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空飛ぶ総統

 神は天にあり、人は地に這う。それが古来からの世界の(ことわり)だ。ならば、空から地上へ舞い降りる者は、人々の目にどう映るだろうか?


 一九三二年、四月。私は、ルフトハンザ航空からチャーターしたユンカース機の、狭く振動の激しい機内にいた。 眼下には、厚い雲海が広がっている。そのさらに下には、疲弊し、傷ついたドイツの大地が広がっているはずだ。プロペラの轟音が鼓膜を叩く。機体は気流に煽られ、木の葉のように揺れる。同乗している秘書や写真家たちは、顔を青くしてエチケット袋を握りしめているが、私は窓の外を凝視し続けていた。恐怖はない。あるのは、かつてない「全能感」だけだ。私は今、ドイツの上空を飛んでいる。物理的に、そして精神的に、私は誰よりも高い場所にいる。


 今回の大統領選挙。私の前に立ちはだかった壁は、あまりにも巨大で、あまりにも古色蒼然としていた。パウル・フォン・ヒンデンブルク。八四歳。第一次世界大戦の英雄。タンネンベルクの戦勝者。彼はもはや政治家ではない。ドイツそのものを象徴する「モニュメント(生きた記念碑)」だ。国民は彼を愛しているのではない。彼という「過去の栄光」にすがりついているだけだ。彼のおぼつかない足取りに、かつての強かった帝国の幻影を重ねているのだ。


「勝てるわけがありません」選挙戦が始まる前、党内からは慎重論が相次いだ。「相手は国民的英雄です。もし惨敗すれば、ナチ党の勢いは止まってしまいます」


 だが、宣伝の天才ゲッベルスと私には、勝算があった。いや、票数での勝利ではない。「イメージの勝利」だ。


 ヒンデンブルクは老いている。彼はベルリンの官邸からほとんど動かない。演説もラジオで数回流すだけだ。彼の選挙戦は「静止画」だ。ならば、我々はどうするか。徹底的に「動く」のだ。それも、誰も見たことがないスピードで。


 作戦名は『ドイツ上空のヒトラー(Hitler über Deutschland)』。


 飛行機を使う。まだ多くのドイツ人にとって、飛行機は空を見上げて指差すだけの、遠い未来の乗り物だった。それを政治活動に使うなど、狂気の沙汰だと思われていた。だが、だからこそやるのだ。朝、ベルリンで演説。昼、ミュンヘンで演説。 夕方、ハンブルクで演説。夜、フランクフルトで演説。


 一日でドイツを縦断し、四つの都市、数十万人の聴衆の前に姿を現す。これは「遍在」の演出だ。ヒトラーはどこにでも現れる。ヒトラーは空から来る。ヒトラーは疲れを知らない超人である。老いぼれたヒンデンブルク(過去)対、空飛ぶヒトラー(未来)。この対比を、国民の網膜に焼き付けるのだ。


 機体が大きく揺れ、高度を下げ始めた。目的地のフランクフルト上空だ。窓の外は激しい雷雨だった。稲妻が翼のすぐそばを走る。パイロットのバウアが緊張した顔で操縦桿を握っている。 「総統、天候が悪すぎます! 着陸は危険です!」 「降りろ、バウア。彼らが待っている」


 私は命令した。悪天候こそが、最高の舞台装置なのだ。フランクフルトの飛行場には、五万人の群衆が集まっていた。彼らは冷たい雨に打たれながら、数時間も空を見上げていた。「もう来ないのではないか」「中止だろう」不安が広がりかけたその時、厚い雨雲を切り裂いて、銀色の機体が現れる。


 轟音と共に着陸し、タラップが降ろされる。ハッチが開き、私が姿を現す。その瞬間、雲の切れ間から太陽の光が差し込む(という演出のような偶然も、何度かあった)。


 「来たぞ!」「ヒトラーだ!」「空から降りてきた!」


 爆発のような歓声。それは政治家を迎える声ではない。神話の英雄、あるいは「メシア(救世主)」を迎える、宗教的な絶叫だ。彼らにとって、私は文字通り「天上から降臨した男」に見えたはずだ。


 私はタラップを降り、濡れた滑走路を大股で歩く。疲れは見せない。睡眠不足で充血した目は、逆に「憂国の情熱」として映る。演壇に立ち、私は叫ぶ。政策など語らない。「ドイツよ、目覚めよ!あの老いた英雄に、敬意を表して引退させてやろうではないか!彼は過去の象徴だ。だが、私は君たちの未来だ! 彼には休息を! 私には権力を!」


 一日に四回の演説。それを二週間続ける。喉は潰れ、身体は悲鳴を上げ、耳鳴りが止まない。だが、アドレナリンが私を動かし続けていた。私は感じていた。ドイツという巨大なキャンバスに、飛行機雲という筆で、私という存在を刻み込んでいる手応えを。私は、自分が人間以上の何かに変異していくのを感じていた。


 四月十日。  決選投票の結果が出た。


 ヒンデンブルク:一九三五万票(五三・〇%)

 ヒトラー:一三四一万票(三六・八%)

 共産党テールマン:三七〇万票(一〇・二%)


 負けた。数字の上では、完敗だ。やはり「伝説」の壁は厚かった。国民の半数以上は、未知の冒険よりも、老いた安定を選んだのだ。


 党本部では、党員たちが落胆していた。だが、私はシャンパンを開けた。ゲッベルスも、満面の笑みを浮かべていた。


「総統、大勝利です」 「ああ、大勝利だ」


 一三〇〇万票。四年前には泡沫候補だった男が、現職の大統領、それも建国の英雄相手に、三六%もの国民の支持をもぎ取ったのだ。これは「敗北」ではない。「宣戦布告の完了」だ。


 ヒンデンブルクは勝ったが、その権威は傷ついた。彼は「国民全員の父」ではなくなった。「ナチスを嫌う半分」の代表に成り下がったのだ。対して私は、「新しいドイツを望む一三〇〇万人」の絶対的なリーダーとして認知された。


 そして何より、私が空から蒔いた種は、確実に芽吹いている。子供たちは空を見上げ、「あそこにヒトラーがいる」と囁き合う。  農民たちは「天候をも恐れぬ男」として私を崇める。テクノロジー(近代技術)と、ミソロジー(古代的信仰)。  この二つを融合させた私は、もはや地上の政治家たちとは違う次元の存在になったのだ。


 翌朝、私はベルリンのホテルで、窓の外の国会議事堂を見下ろしていた。ヒンデンブルクは、あの大統領官邸で、老体に鞭打って執務を続けるだろう。だが、彼の時間は残り少ない。砂時計の砂は、音もなく落ちている。


 私は、地図を広げた。次の戦場はどこだ? 七月には、国会議員選挙がある。大統領選で獲得した一三〇〇万の熱狂を、今度は議席という「実弾」に変える時だ。


「ゲッベルス、飛行機をチャーターし続けろ」私は指示した。「私はまだ降りない。ドイツ人が首を痛めるほど空を見上げさせろ」


 空飛ぶ総統。それは単なる移動手段の話ではない。俯瞰(ふかん)する視点。人間を、街を、国家を、上空から「模様」として眺める神の視点。その冷酷な視座を手に入れた時、私は真に、この国を支配する資格を得たのかもしれない。


 高度三千メートル。そこには雑音がない。あるのは、純粋な青と、眼下に広がる私の「作品」だけだ。さあ、次は議会を奪りに行こう。合法的に、圧倒的に。空からの爆撃のように、票の雨を降らせてやる。

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