるぞ、ゲーリング」私は鏡の前で、ネクタイを直した。「まずは、大人しく『雇われた首相』を演じてやろう。だが、一度あの官邸に入ったら、二度と出ていくつもりはない。そこを私の城にする。そして、私を利用しようとした狐たちの毛皮で、新しい絨毯を作ってやる」


 夜が明ける。一九三三年、一月三十日。ドイツの歴史が、永遠に変わる朝が来る。


 私は、眠れなかった。興奮ではない。あまりにも長い登山の果てに、頂上がすぐそこに見えた時の、めまいのような虚無感だった。


(やっと、手に入る)


 権力。それは、絵筆などよりも遥かに自由に、世界を塗り替えることのできる魔法の杖。


 密室の狐たちは、まだ夢を見ている。自分たちが賢いと思い込んでいる。明日、彼らが目を覚ました時、そこはもう民主主義の国ではないことに気づくだろう

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ