巨壁ヒンデンブルク
山は、動かない。どれほど風が吹き荒れようとも、どれほど麓の蟻たちが騒ごうとも、岩塊はただ沈黙してそこにある。私にとって、パウル・フォン・ヒンデンブルクという男は、人間ではなかった。彼はプロイセンの栄光そのものであり、ドイツ帝国の墓標であり、そして私の行く手を阻む、苔むした巨大な「壁」だった。
一九三二年、七月三十一日。 国会議員選挙の結果が出た。ナチ党、二三〇議席。得票数、一三七四万票。もはや文句のつけようがない「第一党」だ。国民の三人に一人が私を選んだのだ。民主主義のルールに従えば、政権は私のものだ。私が首相になり、内閣を組む。それが筋書きのはずだ。
だが、ベルリンの空気は冷ややかだった。私の前に立ちはだかる最後の扉、大統領官邸の扉は、固く閉ざされたままだった。その扉の鍵を握る老人は、私を「ボヘミアの伍長」と呼び、側近たちにこう漏らしているという。「あいつを首相にする? 冗談ではない。郵便局長にして、私の肖像切手の裏でも舐めさせておけばいいのだ」
屈辱だった。一三〇〇万人の支持を集めてもなお、あの老いたユンカーにとって、私は所詮、泥にまみれた伝令兵に過ぎないのだ。
一九三二年、八月十三日。私はついに、大統領官邸に呼び出された。ゲーリングとレームを従え、私はヴィルヘルム街の官邸に向かった。突撃隊の連中は「今日こそ総統が首相に任命される日だ!」と沸き立ち、官邸の周りを取り囲んでいた。私もまた、勝利を確信していた。これだけの議席を持っているのだ。無視できるはずがない。老人もついに折れたのだろう、と。
だが、官邸の内部に入った瞬間、私は違和感を覚えた。そこには「カビ」の匂いがした。古びた絨毯、重厚なカーテン、壁に掛けられた歴代皇帝の肖像画。そこは現代の政治が行われる場所ではなく、十九世紀で時計が止まった博物館だった。空気そのものが重く、私の肺を圧迫した。
通された部屋で、杖をついた巨人が立っていた。身長一九〇センチを超える巨躯。岩のような顔に刻まれた無数の皺。そして、感情の読めない白濁した瞳。ヒンデンブルク大統領。八四歳。彼は座ることさえ勧めず、立ったまま私を見下ろした。まるで、不始末をしでかした下士官を叱責する将軍のように。
「……ヒトラー氏」彼の声は、地底から響くような重低音だった。「君の党が第一党になったことは認める。そこで私は君に、副首相のポストを用意しようと思うが、どうかね?」
私は耳を疑った。副首相? 第一党の党首である私に、誰かの下につけと言うのか? 私の後ろには一三〇〇万人の国民がいるのだぞ?
私は怒りを抑え、声を震わせながら答えた。
「閣下、お言葉ですが、私は副首相など求めていません。私が求めているのは、全権です。 ムッソリーニがイタリアでそうしたように、私に内閣を組ませていただきたい。つまり、首相の座です」
その瞬間、巨人の顔色が変わった。怒りではない。侮蔑だ。彼は杖で床をドン、と叩いた。
「全権だと? ……ヒトラー氏、勘違いをしてはいかん。君のような偏った政党、しかも暴力を是とする集団の長に、国家の全権を委ねることなど、私の良心にかけてできない。私は神に対し、そしてドイツ国民に対し、責任を負っているのだ」
彼は私を説教し始めた。騎士道精神について。義務について。そして協調性について。 それはまるで、わがままな子供に言い聞かせるような口調だった。私は言葉を失った。論理が通じないのだ。彼は「選挙結果」を見ていない。「品格」を見ているのだ。プロイセンの貴族にとって、私のような粗野な男がトップに立つことは、生理的に受け入れがたい「汚れ」なのだ。
「君にはまだ、学ぶべきことが多いようだ。……下がってよし」
会談は、わずか十数分で終わった。実質的な「門前払い」だった。私は部屋を出た。屈辱で顔が焼けつくようだった。廊下で待っていたゲーリングが、私の顔を見て表情を曇らせた。「総統、どうでしたか?」 「……あの老いぼれめ」私は吐き捨てた。「彼は私を理解しようともしない。彼は石だ。呼吸する化石だ!」
官邸の外に出ると、カメラのフラッシュが焚かれた。私は無理やり笑みを作ったが、腸は煮えくり返っていた。突撃隊員たちが期待に満ちた目で私を見ている。「やったか?」「天下を取ったか?」 私は彼らに合わせる顔がなかった。
その夜、党本部は重苦しい空気に包まれた。ゲッベルスが叫んだ。「クーデターだ! 突撃隊を動員して、官邸を包囲しましょう! 議席があるのに権力を渡さないなんて、憲法違反だ!」レームも賛同した。「俺の部下たちはいつでもやれるぞ。あの老いぼれをベッドから引きずり出してやる」
私は窓際で、夜のベルリンを見つめながら、彼らの声を背中で聞いていた。暴力。確かに、今ならやれるかもしれない。ベルリンを火の海にし、無理やり権力を奪うことは可能だ。だが、それでは一九二三年のミュンヘン一揆の二の舞だ。軍隊(国軍)は、ヒンデンブルクに忠誠を誓っている。もし内戦になれば、突撃隊など正規軍の前ではゴミのように蹴散らされるだろう。
「……待て」 私は静かに言った。「暴力はいかん。あくまで『合法』だ」
「しかし総統! 合法的に第一党になっても、あの壁が退かないんですよ!」
「壁は、叩いて壊すものではない」私は振り返り、ギラついた目で同志たちを見据えた。 「壁の裏側に回って、土台を掘り崩すのだ。ヒンデンブルクは老いている。彼の周りには、彼の権威を利用しようとする狐や狸がうろついているはずだ。シュライヒャー、パペン、オスカー……。あの取り巻き連中を籠絡し、彼らの手で、あの石像を動かさせるのだ」
私は学んだ。正面突破は、二流の画家のすることだ。一流の画家は、視点を変える。ヒンデンブルクという巨壁には、正面玄関はない。だが、裏口はある。嫉妬、保身、金銭欲、名誉欲。貴族たちのドロドロとした欲望が渦巻く「裏口」が、必ずあるはずだ。
私は感情のスイッチを切り替えた。侮蔑された伍長としての怒りは、冷凍保存しておく。いつかあの老人が死んだ時、その墓前で笑うために。今は、政治家としての冷徹な仮面を被り直す時だ。
「ゲーリング、国会議長として議会を引っ掻き回せ。パペン内閣を不信任で倒すんだ。ゲッベルス、新聞で『大統領の側近たちが政治を私物化している』と書き立てろ。奴らを追い込め。誰も何も決められない状態を作り出し、最後にヒンデンブルク自身が『ヒトラー君、助けてくれ』と泣きついてくるまで、ドイツを麻痺させるんだ」
一九三二年、八月。私の「権力への行進」は、官邸の扉の前で止められた。だが、終わったわけではない。 ここからは、表の選挙戦ではなく、密室での陰湿な騙し合い――「宮廷陰謀劇」の幕が開く。
私は官邸を振り返った。巨大な石造りの建物が、夜闇の中で黒々と聳え立っている。
(待っていろ、元帥閣下。あなたのその重い腰を上げさせるのは、国民の声ではない。あなたの足元に巣食う、シロアリたちの欲望だ)
私は車に乗り込み、深い闇の中へと消えていった。




